幕が開いたタイミングに合わせて、シーリングをゆっくりと上げる。
雑踏が少し大きく鳴り、緩やかに落ち着く。シーリングから放たれた白熱球の熱が夕闇の涼しさを取り払い、興奮と相まって僅かに手に汗が滲んだ。
暗かった舞台を想定通りの茜色に染め上げることに成功した。舞台奥には花壇と自販機、中央にはウェザリングでどこか古めかしく加工されたベンチ。どこにでもありそうな、夕方の公園がそこにはあった。
ブザー音によって、期待に満ちていた会場の熱が緩やかに静まる。
下手からはゆっくりと男子高校生が疲労を滲ませた足取りで登場した。
花壇の手前で押していた自転車を置くと、背負ったリュックと自分の体をベンチへと投げつけた。程よくボルトを緩めたベンチが、客席でも分かる程度に軋んだ。
「あー……疲れた」
体勢を変える度に響くベンチの軋みが、男子高生の疲労感をなおのこと演出していた。リアリティを求めるという目的のためだけに準備したものだが、この結果は予想外の効果を生んでいた。
いや、もしかすると柴田はそれを理解していて、あえて芝居の中に取り入れたのかもしれない。
観客の意識は既に、言葉少なに座っている男子高生に向けられていた。
今日という日が終わり、彼の胸の内にあるのは後悔だけ。そんな彼に何があったのかは、これから明かされていくことだ。
「もう動けねぇ。足ガクガク……」
悔恨を抱いたまま天を仰いで脱力していると、上手から足音が響いてきた。上手から入りの女子大生だ。
カツカツとヒールの音が鳴り、登場した彼女の姿で会場は息をのんだ。
「はぁ、はぁ……! きゃっ!」
鬼気迫った女子大生の表情に気圧され、観客達には瀬田薫の登場を喜ぶ余裕すらない。
ヒールを鳴らしながら走ってきた彼女はベンチの前のあたりで盛大に転び、観客席からは戸惑ったような息遣いが聞こえてきそうだった。
「嘘、ヒール折れてる!? ……あー、もうサイアク」
「あの、大丈夫ですか?」
地面に座り込んだ女子大生に、男子高生がベンチから立ち上がって声をかけた。
女子大生は周囲を見ていなかったのか、男子高生の姿を驚きながらも把握し表情をすぐに軟化させた。
「あ、ごめんね、恥ずかしいとこ見せちゃって」
「いえ、気にしないでください。……座ります?」
「ありがとう、ちょうど足が痛くて。やっぱり、ヒールで走るもんじゃないよね」
二人がベンチに座る。
このタイミングで僅かに間を開けたことで空気がいったんリセットされ、会場は再び静かな空気に戻った。
会場の空気にまで気を遣う、さりげない演技だ。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。ヒール折れたのと、ちょっとすりむいちゃったくらいで」
「大変じゃないですか!? ちょっと待ってくださいね」
男子高生が救急キットを取り出し、女子大生は彼のリュックの形状に目を止めた。
「テニス? 準備がいいのね」
「よくケガするんで。いつも準備してるんです」
「私も大学でやってるけど、そういう人いないな」
「そうなんですか? 僕がどんくさいだけっていうのもあると思いますけど」
「そんなことないって」
女子大生が優しい口調で男子高生の言葉を否定した。
「それに言葉、無理に敬語にしなくても大丈夫よ?」
「あー……いやでも流石に……」
「気にしないで。私が堅苦しいの苦手なだけだし」
「そうなんですか? ……って、あ」
「ごめんごめん。難しいこと言っちゃったね。気にしないで、話しやすい方でいいよ」
「すみません、年上の人に敬語使わないのってなんか変な感じで。……手当てするんで、脱いでもらって大丈夫ですか?」
「ありがとう」
男子高生がベンチから立ち上がり、女子大生の前で膝立ちになる。
照明を一段階落とし息を吐く。
空に合わせて色を変え続けなければいけないので、僕達に休む暇は存在しない。
「このくらいは別に」
台本をめくり、次のページに進む。
だいたい5分に一度くらいの頻度で変更する予定だから二時間で24回。他にも演出で一部変更をするので、合計すれば30回くらいにはなるんじゃないだろうか。
「おっとと……」
「ちょっと、大丈夫ですか?」
少し台本を確認していると、いつの間にか中年男性が登場していた。
リストラされた事実を家族に告げることができず、再就職先をずっと探している人物だ。真面目で温厚だが、人の頼みを断ることもできず、結局はこうして首を切られてしまっている。
「歳かなぁ、やっぱり」
缶コーヒーを買った彼は疲れた様子でそれを傾けた。
「仕事ですか? お疲れ様です」
「いや、私はクビ…………あ」
「首?」
「えっと、首の辺りが痛くて仕方ないんだよ。やっぱり机仕事は堪えるって言うかね」
高校生と中年男性が上手側で話している間に、下手側ではシンガーソングライターがなれた手つきで路上ライブの準備をしている。
「あー、そこの人達、よかったら聞いていかない?」
「路上ライブ?」
「そうそ。一応、オリジナルの曲歌うけど、リクエストも受け付けてるよ。知ってる曲なら弾き語りするしさ」
少し小柄な格好には少しだけ大きいアコースティックギターを抱え、彼女は組み立て式の椅子に座った。
「いつもは全然人いないけど、今日は盛況だね」
ギターをかき鳴らしながら彼女は嬉しそうに笑った。
プロを目指して、地方からこの街に出てきた。バイトをして生活費を稼ぎながらライブやイベントに挑む日々。小さなライブイベントに少しだけ呼ばれることもあるけれど、夢のデビューというにはまだ遠いのが現状だった。
「ってまあ、いきなり言われても困るよね。じゃあ、最初はアタシの歌を聞いてもらおうかな」
観客三人はベンチに座り、歌手はその三人が見やすい位置に移動した。
組み立て式の椅子を用意してギターを構える。
「それじゃ、ちょっとだけね」
歌手の彼女はもともとギターができたわけではないが、ギターの演奏ができた瀬田さんに少し教えてもらったそうだ。もちろん技術としては大したものではないのかもしれないが、芝居に演奏技術は必要ない。観客に
そもそもマイクもなしに音を客席後方まで届ける手段はないので、自然と効果音に頼ることになる。
雑踏の音が時間をかけてフェードアウトし、歌手が演奏を始めたタイミングに合わせてギターの演奏が始まる。これは、一番最初に新藤さん達がイメージしていたBGM探しで登場したギター曲。本来はBGMとして使う予定だったけど、こうして演奏の曲として再利用されることになった。
歌手がギターを弾きながら歌う。
歌詞はもともと台本にあったものを、曲に合うように改変したものだ。ちょっと大変な日常を面白おかしく歌ったもので、考え方を変えれば今日は少しだけいい日になるというもの。
『みんな、大丈夫そう?』
「
『二階席も大丈夫だよ』
『舞台袖も特にトラブルはなし』
新藤さんから確認が来たけど、他のところも特に問題はないようでよかった。
今回は特殊な演出を数多く入れていることもあり、不測の事態はいつ起こるか分からない。ライトの調子が悪い、みたいな既知のトラブルならともかく、夕焼けの演出関係の問題が発生したら即座に対応できるか自信がない。
「最近は不審者も確認されているんだ。君達も危ないから気を付けた方がいい」
「どんなことしてるんですか?」
「スケッチブックを持ち歩いて、住宅街で何かを書き込んでいるらしい。夜間に現れるそうで、空き巣の準備をしているかもしれないからね」
歌手の歌が終わったので、ライブ中に通りがかるOLと主婦の二人が既に舞台に登場している。さらにもう少しだけ話は進んでおり、今は警官の登場シーンだ。
誰よりも親切で怖がりな彼は、罪を犯している人に近づくことができない。悪い人からみんなを守れるようにと警察になったのに、少しぐれた子供に声をかけることさえままならない。
いざという時に勇気が出なくて、仕事に向いてないと言われた彼は、この不審者の件を解決できなければ警察を辞めることすら考えないといけないから。
「不審者ってなんか大雑把でよく分からないですよね。なんか、とってつけたような感じで」
「まあ、実際に事件を起こしたというわけでもないからね……」
「ちなみにどんな感じだったら不審者なんでしょうね?」
「見た目ってこと?」
「こう……全身黒ずくめみたいな」
「それ、殺人犯じゃないのかい?」
「ですよねー」
話がテンポよく進む。
ここからはコミカルに話が進んでいくパートだ。BGMも雑踏の音から、少しポップな雰囲気の曲に切り替わる。
僕もライトの段階をまた一つ変化させていく。日没にはまだ少し早いが、東の空は既に紺色に染まっている。日没になるのは舞台の中盤から後半に近くなった辺りなので、現状ではまだだが遠くないうちに西の空もこの色に染まっていくのだろう。
「実際の不審者は身長が175cm程度で細身。スケッチブックを持ちながら歩いているんだけどね」
「…………」
「…………」
「…………」
下手向きの警官が手でサイズ感を示しながら話していると、上手から不審者の格好にそっくりな青年が登場する。
彼こそが不審者と呼ばれている正体、美大生だ。
「呼びました?」
「あああああああああ! 出たァ!!!!!!!!!!!」
「幽霊みたいですね」
「そんなに目が死んでたら、幽霊にも見えちゃうよ」
美大生はその軽薄そうな容姿には似合わないほどの死んだ目で警官の肩を叩いた。
幼い頃から絵の才能があると言われ、実際にコンクールで賞も取り続けてきた。実力も自信もあった彼はそのまま美大に進学したが、現実は非情だった。
現実の美大は美大生のように才能があると言われた人間だけが入る場所。いや、美大生以上の才能の持ち主の方が多いといっても差し支えなかった。
将来の生活もままならない不安から不眠症を患った彼は、いつも絵を描き続けている。
それは絵が好きだからではない。ただ、絵以外に自分の強さを知らなかったからという強迫観念に過ぎない。
「っき、きききききき君が、不審者かい!?」
「ちょっと、お巡りさん落ち着いて」
「だって、刃物とか持ってたらどうするのさ!」
「それこそ警察の担当では?」
警官は驚きすぎて主婦の後ろに隠れている始末だ。
中年男性が美大生に相対しており、何かあった場合は彼が被害を受けるような構図になっている。
「あ、ああああ危ないですよ!」
「だからお巡りさんがなんとかしてくださいよ!」
「無理です無理です!」
「あの……何の話っすか?」
美大生が戸惑った様子で首をかしげている。彼は事情を把握してない。
「君、最近この辺に出ている不審者だろう?」
「不審者……?」
「ああ。悪いことは言わない。君もまだ若いんだ、将来もあるんだから……」
「将来……?」
「今ならまだ間に合う。今からでも」
「間に合う?」
中年男性が必死になだめようとしているが、美大生は逆にショックを受けたような顔をしている。
「マジか……落ちることろまで落ちたな……」
「あ、あの、君」
「卒業後の進路も見えないと思って寝ずに描き続けたのに、そうしたら今度は犯罪者呼ばわり……」
自分には才能がないと分かったから、今度は努力を始めた。そこで折れる奴らも多かったけど、美大生はその挫折を新たな始まりにすることができる人間だった。
周りが大学をやめたり評価されたりする中で、美大生はどちらにもなれなかった。
描いても描いても絵は評価されず、されど諦めるにはもったいない程度の可能性があった。
不安はいつか眠りを彼から奪い去り、昼は大学で制作をして夜は街中を歩きながら景色を描き続ける。筆を止めたら、本当に終わってしまうような気がしてならないから。
「だが、描いても描いても認めてもらえない。技術はある。だがそれだけだ。俺には致命的にセンスが足りない、と。だから」
「お兄さん、一曲聞いていかない?」
「曲? ……ああ、アンタもそういう口か」
「うん。だから、どうかな?」
「頼むよ」
歌手の問いかけに美大生がうなずいた。
プロを目指して努力してきた。でも、誰にも認められなかったから。認めてもらえないままだから。
「君には、この曲を贈るよ」
BGMが止む。歌手がギターを弾くのに合わせてギター曲が流れ出す。
音楽と絵。それぞれの分野は違うけれども、きっとつながるところはあるはずだから。
「…………」
歌手が歌い始めると、美大生はおもむろにスケッチブックを開いた。
弦とペンが走り、二人はお互いだけを見つめている。
凄いねと褒められてきた。それを純粋に信じてきた。自分には才能があると思ってきた。
それを世辞だと分からなかったから。現実を知らなかったから。子供のままだったから。
だから二人はここにいる。この街の中で、誰にでも許された公園にしか居場所を見つけることができなかったから。
やがて、曲が終わった。同時に美大生もペンを止めた。
周囲からは拍手が送られ、二人はお互いに頭を下げあった。
「……凄く、良い曲だった」
「君の絵も素敵だね」
美大生の絵を見ながら歌手が笑った。
ほんの数分の出来事だったはずなのに、寂しそうで、でもどこか力強い歌手の姿が描かれていた。
美大生はスケッチブックからその絵を切り離して歌手に差し出した。
「礼だ。今は価値がないが、十年もすれば数万にもなるだろう」
「じゃあ、私の演奏と一緒だね」
現実は非情だ。二人はまだそれぞれの道で生きていけない。
だけど、ずっとみんなが認めてくれてきたから。家族や友人はその背を押してくれたから。
なにより、違う場所で同じように歩いている仲間がいると分かった。そして、その仲間が認めてくれたから。不安な気持ちは今もあるけれど、まだもう少しだけ頑張っていくことはできる。
二人はまだ、挫けない。
「私、もうちょっと頑張ってみるよ」
「俺も。まだ時間はあるからな」
二人はそれぞれの荷物をしまい、立ち上がった。みんなに手を上げて挨拶をすると、二人は上手と下手それぞれにハケていった。
ライトをまた一段階切り替える。
夕日は既に沈み、空はもう地平線付近が僅かに赤らんでいる程度だ。
「結局、何もできなかった」
「別に犯罪者とかではなかったんですから、それで良いじゃないですか」
「それは、そうだけど……」
「みんな怪我がなくて良かった」
「おじさんが話し出した時、本当に怖かったですよ」
ビビっている警官を慰めている主婦。
最近引っ越してきた彼女だが、家族との関係が上手くいっていない。旦那は仕事、子供は部活で帰りが遅く、三人暮らしのはずが孤独な気持ちばかりが胸に募る。
いったい自分は誰と生きているのか、不安定な足場にいるような気持ちが消えてはくれない。
「いつもそうなんですよ……大事なタイミングで怖がって動けなくて、だから僕は……」
「大丈夫ですよ、お巡りさん」
それは、きっと自分に向けた言葉でもあった。
引っ越す前は仲のいい家族だった。ただ、生活リズムが変わって一緒にいられなくなっただけだ。だから、勇気を出せば前に進めるはず。
そう分かってはいても、頭で理解しても勇気が出るわけではない。
「そうですかね?」
「お巡りさんは、ちゃんと自分のこと分かってるじゃないですか」
何をすればいいのかは分かる。それをするだけの技術と体力もある。だって、ずっと誰かのために頑張れるように頑張ってきたのだから。
警官に足りないのは、それを行動に移す勇気だけだ。
「なら、奥さんも大丈夫ですよ」
警官は微笑んだ。
「だって奥さん、こうして僕に声をかけてくれたじゃないですか」
どんな人かも分からない、会ったばかりの人にだって優しく声をかけられるのだから。
ならば、家族とだって話すことができるはずだ。仲良くあったはずの家族だったのだから。
「今も怖くて仕方ないですが、少しずつでも頑張らないといけないんですよね」
勇気の出し方なんて分からない。
だけど、こんな優しい人を助けてあげるためならば、少しだけ頑張れるはずだから。
勇気の在り処なんて分からない。
だけど、自分には確かに勇気があったのだと、教えてくれたから。
「今から、さっきの学生さんに声かけてきます。結局、深夜に歩き回っている件について注意くらいはしておかないといけませんから」
「私も、帰ったら家族と話をしてみます」
人は一気に変われないから、今変われる範囲で変わるしかない。
毎日一歩を踏み出すだけの勇気を持つことができたのなら、きっと遠いいつかは憧れた場所へたどり着けているはずなのだから。
主婦と警官がお互いに頭を下げあって別れた。
二人とも駆け足気味に、きっと辿り着きたい場所に向かって。
「追いつけるんですかね?」
「どうだろう? でも、大事なのはそこじゃないと思うし」
「追いつけたらいいよね」
男子高生、女子大生、OLが話していると、中年男性がぼうっとしている。
ライトをさらに一段階切り替えて、時間を確認した。
時刻は既に一時間を大きく過ぎており、残りの時間もかなり少なくなってきた。
「……ふぅ、もうちょっと」
『はい、頑張りましょう』
マイク越しに大和さんの声が聞こえた。
耳元で囁かれているような気がして全身が熱くなるが、すぐに頭を振って雑念を払う。
みんなの問題は解決していない。
歌手と美大生は頑張ったところで現状は何一つ変わらないし、警官と主婦は勇気を出したところで好転するとは限らない。
今までの、大和さんへの想いを引きずり続けた僕には分らなかったけど。この想いを振り切った今の僕ならば、きっと彼らの気持ちが分かる。
僕の、山科遥の才能ならば、きっと彼らのことを魅力的に照らすことができるはずだ。
「……よし!」
一度だけ深呼吸をして、僕は台本のページをめくった。
舞台としては内容が多いので、セリフに関してはかなり削っています。作品を知るのに必要な情報は地の文で補っているところが多いですね。本当はもう少し台詞を多めにしたいのですが、舞台のセリフだけってあまりにも状況が分からなすぎるので……。正直、兼ね合いが難しくて上手く書けてない気もします。
binary starは8人、不幸の最中にいる人が登場する話です。それぞれを二人セットにして、お互いに関わり合って前に進むような形になっています。ここまででは、歌手と美大生、警官と主婦ですね。