窓の外から見える入道雲は、山の向こうから西の空を覆うように伸びていた。
教室に吹き込んでくるぬるい風がページを勝手にめくり、ノートの端がパタパタと音を立てる。半袖から伸びた白い腕はじわりと汗をにじませ、定期的にズボンで汗をぬぐう。
「暑い……」
七月も終わるこの時期の昼間は暑い。特に今日は天気もいい分、気温がいつもより高くなっている。
校舎の外から聞こえてくる車や蝉の声をBGMにして、板書された内容を必死にノートに書き写していく。
「えーっと、この和歌にはいくつもの技法が使われていて、そのひとつ目が文章中で触れられている、カキツバタ、を頭に持ってくることだ。こうした、和歌の各句の先頭に特定の言葉を置いて詠む技法を、折句という」
先生が各句の先頭を丸で囲うのを見て、ボールペンで同じように囲って“折句”とメモをしてボールペンを机に放り投げた。
「この和歌には、他にも多くの修辞法が使われていて、これから順番に説明していくぞ」
昨日の大和さんの言葉が、僕の心のどこかに詰まったままだった。
僕は裏方として話の合う大和さんを気に入っていたのだと思っていた。確かに、大和さんは僕よりも機材の知識に詳しくていろいろなことを教えてくれる。何よりも、裏方として頑張ることの熱意に関して同意見でいてくれる人を僕は彼女以外に知らない。
そんな大和さんに表にも立ってみたかったと言われ、僕は裏切られたような気分になった……はずだ。
だけど、問題はそこじゃない。
最も重要なのは、僕がそのことで
僕が大和さんを明確に好きだと思えるようになったのは、機材が好き、裏方が好きという共感だったはずで。
だからこそ、その前提が崩れてしまえば、僕の気持ちは一緒に失われてしまうものだと思っていた。
「じゃあ、いったい……」
僕の気持ちは、どうして揺らいでいないのだろうか。どうして僕は大和さんのことを好きだと、この指向性の分からない好意を抱いたままなのだろうか。
それが、昨日の大和さんとの会話をした後から、僕がずっと考えていたことだった。
「だから、この和歌には二重の意味が込められている、ということだ。……っと、時間は――」
と、先生が時計を確認したところでチャイムが鳴った。
思考が途切れ、反射的に顔を上げる。
先生がチョークを黒板において、軽く手を払った。
「じゃあ、ここまでか。続きは次回にするから。ここまでの内容はしっかり確認しておくことな」
それだけを言い残して先生が教室を出た。それを何となく見送ってから、考え込んでいる間に書き込まれた板書を手早く写していく。
今日の授業はこれで終わりで、それぞれ部活や遊びに行くことになる。
青蘭演劇部はすぐに羽丘に移動して練習を始めることになるだろう。昼食は道中で適当に買って食べるはずだ。実際、僕がそうするつもりだったし。
「っと、危ない」
板書を写し終わった僕は、すぐにスマホを取り出した。
「連絡しておかないと……」
昨日、青蘭にあるスーツの様子を確認するという話をしていたので、この後に見に行くつもりだった。他のみんなは今にも荷物をまとめて出ていくだろうから、僕が到着するのはみんなよりも少し遅れてしまうはずだ。
とりあえず、演劇部のグループで衣装を着る予定のメンバーを呼び出すのと遅れる旨を簡単に連絡する。高橋から『了解』のメッセージを受け取ると、すぐに大和さんとのトーク画面を開いた。
ほんの少しだけ打つ内容を考えて、文字を入力する。
|
……簡潔すぎるかもしれないけど、変なことするよりはましか。
大和さんからの返信は、荷物をまとめ終わった頃に届いた。
|
|
|
|
|
面白味もない内容だけど、なぜか気持ちが高揚していく感覚がした。実際、口元が少し上がっているのが自分でもよく分かる。
頭の中でこんがらがっていたこと全てがどうでもよくなってきた。
大和さんはアイドルでいようが裏方でいようと大和さんだった。
僕が大和さんへの好きだという気持ちが変わらなかったのは、大和さんがどこにいようと大和さんでしかなかったから、なんだろう。
「それだけ、か」
単純なことだと気が付いたら、もうどうでもよかった。
気持ちは一気に上向きになり始めて、口笛さえ吹いてしまいたくなってくる。
もしかすると、ただ悩みを先送りにしているだけなのかもしれない。
「山科!」
「今行く!」
でも、裏方として一緒に働く大和さんがいなくなるわけではないのなら、今はそれで充分だった。
部室のカギを借りて衣装のケースを漁れば、スーツは思いの外あっさりと出てきた。
埃は特にないし、強度的な部分に関しても問題はなさそうだ。問題はサイズだけだけど……。
「大丈夫そう?」
「ああ、問題ない」
試しに着てもらったが、動くのに不都合がないようだった。
目の前で屈伸や軽いダッシュをしてもらったが、動きを邪魔するような部分はなさそうだ。
「じゃあ、衣装はこれをベースにしようか」
「頼むわ。なんか他に衣装や小道具で用意した方がいいものってあるか?」
「うーん…………あ、カバンくらいはあったらいいかも。サラリーマンが持ってるような、あの、手持ちの感じの」
名前が出てこないけど、肩掛けだったり手持ちだったりが自由な、革製のバックが脳内のイメージにある。
「これだよな? ビジネスバッグって」
スマホを出してパパっと調べる。
見つかると没収されかねないので周りを確認するのも忘れない。
「うんうん、これこれ。というか、そのままの名前だったんだ……」
「分かりやすくていいじゃん。ともかく、こういうのだよな。部室にあるか?」
「見覚えはない、かな。羽丘の方にないか少し確認してみるよ」
「おう。なかったら親父にでも借りてくる」
「分かった。それでよろしく」
それだけ打ち合わせをして、スーツを回収する。問題はなかったのでこのまま羽丘に持って行って、向こうにしばらく置かせてもらうことにする。調整も、向こうで練習する以上は向こうでした方が効率もいい。
「あれさ、裏ってどんな感じ?」
「どんな感じって? 一応、イリハケのタイミングは教えてもらったし、音響と照明の簡単なところは決めたよ」
「いやいや、そっちじゃなくって」
大きく肩を落としながら、チッチッチとわざとらしく指を振られる。
演劇部に入って役者をするようになると、こういう動作が素で出るようになる人がいることがある。日常の単純なジェスチャーよりも、少しだけ動きが大きくて遠くからでも見やすい動きだ。
こういう姿を見ると、演技の習慣がしみついてしまっているんだろうなと思う。
「俺は役者側の子しか知らないけど、裏の方はかわいい子いないの?」
「そっちかぁ」
「そりゃ、そっちに決まってんだろ」
言いたいことを理解して苦笑した。でも、男子校の僕達からすれば当然の反応ともいえる。
男子校で女子と関わる機会なんて、今回を逃したらいつになるか分からない。
「うーん……羽丘の人、みんな美人だからなぁ」
「それな。顔面偏差高すぎだろ……気後れしちゃうぜ」
「本当に?」
「ほんとよ、ほんと。いやぁ、緊張しちゃって全然喋れないのなんの」
そう言って大げさに肩をすくめて見せるあたりなんて、実際に緊張しているような様子はみじんも感じさせない。女の子にもこの調子で喋っているような気がしてくる。
「んで、結局どうなの? オーディションやってた子とは喋ったけど、専属の裏方してる二人とは喋ったことないんだよね」
脳裏を、大和さんと葛西さんの顔がよぎる。
「大和ちゃんってさ、あのパスパレの大和麻弥でしょ? テレビにも出てるアイドルだぜ、やばくね?」
「そういわれると、そうか……」
僕の知った順序が逆だっただけで、普通の人は
「二人だと、葛西さんの方が話しやすそうかな。初対面でも冗談言えるくらいには気安いかな。趣味とかはあんまり知らないけど、しっかりした人だなって思う」
「なんか曖昧だな」
「あ、それと照明ができる」
「それ、山科以外に刺さんねーよ!」
ツッコミの手が入ってお互いに笑う。
確かに、アピールポイントとして照明の技術が入っているのもおかしい話だ。
「大和さんの方は、なんて言ったらいいんだろう? 大和さんの言葉を借りるなら、女子になった僕、かな」
「なるほど、分かったわ」
「早くない!?」
「十分だろ。テレビでも見てるイメージも合わせるなら、重度の機材オタク。これで完璧だろ」
「僕より詳しいし」
「そこは張り合うところじゃないし、何のフォローにもなってねーよ!」
「ステージにも立つし」
「それは山科もだろ?」
テンポよくボケとツッコミを繰り返す。二人で話す時はいつもこの調子だ。
「ま、山科とほとんど変わらないのな。それはそれで話しやすそうだ」
「それで決めつけちゃっていいわけ?」
「問題ないだろ? 山科は普通に話せてるんだろ?」
「うん」
普通に話せている……と思いたい。
少なくとも、僕の気持ちが伝わっていなければ、それで構わない。
「最低限、お前が話せる関係でいるなら問題ないだろ。お近づきにはなりたかったけど。俺、イヴちゃんが好きなんだよ」
「ぶしどー、の人?」
「そうそう。めっちゃ可愛いんだぜ? 俺、グッズもあるの? 見る?」
「別に、今はいいかな」
ちょっと意地悪するように断ると、案の定オーバーリアクションで落ち込んで見せてくれる。
「パスパレっていうか、アイドルには、あんまり興味はない、かな」
パスパレはあまり詳しく知らない方がいい気がした。
「そうか」
「うん」
あまりに知りすぎれば、僕が大和さんを今まで通りに見る自信がなかったから。
「すみません、遅くなりました!」
結局、タイミングのいい電車がなかったこともあり、到着は予測していたよりも少し遅くなってしまった。
慌てて部室に駆け込めば、大和さんがこちらに気付いて近づいてきてくれた。
「山科君、お疲れ様です! 衣装はどうでしたか?」
「これです。本人も着た感じ問題なかったみたいなので、これで行きたいと思います」
持っていたスーツを渡す。
大和さんは簡単にスーツを広げて様子を確認した。
「お、いい感じですね」
「それはよかった。……ちなみに、ビジネスバッグってありますか?」
「ビジネスバッグですか? いや、なかったと思います」
「まあ、ですよね」
スーツの衣装がなかった時点でそうだろうとは思っていた。
ビジネスバッグは、本番までにお父さんに借りて用意してもらうことになるだろう。
「今は何の作業を?」
「山科君が来るまでは、とりあえず指示出しの方を。一応、使うであろう物を整理して出してもらう作業ですね。ちょうど指示出しが終わったところです」
「なるほど」
今、ほかのメンバーがいない理由は、それを取りに行ってるからということだろう。
「話し合いは昨日で終わってますよね? なら、そろそろ……」
「はい! 今日から、実際に制作に取り掛かれればと思っています」
土日をかけて話し合いをしてきた。
大まかな舞台の方向性があって、それに合わせた大道具や小道具、衣装のことも決めた。
カレンダーを確認すれば、残りは一か月を切っている。
お盆の時期にはみんなが帰省することがあるだろうということで、事前に8月10~15日を盆休みに設定している。少し長いのは、これ以外に休みを一切作ることがないから。
これを差し引けば、実際に活動することができる日数は3週間もない。
いつも通り一時間の舞台であるなら多少の余裕を持って取り組むことができるのだけれど、今回やるのは二時間の舞台だ。単純計算で倍の時間がかかってしまうわけだから、余裕をもって取り組むなんて考えてはいられない。
練習後半では実際に体育館で通しを行うことになるはずだけど、道具の運び込みに午前を費やすだろう。台本通り2時間の通しをして、その反省会をするので同じくらいの時間は要する。すると、一日に一度しか通しができない計算になってしまう。
余裕をもって舞台を始められるようにするには、公演日の一週間前である8月18日を目標にリハができるようにしておきたい。
と、逆算的に日程を組んでいくと、裏方が準備をするのに与えられた時間は既に二週間を切っている。
今決まっているのはあくまでも舞台を一切見ることなく決めたものであり、実際に舞台に立つことで出てくる問題点というのはたくさんある。それの修正も……と考え始めると、本当に手が回らないのだ。
「それじゃあ、さっそく買い出しですか?」
「そうですね。自分と山科君で行こうと思うんですけど、大丈夫ですか?」
「ええ、もちろんです。葛西さんはこっちに残って指示出しを?」
「涼さんはジブンよりも指示が上手ですし、モチベーションを維持するのが得意ですから」
アメとムチの使い分けがうまいんです、と大和さんがしみじみと呟いた。
「それと、青蘭はいつもどこで買い出ししてますか?」
「うちですか? うちは、いつもショッピングモールですよ、線路沿いのところにある」
この辺りで品揃えのいい店はあまり多くないし、複数の店をわざわざ渡り歩くのも大変だ。
その点でいえば、ショッピングモールはモール内の店でほぼすべてが揃うので重宝している。
「それで、お店がどうかしました?」
「いえ、ジブン達もそこで買い物するんですけど、他にもお店をご存知ならそっちによることも考えようと思っていただけです」
「昔はうちの近くの商店街とかも使ってたらしいですけど、ほとんどシャッター街になってしまったので……」
基本的な買い物はあそこで済ませることになる。
お互い同じ場所で買い物しているわけだし、今回もショッピングモールに向かえばいいだろう。
「大和さんは準備できてますか?」
「はい、大丈夫です。山科君は?」
「僕の方も大丈夫ですよ」
メモ帳、スマホ、シャーペンといった簡単な作業や確認ができるものだけ用意している。
台本は大和さんの方が持っているようなので、僕が用意しておく必要はないだろう。
「じゃあ、涼さん! 二人で買い出しに行ってきます!」
「帰るときにはまた連絡するから」
「わかったー! 荷物多そうなら応援向かわせるから、いつでも連絡してねー!」
「お願いします」
葛西さんに対してそれだけ言って、僕達は教室を出た。
ショッピングモールは、夏休みの時期ということもあり人でにぎわっていた。
いつも僕が買い出しに来るときは土日の昼過ぎと客の多い時間帯になるけれど、今日はそれ以上に人でにぎわっている。
「とりあえず、どこから行きましょうか」
「人が少ない場所がいいですけど……」
見渡してみるが、人の少ない場所、というのが全く見当たらない。
「……とりあえず、下から見ていきますか? 古着屋が二階にありましたよね?」
「スポーツショップの隣ですね。ちょうどそこにもよるつもりですから、そこから行きましょう」
行先を決めて移動する。建物の中は分かっているので、特に調べることもない。
肩を並べて通路を歩いていると、ふとあることが気になった。
「大和さんは、その、変装みたいなことはしないんですか?」
芸能人がそういうことをしているイメージが、なんとなく頭の中にあった。
でも、大和さんは眼鏡をしているかという違いはあれど、他に何かをしている様子はなかった。
「最初は自覚がなかったからなんですが、今までに一度も声をかけられたことはないのでそのままなんです」
「一度もないんですか?」
「ないですね。周りの皆さんが有名すぎて、ジブンはあんまり目立たないというか……」
脳裏に瀬田さんの姿が浮かぶ。
瀬田さんは普段から芝居がかった言動の人だし、確かに大和さんよりもはるかに目立つかもしれない。
「薫さんはこの辺の有名人ですし。ジブンもパスパレでは人気の方というわけでもないですから。こうして声をかけられることはないですね」
「そうなんですか……」
意外と言いたかったが、正直なところ大和さんが周りから「パスパレの麻弥ちゃんですよね!」みたいに言われている姿の方が想像できない。
こうして見ている分には裏方気質がにじみ出ているので、アイドルのイメージとつながることはない。
「まあ、こうして声をかけられないおかげで買い出しに来れているので、そこには少し感謝ですね」
フヘへ……と、大和さんが苦笑する。
声をかけられていれば、来れていなかったのは事実だ。
「あ! あそこですね、行きましょう。まだ昼過ぎとはいえ、時間は足りないくらいですし」
「ですね。ちょっと急ぎましょうか」
そして、僕達は少しだけ足を速めた。
買い出しは、始まったばかりだ。
今回は前回と次回の場つなぎみたいな感じなので、割と場転とかが増えてます。申し訳ない。特に内容が薄い気もする。だからこそ、書くのつらいんですが。
まあ、次回はデート回(?)なので許して。別にイチャコラしないけど。