Bloody Masquerade   作:ヤーナム製薬

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獣狩りの夜は終わらない



1. First Hunt

 月明かりだけが照らす静謐な世界。

 

 赤く、大きな月が照らす悍ましい世界。

 

 青年は燃え盛る工房の中で狩りの準備をしていた。

 

 永きに渡って使い続けてきたノコギリ鉈を修理し終わった彼は柩のような道具箱の中身を漁っている。狩人に必須である輸血液に水銀の弾、怪しげな秘薬や神秘的な触手など、出し惜しみなく全ての道具を持ち出して行く。

 大量な道具の数々は青年の懐に余すところなく収まった。物理的に不可能なはずの現象は、繰り返されてきた経験のために全く可笑しいと感じなくなっていたことに気が付いた。

 咽び泣くように轟々と燃え盛る工房の中、彼は悼むように古臭い内装を一瞥し、扉に向かって歩き始めた。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

モヤモヤとした白い霞が掛かったような感覚。それは目の前の出来事なのに、どこか遠い出来事のように感じていて、言いようのない違和感が私に纏わりついてた。

 彼は工房の外へと歩きだし、ゆっくりと思い出を噛み締めるように進んでいった。私はプカプカと宙に浮かびながら、彼の周りをグルグルと回っていた。

 そこでようやく、私は思い出したのだった。

 

 

___あっ、これって夢だった

 

 

 これがいつもの夢の続きだと、私は漸く自覚した。

美しい人形に別れを告げる青年を横目に眺めながら、私は一体いつからこの夢を見続けているのだろうと思い返していた。

 

 これは10年前のあの日から時折、文字通り思い出すように見る夢だった。この夢はヤーナムという異邦の地を旅する一人の青年の記憶を辿る、そんな夢であった。

 彼はいつも帽子を深くかぶり口元をマフラーで覆っているために顔立ちやら年齢やらは不明であるが、話し声から若年の男性であることは予想できた。服装はヤーナムの伝統的な狩り装束と呼ばれるものらしく、体の一切を覆い尽くした黒づくめの中世風な装束であり、不気味なヤーナムの雰囲気と合わさってダークファンタジーを連想させた。

 

 夢の中で私はいつも青年を見下ろすような視点に浮かんでおり、彼の冒険を傍観しているのだ。私は彼に触れることができず、彼もこちらに気が付くことはない。一方的でいて不完全な干渉が私たちの関係であった。

 彼は多くの化け物と戦っていた。血に塗れた獣に触手まみれの化け物、名状しがたい数多の生き物を殺し尽くし、そして嘗ては人間だった物を殺し尽くした。

 彼は少しの人間と触れ合っていた。夢の世界はどこまでも静謐で、空に浮かぶ赤い月を背景に辛うじて正気を保っている人々と互いの正気を確かめるように言葉を交わしていた。

 

 夢の中における青年の活動は()()と呼ばれるものであった。私が目にする青年の姿のほとんどは、狩人として多種多様な冒涜的な存在と対峙する青年の姿であった。

 自分がこの世界で戦っているとすればこんなに恐ろしいことはないが、所詮は夢なのだ。第三者視点で青年が戦っているのを眺めているだけなので、実際あまり怖くはない。

 正気を削るような化け物が出た時に直ぐさま目を瞑ることを忘れなければ、ちょっとしたアクション映画を見ている気分で居られるのだ。昨今はグロテスク成分満載のバイオでハザードな作品やらが手軽に楽しめる時代であるが、私の夢で味わえる臨場感は現実では得られないものだろう。そう考えると、なんだかお得な気分になる。

 

 そうこう考えているうちに、青年は淡く輝く白い花で埋め尽くされた庭園に立っていた。彼は大樹の元に佇んでいる老人と何やら会話を交わしている。幾つか言葉を交わしていると、やがて老人は悲しげに表情を歪め、青年をまっすぐに見つめた。

 老人は確かめるように青年に問いかける。青年の選択が嘘であってほしいと願うように。

 

「なるほど、君も何かに呑まれたか。狩りか、血か、それとも悪夢か?」

 

 狩り、血、悪夢。今までの夢でそれが大事なことであったのは知ってはいた。それが指す意味も、無い頭を捻って考えはした。けれども夢で見る情報は断片的で、それらが意味するものを結局理解することはできなかった。

 

 しかし、青年は全てを理解したのだろう。理解してしまったうえで、彼は答えに辿り着いたのだろう。

 

 青年はその問いかけに言葉で応じることはなく、ただ武器を構えることを応答とした。

彼は手に馴染んだノコギリ鉈を構え、青白く輝くナメクジを擦り付けていくと、無骨な銀色の刃はナメクジの粘液によって神秘的な白濁に覆われていく。

 深く被った帽子の奥に隠れたその瞳が寂寥感に揺れたように感じた。それでも、青年は確固たる意志を以って老人に刃を突き付ける。

 

 その姿を眺める老人の表情は変わらずに悲しげであった。堪える様に小さく震え、小さく溜息を吐く。老人はやがて未練を振り払うようにかぶりを振ると、弱弱しい眼差しを虚空に彷徨わせて独り言ちた。

 

「まあ、どうでもよい。そういう者を始末するのも、助言者の役目というものだ」

 

 徐に老人が車椅子から立ち上がる。年季を感じさせる銃器を左手に、古めかしくも鋭い輝きを放つ刃物を右手に、一歩だけ足を踏み出す。

 助言者と自称するに相応しい、厳格でありながら慈愛を感じさせる様子は見る影もなくなっていた。そこにあるのは、処刑者染みた冷酷さを感じさせる歴戦の狩人の姿だった。

 

「ゲールマンの狩りを知るがいい」

 

 そう告げると、老人は大きく刃を振りかぶった。

 

 

 

***

 

 

 

 青年と老人が血で血を洗うような闘争の火蓋を切ってから、どれだけの時間がたっただろうか。最新鋭のゲームや映画でも表現できないような生々しい迫力に満ちた殺し合いは華々しくもあり、それでいて背筋の凍るような悍ましさを湛えていた。

 最古の狩人と最新の狩人が技術の粋を集め、ただ相手を殺すために全霊を尽くす。月だけが照らす闇夜に、舞い踊るような銀色の閃光が絶えず閃き、ぶつかり合っては火花を散らす。足元を埋め尽くす白い花の上で黒衣が翻り、時折赤い雫が鈍く水気を帯びた音を奏でて大地を濡らす。一種の芸術のような闘争が、私の目の前で繰り広げられている。

 

 しかし、永遠に続くと錯覚するような戦いの終わりは呆気ないほどに突然だった。

 

 実に呆気なく、青年の振りかざした一太刀が老人の体に食い込み、肉を噛みちぎり、生命を咀嚼した。零れ落ちる臓物と共に夥しい量の血が舞い飛んでいく。真っ赤なしぶきの一粒一粒が鮮明に目視される。そして、赤い雨が幻想的な白い庭の一角に降り注ぎ、儚げな花々を鮮やかに染め上げた。

 致命傷は避けたものの多くの傷を負った青年と、ただ一つ致命的な傷を負った老人は息を荒げて見つめ合っていた。青年は達観したような様子で、老人は諦観したような様子で佇んでいた。やがて老人は糸が切れたように膝をつき、咳込みながらもポツリと呟いた。

 

「・・・すべて長い、夜の夢だったよ」

 

 最後にそう呟いた老人はどこか満足げな表情で倒れ伏した。それを見届ける青年の顔は相変わらず隠されているが、彼の心は涙を流しているように私は感じた。青年は祈るように片手を胸の前で握り、老人の亡骸はゆっくりと青ざめた霞に消えていく姿を眼に収めていた。

 そんな青年の姿に私はどうしようもなく心を搔き乱された。私は知っているのだ、彼がどれほど悲惨な戦いに身を投じてきたのかを。彼が弱音も吐かず、涙も見せずに戦い続けたことを。無辜の民を慮り、心を交わした友人を大事に思い、そして助言者の老人をこの上なく尊敬していたことを私は知っている。だからだろうか、彼に届くはずがないのに、私は思わず言葉をもらした。

 

 

___悲しかったら、辛かったら涙を流していいんだよ

 

 

 まるでその言葉に反応するように、彼は此方に振り返る。

 

 予想外の反応に、私は驚きのあまり飛び跳ねる。今までいくら語り掛けても反応がなかったために、私はひどく混乱してしまったいた。

 まずは自己紹介をするべきだろうか?いや、それとも勝手に彼の姿を覗き見していたことを謝るべきだろうか。そもそもなんで私は言い訳を考えているのだろうか。一方的に知っているだけの人とのコミュニケーションなんて初めてだしどうすればいいのか皆目見当がつかない。ここまでテンパったことが今まであっただろうか。

 

 混乱しきっている私の事情など知らんとばかりに、彼は歩み寄ってくる。彼が紳士的であることは知っているが、それ以上に異形の者への容赦も皆無であることを私は知っている。幽霊っぽさ満点だろう私への対応は推して知るべし。

 だんだんと近づいてくる彼が何やら剣呑な雰囲気を纏っていることに気が付いた私の脳内は完全に真っ白になりかけていた。なんでもいいから話さなければという強迫観念にかられた私は兎にも角にも口を動かした。

 

___あわわわ、えっと、その、・・・こんばんは!

 

 挨拶は大事。たぶん、このタイミングですることではない気もするけど。しかし、彼は私の渾身の挨拶を無視して立ち止まると、そのまま空に浮かぶ大きな赤い月を見上げたのだった。なんだか気まずい無言に耐えられず、私は意を決して話しかけた。

 

___あっ、あの~。その、・・・こんばんは~

 

 少し震え声になりながらも、確かな声量で発した挨拶にそれでも彼は反応しなかった。やっぱり怒っているのかな、と思ってビクビクしていたが無言を貫く彼に違和感を覚える。

 よく思い出してみると彼は此方を向いたが視線は私に向いていなかったし、彼の視線は空に浮かぶ月にだけ向けられていた。思い切って彼の肩をポンポンと叩いてみるが、いつも通り何かに阻まれて触れることができない。耳元で大声を出しても全く反応がないことを確認すると、彼が今まで通り此方を認識していないことを確信したのだった。

 

___あー、もうっ!ビックリしたじゃん!!

 

 私は自分の醜態を彼に見られなかったことに安心すると同時に、今日も彼に気付いてもらえないことに少し寂しくもあった。何だか恥ずかしい気持ちで一杯になったので八つ当たり気味に彼の背中をポカポカと叩いてみるが、やっぱり彼が気付くことはない。バカー、アホー、と本心では思っていない悪口をかましてみても、やはり彼は私の存在を認識してくれなかった。

 

 ひとしきり悪態を付いて落ち着いたところで、青年が変わらずに剣呑な雰囲気を携えていることに気が付くと、ふと疑問が生じた。彼は()()()()()警戒をしているのだろうか?

 彼がジッと見つめている視線の先を、私も追ってみる。そこには星一つない真っ暗な空を照らす赤く大きな月だけがあった。よく目を凝らしてみて、ようやく私にも見えてしまった。月に重なるように、ナニカが空から降ってくる姿が。それは赤く黒ずんだ冒涜的な触手を丸めたような姿をしており、丸まった触手が解けていくにつれて、名状しがたき姿が明らかになっていった。

 

 そして、そのナニカが私を一瞥した様子を目にしてしまった。

 

 私は反射的に眼を瞑った。ソレは、人の世界に存在してはいけない化け物だ。身の毛もよだつような恐怖に背筋が凍り、自分が死んでしまったかのように体温が下がっていく。歯の根が噛み合わず、カチカチと不安げな音が響く。

 あの姿が恐ろしい。まとう空気が、雰囲気が、死の気配が、圧倒的な上位者の存在感が恐ろしい。そして何よりも、私の中で芽吹いた一つの疑問がこの上ない恐怖を駆り立てた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 自分が自分でなくなっていくような、無意識の底に溶けていくような感覚に沈んでいく。いっそ、自殺してしまった方が楽になれるなんて考えが頭の中で大きく主張している。死んでしまいたい、死にたくない。狂気の底に叩き込まれた私は限界を迎えていた。

 

 ガサリと、赤く染まってしまった花々を踏みしめる音が耳朶を打つ。凍え切った私の体を包み込むような、温かな気配を感じる。それに気が緩んだ私は、少しだけ瞼を持ち上げた。

 

 私の視界には、青年の大きな背中だけが広がっていた。名状しがたい化け物から私を守るように、青年が毅然として佇んでいた。

 

 青年は先ほどの戦いでボロボロになった外套を風に乗せて脱ぎ捨て、襤褸切れみたいになった皮の手袋を投げ捨た。そして、深くかぶっていた帽子を弾き飛ばし、口元を隠していたマフラーを解き、彼は振り返った。

 そこではじめて私は青年の顔を見た。東欧系の整った顔立ちは意外なほど若く、私と同年代のように見えた。短く整えられた黒い髪とシュッとした顔の輪郭は鋭さを感じさせるものの、宇宙色の深い青を閉じ込めた瞳は優しげであった。

 時間を忘れたかのように見つめ合っていると、彼は相好を崩して小さくお辞儀をした。彼の視線は私の後ろ、老人が倒れ伏していた方向を向いていた。自分の手で屠ってしまった尊敬すべき老人に対する思いを、最後に形にしたかったのかもしれないと私は思った。私は彼に満面の笑みで、ありがとうと告げた。それに気づいた様子もなく、彼は再び化け物に向かい合った。

 

 これが最後の戦いになるのだろうと、私は根拠もなく夢想した。目の前の化け物を見て怖気づかない人間はいないだろう。それでも彼は立ち向かうのだろう。恐怖を乗り越え、終わりのない悪夢を終わらせるために。

 そして彼は、散歩の中で今日の天気を話すように何気なく告げた。

 

「きっと今日は、狩りに相応しい日だ」

 

 普段通りの変哲もない口調であったが、しかしそれは万感の思いが込められた言葉だった。今日で全てが終わるという確信に満ちた、そんな言葉だった。青年はゆるく握りしめたノコギリ鉈を片手に、自然体で一歩を踏み出す。

 

 彼の後姿を眺める内に、意識がだんだんと明瞭になっていくことを感じる。きっと私の夢もここで終わるのだろう。他人事のように思っていたけれども、いつの間にか彼に対して随分と感情移入をしていたなあと思い、それがどうにも愛おしく思えてきた。

 あなたのことを応援している、あなたの勝利を願っている、きっとハッピーエンドが訪れるって信じている。そう思って絞り出した声はきっと、やっぱり彼には届かないのだろうけれど。それでも、私は伝えたいのだ。

 

 

___あなたは悪夢に負けないよ

 

 

 そう、祈るように言葉を捧げた。

 いつも通りに彼が化け物へと挑み、狩りへと身を投じる姿が見える。その景色は遠ざかっていき、やがて私は夢から覚めていったのだった。

 

 

 

***

 

 

 

 ガタンゴトン、ガタンゴトン。

 

 規則的に響く電車の走行音を目覚ましに、私は夢から覚めた。未だに意識は朧げではあるが、座席のほどほどに固い感触や耳を打つ周期的なリズム、春先の生ぬるい空気に五感が刺激されて此処が現実の世界であることをようやく意識する。

 まだ夢の中で感じた興奮や恐怖、安堵の感情が冷めやらないまま、私立月光館学園への転校手続きに関する書類や、巌戸台分寮への入寮に必要な書類を念のためにもう一度確認する。

 年頃の乙女にしては随分と少ない荷物をかき分けて目当ての書類を見つけ出し、書き漏らしがないことを確かめた。しかし、これらを今日中に提出することはできないだろう。ある程度時間に余裕をもって家を出たのは良いのだが、予想以上に遅延した電車のおかげで窓の外はすっかり暗くなっていた。この調子では目的地に着いた頃にはすっかり夜が更けているだろうし、今日中に手続きを終えることは不可能だろう。流石に今から宿を探すのは面倒なので、せめて寮に入れるように夜更かしが好きな寮生がいることを祈るばかりだ。

 

 現実的なことを考えていると、ふと先ほどの夢を思い出す。彼はあの後、どうなったのだろうか。彼は狩りを成就したのだろうか、それとも悪夢の底に飲み込まれてしまったのだろうか。所詮は夢に過ぎないはずなのに、私にはどうしても現実にしか思えず、真剣に彼の無事を祈っていた。

 そんな私の意識を遮るように、巌戸台駅への到着を知らせる電車のアナウンスが響いた。私は急に現実に引き戻され、慌ただしく荷物をまとめ、飛び出すように電車から飛び出したのだった。

 

 

 

***

 

 

 

 巌戸台に降り立つと、駅前は雑然としていて、正直に言って汚かった。放置自転車が彼方此方に溢れかえっており、酔っ払いの怒号が響いている。不良っぽい学生がたむろして酒やらタバコやらを嗜んで、反社会的な青春を謳歌している。

 だいぶ夜も深まってきたのだし、普段ならもう少し大人しい街だろう。そうであって欲しいと願いながら、駅前に張り出されている周辺地図を眺めて巌戸台分寮の場所を確認すると、ここから更にモノレールに乗って人工島という場所に行く必要があることを知った。

 長い旅路に辟易としながらモノレールを乗りついで寮の最寄り駅に辿り着いた頃には真夜中になりかけていた。駅から寮までは近いようであるが、やはり夜は怖いものだ。夢の中でならば青年が常に一緒にいたために安心していられたが、現実の世界ではか弱い乙女が一人きりだ。愛用のウォークマンを取り出し、恐怖を誤魔化すようにイヤホンで耳を塞いでいそいそと歩き出した。

 意気揚々と軽快なビートを刻むはずのウォークマンはうんともすんともいわず、私は訝し気にウォークマンをいじる。充電はまだ大丈夫だったと思うが、どうにも起動しない。

 

 そこで私は違和感を覚えた。いくら何でも町が静かすぎるし、町の街灯は一つ残らず消灯しており、あたりには人っ子一人いない。それどころか成人男性ほどの大きさの棺桶が点々と歩道に佇んでいる。車も走っておらず、私だけが世界から切り離されたような、そんな奇妙な感覚に襲われた。

 そして、町が明るすぎることも不自然であった。明りの一切ない場所にしては、この場所は明るすぎた。人工的な光が一切消えたこの場所で、私を照らす光源など一つしか考えられなかった。

 

 私が空を見上げると、()()()()()()()()()()()()()()()()()()が浮かんでいた。

 

 夢の中で嫌という程見続けてきた空が、現実の世界に広がっている。それだけでも私はどうにかなりそうだった。一体全体どうなっているのだろうか。今すぐにでも金切り声を上げて何処かへと走り去りたい気分だ。

 イカれてしまいそうな頭を押さえていると、視界の端に路地裏から飛び出してきたサラリーマン風の男を捉えた。そこでようやく正気を取り戻すことに成功し、私はその男に駆け寄り事情を尋ねようとした。この町では趣味の悪いデコレーションが流行っているんですよ、と男が答えてくれることを期待しながら。

 

 私は駆け出したが、すぐにその足を止めなければならなかった。目の前で、男が出てきた路地裏から黒い影のようなものが飛び出してきたのだ。すぐに影は男へと覆いかぶさり、短い悲鳴が上がった。その影は骨を砕き肉を噛みちぎる悍ましい咀嚼音を奏でだし、男の声はすぐに聞こえなくなった。

 私は蒼白な顔でその光景を眺めていた。影は男から流れ出した血液の一滴も逃がさないとばかりに収縮と膨張を繰り返し、全てを喰らい尽くした。やがて、その影の表面が泡立ちトゲのように逆立つと,それらは光沢のある毛皮になった。細かく位置を調整するように影は蠢くと、四足の獣のような姿へと変貌していき、顔と思わしき位置でギュルンと赤く光る眼球が姿を現した。

 ヨダレを垂らすだらしなく開いた口元、人間など一裂きでミンチにできそうな強靭な四肢、血と肉の死臭の漂った人間より一回り大きな体。高らかに遠吠えを上げるその生き物を私は知っている。

 その生き物は恐怖に震えて立ち竦む私に気が付くと、不細工な顔を喜色に歪めて駆け出してきた。その生き物は、紛れもなく夢の世界に存在したヤーナムの獣であった。

 

 恐ろしい。夢ではヤーナムの獣に出会った時には感じたこともなかった、身の毛もよだつような恐怖が襲いかかってくる。差し迫った生命の危機に私はどうすることもできないのだろうか。止まらない震えを押さえ込むようにして、()()()()()()()()()()()()()

 

 ()()()()

 

 思わず放り投げてしまった荷物は私の後ろに転がっているだろう。今、私は何も手には握っていなかったはずだった。しかし、確かにこの手に何かが収まっている。

 冷たい鉄の硬さ、滑り止め程度に巻かれた包帯の感触。視線を下せば禍々しいノコギリ刃がギラリと月明かりを反射して鈍く輝いている。

 

 いつのまにか手にしている武器は、夢の世界で青年が振るっていたノコギリ鉈であった。

 

 あまりに不可解な出来事が立て続けに起きでパニック寸前であったが、獣に立ち向かう手段の出現にどうにか心の平静を取り戻すことができた。理由はなんであれ、武器があるのは僥倖だ。

 しかし、なんの変哲も無い女子高生が、こんな化け物を前に何ができるのだろうか。冷静になればなるほど自らの窮地を自覚してしまう。

 

 そうこうしている内に、獣は目前に迫っていた。

 獣の鋭く発達した爪が大きく振りかぶられる。

 

 私はただただ獣の凶刃が迫るのを茫然と眺めている。

 私は、このまま死ぬのだろうか?

 

 

____我ら血によって生まれ、人となり、また人を失う

 

 

 意識が嘗てないほどに研ぎ澄まされる。

 

 まるで長年染み付いた動作であるかのように、私は狩人特有の軽やかなステップで後ろに身を躱した。人外の膂力で振るわれた獣の腕が目と鼻の先を素通りし、空振りした腕の風圧だけが顔を掠めた。

 大振りの一撃を躱された為に、獣の体制が僅かに崩れる。数秒に満たない、常人には突く事の叶わない僅かな隙がそこにはあった。それは私にとっては充分な時間であった。

 

 素早く間合いに潜り込み、握りしめた刃物で切り付ける。獣のどす黒い血液を浴びながら、私は僅かな手ごたえを感じた。獲物の刃渡りの都合上、致命的な一撃を加えることが出来なかったのだ。

 力一杯にノコギリを振り抜くと、獣は慌てて後ろに飛び跳ねようとする。こちらは無傷で獣は深手を負っている。しかし、距離が離されれば私が不利になるだろう。私の獲物と獣の爪、どちらのリーチが長いかを考えれば、獣の優位性は確実である。ましてや俊敏性では間違いなく此方が劣る。

 現状の武器のリーチでは、逃げようとする獣に掠める程度の傷しか付けられないだろう。このままでは一方的に不利な展開に持ち込まれてしまうはずだが、私に焦りはなかった。

 

 

____新たな狩人よ、

 

 

 人の強さは原始的な暴力に依存しない。足が速い、腕が長い、力が強い。それらも一つの強さであることは認めている。その土俵では人間は決して獣に勝てないことも知っている。

 そして、ある種の悪意こそが人の強さであることも知っている。暴力をより効率的に、より狡猾に振るう知恵こそが人の持つ強大な力。連綿と受け継がれる、毒にも薬にもなりえる暴力の結晶が今は私の手の中にある。

 

 獣が飛び跳ねたその瞬間に、返す刀で()()()()()()()()()()()()

 

 カシャン、という軽快な金属音とともにノコギリ型の刃物が展開して、鉈型の刃物へと変形する。変形により倍に近いリーチを得た武器ならば、この間合いでも外さない。

 逃げるための体制をとっている獣ならば、反撃は間に合わない。私が刃を突き立てて、獣はただそれを受けるしかない。

 

 

_____かねて血を恐れたまえ

 

 

 肉をえぐり叩き斬り、頭蓋をかち割る甲高い音が夜の街に反響すると同時に、脳を打ち抜く湿った水音が聞こえる。不快としか言いようのない感触は、獣の命に手が届いた実感をこの上なく与えてくれた。

 力なく倒れる獣の姿を後目に、ノコギリ鉈を振るい、血を払う。カシャン、という作動音と共に元のノコギリ型の形状へと折り畳まれる。

 初めての狩りの経験に緊張し、未だに心臓がバクバク言っていることが感じられる。恐怖と興奮を訴えている鼓動が私の生存をより強く実感させてくれた。

 

 暫くすると興奮は冷め、色々と不安が込み上げてきた。私は()()になってしまったのだろうか。私は何と戦わなくてはならないのか。ここで武器を投げ捨てて逃げ出たら、私はいつも通りの日常に戻れるのだろうか。

 

 人の気配が消えた町、悍ましい赤い月、ヤーナムの獣、突然現れた武器。

 

 きっと、逃れられない運命の流れがあるのかもしれない。戦う手段を投げ出して忘れるように逃げ出しても、再び現れるかもしれない獣に為す術もなく殺されるだけだろう。私の取れる手段は、安全な場所に逃げ込むか戦うかの2択でしかない。

 夢の中で安全だった場所の殆どが壊滅した記憶のせいで安全な場所に逃げるという選択肢はないようなものだ。どんなに堅牢でも、絶対な安全は存在しないことは良く理解している。

 結局のところ、私は突然降って湧いた狩道具を頼りに、狩人として戦う術を身に着ける以上に安全な選択肢はないのだろう。あまりの憂鬱さに思わずため息がでる。

 

 気分を切り替えるために、私は大きく深呼吸すると、彼がよくそうしていたように空を見上げた。赤く、怪しく輝く大きな月を見つめていると、私は懐かしい気分になった。この月を通じて夢の中の青年と繋がっているような気がした。

 

「悪夢はまだ、終わっていないんだね」

 

 不思議と、この世界でも彼と会えるような気がした。根拠はないけれど、そんな確信が私の中に芽吹いた。

 本当に彼と会えたら、何を話そうかと考えると、段々とましな気分になってくる。あなたのことを夢に見ていました?ずっと会いたかった?なんだかメンヘラみたいな切り出し方で、少し吹き出してしまう。別に深く悩む必要はないのだろう。はじめは挨拶、次に自己紹介。あとは気楽に話せばいい。きっと楽しいに違いない。

 ついでに私の事情を話したら、彼も力を貸してくれるかもしれない。もし私が狩人になっちゃっても、彼と一緒ならばきっと大丈夫な気がした。私はとても気分が良くなったので、こう独り言ちた。

 

「きっと今日は、狩りに相応しい日だね」

 

 そうして私は寮へと歩き始めたのだった。

 

 




血濡れの刃物と服装をどうしようか悩むハム子ちゃんprpr

ペルソナ3とブラボやったの結構前だし、設定やストーリーがうろ覚え。
そもそもペルソナ3はキタローでしかプレイしたことないし・・・。
もう一回ゲームやり直してきます。(反省)

あと、連載することにしました。よろしくオナシャス。
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