Bloody Masquerade   作:ヤーナム製薬

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ーーー良い夢を



4. Sweat Dreams

夢の中に落ちていった意識は、深い暗闇の底を彷徨っていた。

 

___・・・さま

 

 微かな声が聞こえる。何処か愛嬌を感じる、老いた男性の声。誰かを呼んでいるようだが、あまりに小さい音で殆ど聞き取れない。

 そんな最中、私はまるで深い海の底に墜ちていくのような感覚を味わっていた。いや、本当に下に向かっているのだろうか。海面に浮上しているようにも感じるし、はたまた流れに翻弄されて遠くに向かっているようでもある。視界が暗くて何だか良くわからないが、不思議と嫌な感じはしない。

 

___・・・有里・・・公子さま

 

 次第に声が鮮明になっていく。その声は私の名前を呼んでいるようだった。それに気づいた矢先、瞳に一筋の光が差し込んでくる。自分の流されて行く先に、私は青白く輝く扉を見つけたのだ。みるみる内に目の前に迫る扉を前に、衝突に身を備える。しかし衝撃は一向に訪れず、やがて私は目も眩むような目映い光に包まれた。

 

 

 

***

 

 

 

 眩んだ瞳が落ち着いた頃、ゆっくりとまぶたを持ち上げる。いつの間にか椅子に腰を掛け、視界には見知らぬ部屋が映っていた。大きな時計のかかった部屋の壁は格子のようで、隙間からは風景が下に流れていく様子が見て取れ、そして機械的な駆動音が部屋の上昇を告げていた。広々とした部屋でありながら、エレベーターのようでもある奇妙な部屋に私はいた。

 目の前のラウンドテーブルの奥には、膝に肘を立てて青いソファに腰かける鼻の長い老人がいた。老人はピシっとした黒いスーツを纏っており、ギョロリした目玉を此方に向けていた。

 

「ようこそ、ベルベットルームへ。私の名はイゴール。・・・お初にお目にかかります」

 

 イゴールと名乗った老人が会釈をする。老人の両脇を固めるように立っていた銀髪金眼の美男美女もまた、人形のような精密さでお辞儀をする。私はとりあえず会釈を返し、思ったことを口に出す。

 

「ここは、夢?」

 

 モヤモヤとした白い霞が掛かったような感覚。どこか他人事のように自分を俯瞰する、体から剥離しかけた意識。私にとって覚えのありすぎる状況だった。半ば確信めいた疑問に、老人が答える。

 

「正確に言うならば、ここは夢と現実、精神と物質の狭間にある場所。そして、何かの形で契約を交わされた方のみが訪れる部屋でもあります」

 

 なるほど。言ってることは意味不明だが、ここが現実の世界でないことは間違ってはいないようだ。それと同時に、自分が座っている椅子の感触や五感を刺激する部屋の環境が、ここは夢でもないことを教えてくれる。何とも奇妙な感覚だが、夢と現実のはざまという表現は正しいのかもしれない。

 しかし、契約とはなんだろうか。私はイゴールと名乗る老人と出会ったことは一度もないし、怪しげな書類にサインした記憶もない。契約を交わした人間が訪れると言われても、私は首をかしげるしかなかった。

 

「・・・あの。契約なんて、した覚えはないんですけど」

 

「いいえ、あなたは確かに契約を交わしておられる。なにも契約とは、形あるものに限らないゆえ、知らず知らずに、というのも可笑しな話ではないでしょう・・・」

 

「知らないうちの契約は、可笑しい話だと思うんですが・・・」

 

 私は真面目に訊いているつもりなのだが、イゴールはクックッと笑いながら瞳を細めるだけで、まともに取り合おうとする様子はなかった。契約についてもう少し詳しく話してほしいし、訊きたいことも色々とある。けれども、イゴールは話したがりの性分の様で、私が口を挟む間もなく喋りだす。

 

「さて、あなたをお招きしたのは他でもない。あなたにお話ししたいことがありましてな・・・きっと、必要な話でしょう」

 

 イゴールは勿体ぶった様に話を切り出した。

 

「ペルソナという力。人の内面を具現した、一つの可能性。それは人が内包する存在を刺激し、喚起する呪い。しかし毒とは時に薬になり、ペルソナは様々な困難に立ち向かっていくための仮面の鎧にも為り得る」

 

 ペルソナ、その猛威を私は体験したばかりだ。確かにあれ程の力を自在に振るうことが出来れば、向かうところ敵なしと錯覚してしまう。私が頷くと、イゴールはタロットカードの束を取り出して続きを話す。

 

「誤解を恐れずに言うなれば、あなたは特別だ。いわば、数字のゼロのようなもの・・・空っぽにすぎないが、無限の可能性でもある。あなたは一人で複数のペルソナを持ち、それらを使い熟す可能性があった」

 

 しかし、とタロットを手元で華麗に操りながらイゴールは続けた。

 

「あなたはペルソナを捨て去った・・・他人に提示される可能性に価値はない、と言わんばかりに。あるいは、ペルソナがなくても、人には無限の可能性があると信じているが故の選択か」

 

 私はペルソナを切り捨てたことを後悔していない。可能性がどうだの言われても、正直に言って実感がわかないのだ。ただ単純な話で、獣染みた狂気を武器にすることが性に合わなかっただけだ。

 イゴールはタロットを、机の上に綺麗なアーチを描いて並べた。彼は一枚のカードを手に取ると、その絵柄を私に突き付けた。大アルカナの0番目、愚者のカードが私と向かい合っていた。

 

「・・・いずれにせよ、実に興味深い。それが吉と出るか凶と出るか。全てはこれからのあなた次第でしょう」

 

 言いたいことを一通り言い終わったのだろう、イゴールは満足そうに頷くと口を噤んだ。丁寧に説明をしてくれているようでいて、しかし具体的な内容の欠けた話であったので、イゴールが何を私に伝えたかったのか微妙に理解できないでいた。婉曲的な表現を理解できないのは私の頭が悪いのだろうか。いや、絶対わからないように話していたに違いない。あの老人は、心なしかニヤニヤして私を見ている気がする。

 とはいえ、私も突然すぎる状況に混乱している。一方的に捲し立てられた発言をかみ砕きながら唸っていると、イゴールは一つ咳ばらいをしてから告げる。

 

「今からあなたは、このベルベットルームのお客人だ。そして、あなたは力を磨くべき運命にあります」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「だからこそ、必ずや私達の手助けが必要になる」

 

 揚々と語るイゴールに言葉を被せながら、部屋の奥の扉から一人の青年が現れる。実に見慣れた狩装束、いつもの顔を隠す帽子やマフラーは身に着けておらず、青年は最後に見た姿と変わらずにいた。私はその姿が眼に映ると、茫然自失として立ち尽くしてしまった。

 

「どうも初めまして。それとも()()()()、だろうか」

 

 ニヤリと笑う青年の表情は、ちょっとしたイタズラに成功した子供のようであり、見事驚かされた私を見て満足そうに頷いていた。そして何よりも、予想外の発言に私は驚愕と動揺を隠せず、私は石のように固まる他になかった。

 

「ぇ、ええっ!・・・なんで、わ、わたしのこと!?」

 

 なぜ、私の事を彼が知っているのだろう。夢の中で、彼は私に気付いたそぶりを見せなかったと記憶しているのだが。言葉をなくした私が口をパクパクさせている様子を目を細めて見つめると、彼は少し間をおいてから続けた。

 

「勿論わかるさ。貴方なんだろう? 偽りの月だけが照らす世界で、暗闇の中に差し込む一筋のか細く、暖かい光・・・終わりの見えない狩りの中、私を導いた月光を忘れはしないさ」

 

 青年は柔らかい口調で、そう告白した。私はずっと、彼が気付いていないものとばかり思っていた。しかし声や姿は見えなくても、彼は私の存在に気付いていた。その事に大層驚いて、嬉しいやら恥ずかしいやら混乱した感情が私の中で渦巻いていた。

 どうやら、彼も同じような気分の様だった。お互いよく分からない気持ちに居た堪れない様子であった。つかの間の沈黙を破り、彼は静かに言葉を紡いだ。

 

「こうして、お互い顔を合わせるのは初めてだろうか。全く、奇妙な関係だ・・・何を話したら良いやら・・・」

 

 頭を掻きながら青年は困った様に言う。実際、彼の言う通りに私たちは何とも奇妙な関係だ。互いに存在を認識しながら、しかし名前も姿かたちも知らない。私の方は一方的に色々と知っているが、わざわざ教える必要もないだろう。

 何だか微妙な空気が流れ始めたが、青年と会ったら先ず言うことは予め考えていた。私は座っていた椅子から立ち上がり、胸に手を当てて深呼吸をする。よしっ、と意気込んで私は青年の前まで近づいた。

 何度も頭の中でシミュレーションした通りの言葉を頭の中に思い浮かべて、私は心のままの感情を顔に出し、そして口にする。

 

「私の名前は、有里公子です。これから、宜しくね」

 

 はにかんで、右手を差し出す。発した言葉は、緊張からか少したどたどしくなってしまった。ガラにもなく強張ってしまった私の姿を見て、青年も見た目の年相応に柔らかな表情を浮かべながら言葉を紡ぐ。

 

「ああ、此方こそ宜しく。私の名はミナトだ」

 

 彼もまた手を差し出し、私たちは存在を確かめ合う様に手を握り合った。ジンワリと伝わる熱が幻ではないと教えてくれるようで、思わずもう片方の手で彼の手を包み込む。

 待ち望んでいた、思いのほか早かった再会は拍子抜けするくらいあっさりとおわってしまった。しかし、欠けていたパズルのピースが埋まったような、そんな安息感を感じていた。私にとっては 10 年前からずっと一緒だった気分なので、最後の夢から目覚めた後は実のところ心細い気分であったのだ。

 

 心から温かいものが溢れて、瞼にじんわりと溜まっていく。しかし、一つの不安が鎌首をもたげて、それが私の心に影を落としていた。最期の夢から、少しも忘れたことのない、恐ろしい怪物に立ち向かって行く青年の姿。その結末に、私は一抹の不安を抱いていたのだ。

 ミナトは私の不安を察してくれたのだろう。彼は私の目尻に指を添え、流れかかった涙を拭ってくれた。そうして、私の頭にポンと手を遣ると、いつかのような頼もしい姿で告げたのだ。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。長い夜の夢は・・・漸く醒めたんだ」

 

 その言葉を聞けて、私の胸のつかえはすっかり消えてしまった。

 

 青年の戦いは、終わっていた。永遠に続くようであった悍ましい夜に、彼は打ち勝ったのだった。その事実が本当に嬉しくて、純粋な歓喜の篭った大粒の涙が一つ零れる。あとはもう、止め処なく流れる涙を我慢することなんて出来なくて、私は滂沱の涙を流していた。

 ただ静かに傍に立って、私の頭をクシャリと撫でるミナトの手は、とても温かかった。

 

 

 

***

 

 

 

「ところで、ミナト様。有里様にお渡しするものがあった筈ですが・・・ご用意は出来ておいでですかな?」

 

 涙もようやく収まると、自分の取り乱した姿が恥ずかしく思えてくる。ミナトは笑いながら気にするなと言っていたが、恥ずかしいものは恥ずかしい。椅子に縮こまって座り、顔を赤く染めてウーウーと呻る私を見かねたのか、今まで空気を読んで黙りこくっていたイゴールが別の話題を放り投げてくれた。

 

「まあ、大した物ではないから期待しないで欲しいが・・・。結構な深手を負ったみたいだったからな。取り合えず、戻ったら使っておくと良い」

 

 どこからともなく、ミナトは小さなケースを取り出す。私はそれを受け取り、入れ物を開いて中身を確認する。中には数本の輸血液が入っていた。

 医療教会の齎した輸血液、夢の中で彼が使用する様を見ていたので存在は知っている。その精錬された血を摂取することで傷を治すことが出来るものの、時間を巻き戻すような気色悪い治癒の様子は見ていて気分の良いものではない。しかし、常に命の危険が伴う狩りにおいて、輸血液は必需品に違いない。

 

「分かっていると思うが、輸血液には限りがある。供給の目途が立っていないものでね。大事に使ってくれたまえよ」

 

 ミナトの言う通り、輸血液は貴重な品であったことも事実であった。なにせヤーナムの街は完全に狂ってしまい、どこかで新しく輸血液を精製している様子はなく、狩人たちは各所に保存されている輸血液を探し求めるしかなかった。人気のなくなった聖堂やビルゲンワース、他には時計塔などから勝手に拝借するほかに手に入れる機会が殆どないものだったので、彼が輸血液を使用するのもここぞという時だけであった。

 私は左腕に視線を落とす。ここは現実の世界ではないためか、確かに負傷して使い物にならなくなっている筈の左腕は健常であった。とにかく、目が覚めた後に輸血液を使う必要があるだろう。私は丁寧に輸血液をしまってケースの蓋を閉じた所で、一つの問題に直面する。・・・これって、どうやって持ち帰るのだろうか。

 

「それと、忘れ物だ。今回は私が拾っておいたが、全く、しっかりしてくれよ」

 

 私が輸血液を片手に固まっていると、そういってミナトはノコギリ鉈を取り出す。僅かに腐食液がこびり付いたそれは、確かに私の使っていた武器であった。相変わらず何もないところから取り出したようにしか見えなかったので、私は受け取りながら長年の疑問を投げかける。

 

「・・・前から気になっていたんだけど、それって何処から取り出してるの?」

 

「何処って・・・こう、アレだろう。自然と分かるものだと思うが・・・」

 

 ミナトも自分で行っている収納術の原理を知らないようだった。何度か彼が懐から紙やすりやら薬品やらを出し入れする様子を見せて貰ったが、やはり意味が分からなかった。とはいえ、その収納術を覚えない限り、私は現実の世界に道具を持ち帰ることが出来ないらしく、その技能は何としても習得しなければいけないのだった。

 

 ミナトから感覚的な解説を細やかに受け、途中でイゴールから神秘の概念を教わったりと試行錯誤を繰り返すうちに、私はようやくヤーナム流収納術を覚えるに至った。難しい説明ばかりで苦しんだものの、ヤーナムで狩人となった者は自然と覚えるものだそうだ。私が習得に四苦八苦した理由は不明だが、今は覚えられただけ良しとしよう。

 私が得意げにノコギリ鉈や輸血液を懐から出し入れしている様子を、彼らは微笑まし気に眺めていた。イゴールは肘を立てて椅子に座り直し、話を戻した。

 

「さて、そろそろ本題に入りましょう。有里様、あなたの立ち向かうべき運命と、我々の為すべき事について」

 

 イゴールは一息置いて話し出す。

 

「本来、あなたをお招きした理由はペルソナ能力の補佐のためでした・・・が、あなたはペルソナという力を手放した。ゆえに予定していたもてなしは出来ないのですが、あなたが獣狩りの夜に巻き込まれたという事実に変わりはない。

 あなたは戦い続け、そして使命を全うするべきでしょう。だからこそ、我々はあなたを狩人として歓迎し、そして喜んで手助けをしましょう」

 

 その言葉に、私は引っ掛かりを覚える。

 

「ヤーナムの悪夢は終わった筈、だよね。だったら、私が囚われている夜は一体なんなの・・・?」

 

 私の疑問に、イゴールは首を横に振る。

 

「わからない、というのが正直な所です。ベルベットルームから外の様子を伺うことが出来ない以上、原因を究明することは叶いません・・・が、しかし我々も事態を静観するつもりもありません。そこで、有里様にお願いしたいことがあるのです。

 何でも構いません、あなたが戦いを続ける中で得た情報を提供して欲しいのです。それさえ約束していただければ、我々は助力を惜しみません」

 

 つまり、イゴールは協力関係を結びたいと言っているのだろうが、言葉の選び方から壁を感じてしまう。ひょっとしてミナトもビジネスライクな関係を望んでいるのだろうか、心配になってチラリと視線を向けると、サムズアップをして答えてくれる。

 

「イゴールはこう言っているが、私は貴方を手伝いたいだけなのでね。可愛い後輩の面倒を見るのは先輩の特権だから、存分に頼ってくれ給え。もちろん友人として相談に来てくれても嬉しいよ」

 

 その言葉に安心してほっと息を漏らし、私はありがとうと言った。手をヒラヒラと振っているミナトであったが、イゴールはそれを咎めるようにして口を挟む。

 

「・・・ミナト様、我々はあくまで助言者である事をお忘れなきよう」

 

 それにミナトはわかっているさと返し、憂鬱そうに溜息を吐く。なんにせよ、私にとっては嬉しいことだった。当てもなく過ぎる日々に少々心細さを感じていたので、彼らの助力を願えるのは心強い。

 

 真面目な話は区切りが良くなったのだろう。空気が弛緩して、皆の表情も柔らかいものになっていた。もう少し話し込みたい気分だったので、とりとめのない話題を投げかけようとすると、イゴールはそれを手で制する。

 

「随分とお引止めして申し訳ない。まだ話したいことも、話すべきこともあるのですが、今日はここまでにしておきましょう・・・あなたにも現実での生活があるでしょうから」

 

 イゴール曰く、この部屋で時間を過ごす間にも現実世界での時間も進んでいるらしい。どのくらいの時間が過ぎているのかは分からないが、長居をしすぎれば転校早々にして長期の自主休講をかますことになってしまう。彼の言う通り、もう帰った方がいいのだろう。

 当然のことながら、この部屋に来るのは初めてである。どうやって帰れば良いのかキョロキョロとしていると、イゴールが私の後ろを指差す。

 

「ベルベットルームと現実とは、その扉で繋がっております。今回は僭越ながら私自らお招きいたしましたが、次にお目にかかるときには、あなた自らお越しになってくだされば幸いです」

 

 そういってイゴールが礼をすると、後ろに空気のように控えていた美男美女も優雅な礼をする。私もペコリと頭を下げて別れの挨拶をしてから立ち上がる。ミナトも手を振りながら、見送りの言葉を掛けてくれる。

 

「今日は貴方と話せて楽しかったよ、また会おう。」

 

 彼の告げる言葉に、私はちょっとだけ不満を覚える。むくれた私を見てもミナトは何も気付かないようだったので、私は一言呟く。

 

「・・・"公子"」

 

 私が呟いた言葉に、ミナトは首をかしげる。私がちょっぴり頬を膨らませていると、彼はくすりと笑った。

 

「フフッ、そうか・・・そうだな。"公子"、また会う日を楽しみにしているよ」

 

「うんっ! ミナト、また会いにくるね!」

 

 彼の台詞に今度こそ満足すると、私は元気に手を振ってから戸口に手を掛ける。次に会えるのはいつになるのか、それを楽しみにしながら私は扉を開き、足を踏み出した。

 

 

 

***

 

 

 

 仄かな消毒液の香り、うっすらと目を見開くと私の視界には白く清潔な天井が目に入り、体が横になっていることに気が付いた。視線を横にやると、驚いた表情の岳羽さんが座っていた。彼女は震える手で口元を抑え、嗚咽を漏らした。

 

「あ、有里さんッ・・・!」

 

 岳羽さんは目に涙を溜め、上ずった声で私の名前を呼んだ。彼女の話によると、私と彼女は仲良く気を失っており、桐条先輩の手配によって巌戸台周辺の病院に搬送されたらしい。岳羽さんはすぐに目を覚ましたが、私は一週間以上眠ったままのようだった。

 

「良かった、良かったよ・・・。わたし、もう、駄目かもって・・・。」

 

「エヘヘ、大丈夫だよ。何とかなって良かった・・・その、何とかなった・・・よね?」

 

 記憶にある限りでは、化け物は消滅して私はそのまま気絶、岳羽さんは正気を失って兎に角しっちゃかめっちゃかな状況であった。その時のことを詳しく尋ねると、彼女はコクコクと頷いて話し始める。

 

「うん、わたしもあんまり覚えてなくて・・・桐条先輩に聞いた話だと、でっかいシャドウを倒したあとは特に何事もなかったみたい」

 

 そのような内容を弱弱しい口調で話した岳羽さんは、まだ少し精神的に参っているようだった。極めて冒涜的な光景を目の当たりにしながら未だに正気を保っているとは随分とタフだと感心しかけたが、どうやら彼女は当時の状況を朧げにしか覚えていないようだった。強い精神的ショックによる記憶の混乱は珍しいことではない。しかし、狂気的な記憶を想起させれば彼女の精神に支障をきたしかねないので、あまり掘り下げない方が良いのだろう。

 岳羽さんの話の中で、何度かシャドウという単語と、それに関する彼女たちの活動を示唆する話題が現れていた。そちらは訊いても問題もないだろうと幾つか質問を投げかけるが、彼女は言葉を濁すばかりであった。彼女もまた詳細は知らないらしく、後日責任者がまとめて説明をしてくれるらしい。今は養生して欲しい、とのことだ。

 

 そういえばと目線を落とすと、左腕に違和感を覚える。包帯でグルグル巻きにされ、感覚の殆どなくなった左腕は鈍い鈍痛だけを時折訴えてくる。今更になって私の左腕が悲惨なことになっていることを自覚すると、岳羽さんは顔を青くして震える声で謝罪を述べる。

 

「・・・有里、さん・・・あの・・・左腕、もう動かないって・・・その、最悪、切り取らなきゃいけないみたいで・・・・・・ご、ゴメンなさい! 私が、守らなきゃいけなかったのに・・・!」

 

 悲痛な表情で懺悔する岳羽さんを宥めてから、私はすべきことを始めた。包帯を解き、患部の状態を確かめる。化け物の腐食液は随分と強力だった様で、皮膚は溶けて肉はグズグズに焼け爛れていた。むき出しになった筋肉組織は悍ましく変色し、蕩けた腕からは白い橈骨が見えんばかりであった。ムワリと饐えた臭いを漂わす自分の体の一部は、あまりじっくりと眺めたいものではなかった。

 流れる様に包帯を外し患部を露わにする私を見て、岳羽さんはギョッとした様子で声を上げた。

 

「ちょ、ちょっと! 有里さん!?」

 

 私は夢から持ち帰った輸血液を取り出すと、見よう見まねで太ももに突き刺して血液を摂取した。患部に赤黒い光が渦巻く。強い血の脈動を感じて少し頭がふらつき、体が焼けるような熱を持つ。使い物にならない爛れた左腕は時間が巻き戻る様に、さながら悪夢から覚めるように、元の姿を取り戻していく。名状しがたい感覚に眉を顰めるが、すっかり左腕が元通りになれば気分も楽になった。私は満足げに呟く。

 

「うん、治った」

 

 輸血液は自分の知識にある通り、しっかりと私を治癒してくれるようだった。結果を確認するように、私はさっきまでボロボロだった腕を曲げたり伸ばしたり、左手を閉じたり開いたりする。焼けるような痛みはすっかり消え失せ、私はヤーナムの叡智の結晶に感謝した。

 

 私からしても現実離れしていると思うような光景を前に、岳羽さんは驚きに目を見開く。彼女は自分が夢でも見ているのかと錯覚しているのか、自分の頬を赤くなるまで抓っていた。プルプルと震えながら、大きく息を吸い込んでいる彼女を見れば、次に起こる事は明白だろう。

 病院では静かに、という私の言葉は間に合わなかったようで、私は急いで両耳を手で塞いだ。岳羽さんの驚愕を等身大で表すような叫びは窓ガラスを震わせ、意図せずともナースコールの役割を果たしてくれるのだった。

 

 




補足しておくと、狩人はキタローじゃないですし、全く無関係の人物です。元々は別の名前にしようと思ってましたし、なんとなくミナトという名前がシックリ来ただけです。

世界観説明とかは回想でサラッと済ませたいけど、省略しすぎると意味不明になるというジレンマ。
あー、モツ煮込み食べたいなー。(現実逃避)

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