見慣れた景色が流れていく。
羽丘は僕の家と青蘭の間にある。電車の駅でいうなら僕の家・羽丘・青蘭の順だから、羽丘は定期券の利用圏内だ。青蘭は夏休み期間中も夏季授業があり、定期券は継続しているので羽丘への交通費はかからない。
交通費がかからないというのは、お金のない高校生にはありがたい限りだ。
一駅過ぎてちょうど電車が止まり、人が乗り降りするタイミングで空いた席に座る。今日は妙に早起きしてしまったせいで少し眠い。着くまでに数駅はあるので、先に少し寝ておくことにしよう。
足元に下ろしていたリュックを持ち上げて、抱き込むようにして体を丸める。
後は黙って目を閉じれば、ぐっすり眠れ――
「あれ、山科君?」
――なかった。
「や、大和……さん?」
「おはようございます。山科君もこの電車だったんですね」
そこにいたのは、まぎれもなく大和さんだった。
僕に手を振って隣の席に座ると、イヤホンを外してカバンにしまった。
「山科君もこの電車を使ってたんですね」
「はい。いつもはもうちょっと遅いんですけどね」
早起きしたこともあって、今日は少し早めに家を出た。
いつもはこの時間には乗らないけれど、席はいつもより空いているし起きれるならこの時間に出るのは悪くないかもしれない。
「大和さんはいつもこの時間なんですか?」
「はい。ジブンは、いつもこの時間のこの車両ですね。ここからだと、降りやすいので」
「そういうのありますよね」
降りる時に都合のいい場所で乗るというのは僕もやる。実は青蘭の最寄り駅で降りる時も、この車両に乗っておくのが一番都合が良かったりする。
「そういえば、昨日は夜にメッセージ送っちゃってすみません」
「いえいえ。こちらこそ見てくださって嬉しいです」
お互いに頭を下げ合う。
改めて調べてみるといろいろな番組に出演しているらしく、僕としては今までパスパレのことを全く知らなかったのが申し訳なくなってくるほどだった。
アナウンスが流れ、扉が閉まる。
出だしの衝撃に少し体を揺らし、電車は再び動き出した。
「知ってる人がテレビに出てるのって初めてなんで、なんだか不思議な感じでした。兄さんはパスパレのファンだったみたいで、すごい興奮してましたよ」
「そうなんですか?」
「はい。……それで、実はお願いがあるんですけど」
僕が恐縮しながら大和さんの方を見ると、大和さんは思い当たることがあるような、納得した表情を浮かべた。
「サインですか?」
「ええ。他の皆さんの分もお願いしたい、って。……できるんですか?」
よく知らないけれど、アイドルのサインをこんな方法でもらっていいのだろうか。事務所とかに文句言われないだろうかと不安になってくる。
「そこは一応確認してみますね。大丈夫だったら、皆さんにお願いしてみます」
「すみません、ありがとうございます」
「気にしないでください」
快諾してくれたことに礼を言ったところで、大和さんが「あ」と声を上げた。
「山科君の分も欲しいですか?」
「僕の分、ですか?」
「はい。今のはお兄さんの分、ということだったので」
それは全く考えていなかった。
「えっと……」
兄さんの分もあるし、そもそもパスパレのことを全く知らなかった僕がもらってもいいのだろうか?
「そんなの気にしないでください。まだジブン達のことが知られていないなら、ジブン達はそれ以上にパスパレのことを知ってもらえるように頑張るだけですから」
そこには、誰かに届かない、という気持ちはないように見えた。
必ず、すべての人達にパスパレの音楽が届くと確信しているような表情。そこには何の理由付けもなかったけれど、不思議とうまくいくのだろうと感じた。
気づけば、言葉は自然と口に出ていた。
「……なら、大和さんのサインをください」
「ジブンの、ですか? 他の皆さんのは?」
「大和さんのだけでお願いします」
「それでも、大丈夫ですか?」と、大和さんの方を伺ってみる。
「その、こういうのもあまりよくないと言われているんですけど……ジブンのでいいんですか?」
「大和さんのが、いいんです」
大和さんや兄さんから聞いて分かるように、他の人もきっと素敵な人達で多くのファンに元気を与えているのだろうと思う。
だけど、結局のところ僕は他の人達を知らない。
僕がこの舞台で自信をもって頑張れるように応援してくれたのは大和さんで。大和さんだからこそ、僕はその証がほしいと思った。
僕が大和さんに出会って、確かに勇気をもらえたのだという、その証を。
「……分かりました。山科君の分もお渡しできるように聞いてみます」
「わざわざ、ありがとうございます」
大和さんはスマホを取り出して、どこかにメッセージを送った。早速、確認の連絡を飛ばしてくれたらしい。
「分かったらまた連絡しますね」
「お願いします」
そして、アナウンスが鳴った。
次が羽丘の最寄り駅だ。
「じゃあ、行きましょうか」
僕達は荷物を持って立ち上がった。
今回の舞台「Binary Star」はとある公園を舞台にして物語が進行していく。
試合帰りの高校生、ストリートライブをするバンドマン、リストラを家族に告げられない中年男性、近所に住む主婦等々、公園を訪れる人々の群像劇だ。
場転はなく、この公園だけで物語は進む。
気を抜く暇など一切存在しない、二時間の体力勝負になることは考えるまでもなかった。
「役者も決まったことですし、今日は細かい小道具類について話し合いましょうか」
昨日の時点である程度の音響と照明、大道具についての話し合いは終わっている。
これは別に確定したという訳ではなくて、役者の演技等によって今後変わることもある。
今回の小道具は特に役者に影響される要素が大きいので後回しにしていたが、役者が決まったので考え始めることができるようになった。
とりあえず役者の決まった台本を眺めてみると、すぐにあることに気が付いた。
「……僕、羽丘の人のこと全然知らないです」
「ジブンも青蘭側の方は全然分からないですね」
「まあ、まだ始まったばかりだしね」
役者のイメージが分からなければ決めるものも決められない。
担当を作って知っている人が決めてもいいが、せっかく一緒にやっているのだからできれば三人と役者本人で決められると嬉しい。
「じゃあ、最初は役者の方を見に行ってみます?」
「そうですね。今は、読み合わせの途中でしょうか?」
「だと思います。柴田が意気揚々と台本持っていくのが見えたので」
席を立って役者側の方を見に行くと、そこでは役者が円を作って読み合わせをしているのが見えた。
そこから少し離れたところでは、裏方になった人達がベンチやパネルを綺麗にしている。少し剥げていた塗装を修復する作業をしてもらっていて、今のところは順調に作業が進んでいるみたいだ。
「うん、読み合わせしているみたいですね」
「じゃあ、少し見に行ってみましょうか」
台本だけ持って役者達の近くに移動する。
今はちょうど柴田と瀬田さんの二人の場面になっているらしく、二人が台本と相手を見ながら読み合わせをしていた。
「座りますか?」
「ありがとう。ちょうど足が痛くて痛くて。ヒールで走るもんじゃないわね」
「うわ、たっか……すごく走りにくそうですね」
「まあね。君のは走りやすそうでいいわね。部活帰り?」
「大会の帰りです。あっちの運動公園でテニスの大会があって」
「あー、あそこね! 分かるよ、私も大学でテニスサークル入ってるから」
いつもは少し不機嫌気味で固定されている柴田の顔が、今は少し自信なさげな青年のものになっていた。瀬田さんの方もいつもの王子様然とした独特な口調はどこにもなく、とても女性らしい雰囲気を感じさせてた。
瀬田さんは王子様的なキャラしかやらないのかと思っていたが、こういう女子大生の役をやることもあるらしい。それが、とても意外だった。
「薫さんは、演技に関してはストイックな人ですよ。きっと、今回も素敵な演技をすると思います」
「へぇ……すごく信頼してるんですね」
「まあ、薫さんはうちの花形ですし。山科君だって、柴田君のことを信頼しているんじゃないですか?」
「そうですね。柴田はきっと、瀬田さんに負けないくらい演技には真摯ですから」
今日は読み合わせの初回。
一回目の読み合わせの時点ではほとんどの役者が台本を見たままでしゃべることが多い。台本の内容を覚えきれていないからだ。しかし、先ほどから二人はお互いを見合っている。それはつまり、二人が台本の内容をある程度覚えていることの確かな証拠だ。
一日もない間に、柴田は必死になって練習してきたんだろう。そうやっていつも頑張ってきた姿を知っている。
他の役者の番も聞きながら簡単にではあるけれど、台本の隅にメモを取っていく。
キャラのイメージはもちろんだけど、役者の雰囲気や出てくる場面の雰囲気も併せて記録しておかなければいけない。
もちろん今回が初回の読み合わせであるから、キャラの雰囲気などはこれから大きく変わることも多い。しかし、とっかかりとして理解するのは大切なことだ。
場面が徐々に進み、コメディからシリアスな場面に切り替わる頃だ。
この二つの場面のメリハリをつけることは、今回の舞台の重要なポイントに関わってくる。
「じゃあ、それなら私はどうなるっていうの!」
瀬田さんの怒号が聞こえて、思わず顔を上げた。
先ほどまでは年下の男の子をからかう大人の女性だった。しかし、今は歯を食いしばって憎悪の色さえも感じさせるほどに表情が歪んでいた。
周囲の空気が一気に張り詰めたのが分かる。
「君がそんなこと言ったら! 私は! いったい何のために頑張ってきたっていうの?」
瀬田さんとはほとんど話していないけれど、彼女もきっと柴田と一緒なのだろうと思った。
この表情は即興で作りこめるほど単純なものではないことくらい、演技に疎い僕にだってわかる。きっと、役が決まってから読み合わせまでにしっかりと読み込んで、役のイメージを少しでも固めてきたのだろう。
ふと柴田の方に目を向けると、その瞳には熱が灯っていた。
「じゃあ、無駄だったんですよ! 僕も! 貴女も! 結局、時間を無駄遣いしてきただけなんだ!」
僕が柴田を部活のターボエンジンと呼ぶ理由はこれで、初回からこれだけの演技を見せられれば、どんな役者だってやる気に火が付く。部活に本気で打ち込んでいる人も、ちょっとした趣味程度の人も、その人が役者である限りこの胸の高鳴りには勝てないはずだ。
今回は瀬田さんと柴田という、二人のターボエンジンがいる。
この舞台でも中心のキャラを演じる二人が、この舞台の演技レベルを向上させるだろう。
「こらこらこら、ちょっと熱くならない。どうしたんだよ二人とも」
そこで、他の役者のセリフが入る。
僕が大和さんと話していた時よりも役に近付いている気がした。いや、もしかすると、少しだけ役者自身の本音が混じっていたのかもしれない。
「……あ、もうこんな時間」
不意に時計が目に入り、読み合わせを聞き始めてから舞台の半分以上を聞いていることに気が付いた。
チラリと役者を見渡す。少しだけ聞いているつもりが、それなりの時間が経過してしまっている。少なくとも羽丘側の生徒の様子を知ることができたのなら、僕は撤退しても構わない。
僕は大和さんと葛西さんの二人に近付いた。
「……僕はとりあえず大丈夫だけど、二人は?」
「私も大丈夫かな」
「ジブンも、最低限は把握できたと思います。細かいところは、また後で本人を呼んで相談しましょう」
小声で話すと、そっとその場を離れる。
役者や監督達は、読み合わせに入り込んでいて気付く様子もなかった。
役者側はまだ読み合わせの後の話し合いが終わらないようで、裏方の方は先に昼食を取っておくことにした。
パネルやベンチを修復していたみんなは作業をしながら仲良くなったようで、その面子で昼食を食べに行ってしまった。葛西さんは昨日と同じで弁当派の人達と部室で食べるらしい。
結局、一緒に食べる仲間もいない僕と大和さんは二人で食堂で食べることになってしまう。
「みんなが仲良くなったのは良いんですけど、なんで僕達は仲間外れにされてしまったのか……」
「あ、あはは……なんででしょうね」
なんとなく面白がられて二人にさせられたんだろうということは、考えなくたって分かった。
現に、少し離れたところで僕達の方を見て面白がっている見知った顔がいるからだ。……修復終わったら、絶対に面倒な仕事させてやる。
「…………はぁ」
「ま、まあ、気にしないようにしましょう」
「そう、ですね」
苦笑している大和さんを見つめる。
どうやら何人かは、僕と大和さんがそういう関係になるのではないかと面白がっているらしい。確かに、僕にそういった気持ちが全くないと言うと嘘になるだろうけど、大和さんはどうなんだろうか。
大和さんは僕のことを“男子になったジブン”と評してくれた。ならば、この気持ちもすらも、僕達の共通項になるのだろうか。
……いや、止めよう。
「冷めちゃいますし、食べましょうか」
「はい。いただきましょう」
思考を止めて、大和さんとの昼食に専念することにした。
どれだけ考えたところで分かる話ではないし、仮に好き合っていたとしても戸惑いが先に来て素直に喜べる気がしなかった。
「大和さん、やっぱりまたうどんですか?」
「安くて早いですからね」
そもそも、こちらに向いている視線を除けば、大和さんと二人で話す時間があるというのは悪くなかった。周囲に気にすることなく機材の話を聞かせてもらうことができるから。
「そういえば、作業してて思ったんですけど、羽丘の演劇部は割と用語を多用するんですね」
「そうですか? ジブンはあまりそこまでだとは思わなかったんですけど……」
「僕のところが少ないからかな?」
業界というものがあれば、用語というものが出てくるのは必然だ。
演劇の世界も歴史がそれなりにあるので、用語もそれなりに存在している。
「分からない用語とかありました?」
「いえ、用語は使わないだけで把握はしてますけど」
大会ではプロのスタッフさんに手伝っていただくことがあり、そうした時には用語が当たり前のように出てくるので理解はしている。でも、普段使う理由はないので、部活の時は特に用語を使うことはあまりない。
「普通に使うものなのかな、と」
こういうことを言うのはよくないかもしれないが、高校生の間の部活動としてでしか関わらない世界の専門用語をここまで覚えて使うのだろうか。
……いや、なんだかんだで覚えているわけだし、使うところは使うか。
羽丘の演劇部は世間一般の演劇部とは雰囲気が違いすぎるので、なんとなく先入観があったかもしれない。
「ジブンは仕事の方でも多少使いますから。なので、皆さんが使うのもジブンの癖が移ってしまったのかもしれないですね」
「なるほど」
大和さんはアイドルになる前にはスタジオミュージシャンだったらしいし、現場のプロということになるのだろう。
「そういえば、どうして大和さんはスタジオミュージシャンになろうと?」
「どうして、ですか?」
「はい。スタジオミュージシャンといえども、舞台に立つ場面もあるでしょうし。こういうのもどうかとは思うんですけど……」
「ジブンが表に向いてる人間には見えない、ですか?」
「あー……はい」
本人に言い当てられたので肯定する。
僕や大和さんはあまり表舞台に立つ方のタイプではないと思う。それは別に嫌いだからとかではなく、それ以上に裏方が好きであるはずだから。
「確かに、ジブンも表に出るよりは裏で仕事をするのが好きですし、性にあってると思います。でも、どこか変わりたいと思っているジブンもいたんです」
「変わりたい?」
「はい。……あの時の、引っ込み思案だったジブンから、もっと一歩先に踏み出せるジブンに」
その言葉に、妙な反抗心を抱いた。
別に、表に立つのがつまらないとか良くないとか、そんなことを思っているつもりはない。僕だって脇役で舞台に立ったことがあるけれど、あの時の胸の高鳴りを覚えている。
あの感覚のために舞台に立っている人がいるのを、僕は確かに受け入れているはずだ。
でも。……いや、だからこそ。
大和さんにそう言われてしまったことに対して、どこか黒い感情を抱いていた。まるで、裏切られてしまったような、身勝手な気持ち。
「少し、意外でした」
僕は、自分の内の黒い感情を出さないように言葉を選んだ。発した言葉に僕の心がチューニングされて、少しだけ気持ちがフラットに戻る。
気持ちを落ち着けるなんて、簡単な
「山科君は、そう思ったことはないですか?」
「僕、は……」
僕は表に立ちたいと思ったことがあるのだろうか?
「……ない、です」
僕は舞台に立つよりも裏方でいるのが好きだ。あの、客席の上から舞台を見ていたいと思っている。
自分がステージに立つ側になりたいなんて、思ってもみなかった。
「舞台の上でライトを浴びて、メンバーと一緒に演奏するのはすごく楽しいです。ジブンはバンドというものに憧れていましたから、余計に今のパスパレの活動が好きなんです」
大和さんは僕のことを似ている人だと表現したけれど、それはきっと間違いだ。
「へぇ」
僕達の間には大きな差が確実にある。
それは、僕達の中ではあまりに重要過ぎる要素だった。
この気持ちは共感なんかじゃない。
僕と大和さんは別の人で、決して似た者同士でも何でもなくて。
……それなら、
「なおのこと、ライブが楽しみになってきました」
僕が大和さんへ抱いているこの気持ちは、いったいなんだっていうんだ?
今までのエピソードでは「共通点」をメインに描いてきたので、ここからは少しずつ「二人の差異」も描けていければと思います。
僕が演劇部だった時は、最近作られた作品や部で作った脚本をやることが多く、少なくともシェークスピアの舞台をやってるところは見たことなかったですし、用語を多用するほどのこともなかった印象です。
なので、羽丘の演劇部は山科君(作者)の視点からいうと、ちょっと変わった演劇部みたいに描かれ続けると思います。