【完結】輝けケアキュア 〜紫陽花の季節〜   作:主(ぬし)

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 いつだっただろう。アパートに帰ってきた青年が、「ただいま」と声を投げかけてきた。いつもの底抜けな明るさとは一変して、まるでイタズラを働いた幼子が親の顔色を窺うような、おずおずとして小さな声だった。ルキナは、下目遣いになっていく青年の様子に訝しさを覚えながら、かと言って特に何も考えることもせず、「……おかえり」とぶっきらぼうに返した。
 たったそれだけなのに、青年は、それがこの上ない幸せなことのように微笑んだ。どうしてそんなに大袈裟な反応をするのか、その時のルキナにはわからなかった。でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
 後になって、誰かと「ただいま」「おかえり」の会話を交わしたのがとてもとても久しぶりだったことに気がついた。そして、青年にとってはきっと初めての出来事だったのだろうと、察しがついた。
 そしてその日から、小さな「ただいま」とぶっきらぼうな「おかえり」は繰り返された。
ルキナがいなくなる、その日まで。


いつか彼が紫陽花になるまで 3話

 また数日も経つと、ルキナの容態は安定して、手助けがなくとも一通りのことを一人で出来るようになった。すると青年は、早朝と夕方と深夜に出かけるようになった。中古のオンボロ自転車に乗って急いでどこかへ行って、しばらくしたらまた帰ってくる。新聞配達や、その他のバイトを掛け持ちしているらしかった。それでも仕事の合間を縫ってはルキナの様子を気にかけて一時的に帰ってくるし、夜に帰宅すれば炊事洗濯をしながらルキナの世話をして、絵のスケッチをいくつか描いたりしていた。一体いつ寝ているのか、ルキナは内心で首を傾げた。そして、どんな時でも、青年はニコニコと満面の笑みを携えていた。

 寝る前に、青年は古本屋で買ってきたらしい使い古しの参考書に何ごとか書き込んでいた。何をしているのか尋ねたルキナに、青年は「教師になるための勉強をしてるんだ」と説明した。

 

「美術教師をしながら、子どもたちに絵を描くことの楽しさを教えたい。自分の絵も描いて、コンクールに出展して、賞も獲りたい。そうして、僕自身が楽しんで絵を描く姿を見せて、子どもたちにまた絵を描くことの素晴らしさを伝えたい。美術教師、いいだろう? 僕にとってはこの上ない天職だと思うんだ」

 

 たしかに天職だと思った。だが、そこへ至るまでの道のりは険しい。今、青年がやっていることは控えめに言っても並大抵の努力ではない。おそろしく大変に違いないのに、はにかみながら夢を語る青年は、そんなことなど苦にも思っていないかのようだった。実際、青年にとっては本当に苦ではないのだろう。どんな時も、青年は心から楽しそうだった。誇らしげに、嬉しげに、「絶対に実現するんだ」と意気込む青年の顔を、ルキナは直視できなかった。夢を語る青年を疎ましく思ったからではない。そんな青年を疎ましいと(・・・・・)思わなくなった(・・・・・・・)自分自身を認めたくなかったからだった。

 少し前の自分なら、きっとどんな汚いことをしてでも青年の夢を挫けさせようと、性根の曲がった嫌がらせの一つや二つを実行していただろう。悔しがる青年を足蹴にして嘲笑っていただろう。しかし今は、とてもそんな気にはなれなかった。青年の悲しそうな顔を想像すると、それだけで胸が罪の意識で締め付けられた。誰に対してだって───自分に対してだって、どうなろうと罪の意識なんか芽生えなかったはずなのに。何故、己の心理がそんな反応をするのか、ルキナは理解できなかった。少年の性意識(ほんのう)が、自分の今の性(・・・)を自覚することにまだ抵抗を示していた。

 

 そんな自身の内面の変化から目を背けるように、ある日ついに、ルキナは青年に強い口調で問うた。

 

「どうして、私を匿う(・・)の?」

 

 青年が弾くように眼を見開いた。青年はあまりテレビを見ない。だけど、このご時世だ。ルキナは、自分の映像が街頭テレビで流されるのを何度も観た。ほとんど、ケアキュアたちを足蹴にして甲高く高笑いする映像だった。それを見上げる大衆の反応は、すべてルキナへの悪態だった。少年として街を歩いていた時、人々が唾棄するような口調でルキナの噂をしているのを何度も聴いた。人々を護る正義のケアキュアたちに対して、散々な嫌がらせや妨害をしてきたルキナの悪名は広く知れ渡っている。青年だって、彼女の容姿は知っているはずだ。だからこそ、青年は倒れたルキナを病院に連れて行かなかった。常識的にはそうすべきはずなのに、警察などに突き出したりもせず、それどころか常に薄手のカーテンを閉めて外からルキナの姿を見咎められないようにしていたのだ。ルキナに対し、当然尋ねるはずの名前を今まで問い質さなかったのは、彼女が“ルキナ”であることを知っていたからに違いない。そもそも、今までまったくテレビを見ようとしなかったのも、ルキナが映ることをわかっていたからかもしれない。明らかに、青年はルキナの正体に見当がついていて、世間から匿おうとしていた。ルキナも、当初からその疑問を脳裏に過ぎらせていた。「本当にロリコン野郎で、欲望を満たす目的のために誘拐されたのかもしれない」とも考えたが、自暴自棄になっていた彼女は「どうにでもなれ」とやさぐれていた。だが、青年の人柄に触れ、予想していた青年の目的が不明瞭になっていくに連れて、ルキナの混乱は増すばかりだった。汚れた欲望のままにメチャクチャにされていた方が、まだ納得ができていた。

 

「なんで、そんなに優しくするの? 私が誰なのか、ケアキュア(アイツら)に何をしてきたのか、アンタだってわかってるくせに」

 

 言ってしまって、知らず、汗ばんだ両の手がシーツをぎりと握り締めていた。剥き出しにしていた八重歯がキュッと閉じられた唇に覆われる。顔の皮一枚で冷静を装っても、ルキナの心中は今まで経験したことのない感情の渦でムチャクチャに波立っていた。親からの否定の言葉なんて聞き飽きた。殴られる痛みも平気になった。社会からの否定も慣れっこだ。“帰れ”だの、“消えてしまえ”だのはもう耳に染み付いた。否定したければすればいい。嫌いたければ嫌うがいい、と。───だが、目の前の青年からは否定されたくなかった。その矛盾がルキナの胸の内を冷たい竜巻となって荒らしていた。

 青年は、なんと言えばいいかと言葉を選ぶように逡巡していた。その間にも、ルキナの脳内では青年が何度も彼女を罵り、部屋から追い出す最悪の想像が再生されていた。見る間に顔色が蒼褪めていく。意識せず、ルキナは下唇を強く噛み締める。青年から否定される想像を浮かべる度に、背中は汗ばみ、腹底は冷え、今まで感じたこともない恐怖感が足先から這い上がってくる。地面が崩れていくような絶望感が体温を奪う。そんなことになれば、もうきっと立ち直れない。何故かはわからない。でも、本当にもう、彼からも見捨てられたら、これ以上生きたいとは思わないに違いない。正体のわからない恐怖感に、ルキナは初めて“怯え”を感じた。

 

「ええと、自分でも笑っちゃうような理由なんだけどね」

 

 そう前置きして、意を決した青年は何故か照れくさそうに頬を指先で掻く。やがてその口がゆっくりと開かれる。優しい彼は決して自分を追い出すことはしないと青年を信じる一方で、今までの自分の悪行が脳裏に蘇り、『都合のいいことを言うな』ともう一方の摩れた自分がせせら笑う。次に発せられる台詞を座して待つことに堪えきれず、ルキナは思わず腰を上げて青年の前から逃げ出しそうになり、

 

 

「君の絵を、描いてみたくなったんだ」

 

 

「……は、あ?」

 

 不意打ちとも言い難い、予想外に過ぎる回答に、ルキナは脱力してペタンとその場に座り込んだ。安心してポカンとしたルキナの表情を呆れだと早とちりした青年は「どう取り繕っても仕方ない」と苦笑しつつ後ろ頭を掻く。

 

「僕は教師を目指しているが、そもそも画家志望だ。芸術家の端くれさ。まだ若い君が知ってるかわからないけど、芸術家ってのは、まあ、言ってみれば“変人”だ。変わり者なんだ。こういう人種には世間のことはよくわからないし、あんまり興味もない。君の正体や、君の行いも、君が皆からどう思われているかも、僕は気にならない。ただ僕は、初めて君を目にした時、こう思ったんだ」

 

 言って、青年はルキナの長い前髪を指先でそっと搔き上げる。そこに顕わになった少女の美貌を、本当に美しいものを見つめる陶酔の表情で見つめる。

 

「“ああ、紫陽花のようなこの娘を描いてみたい”って」

「───っ」

 

 青年の瞳が放つ熱っぽい輝きが、急にその光度を増したように見えた。いや、実際は、その瞳に映り込むルキナ自身の顔の色合いが変わったのだ。真っ青から、真っ赤に。それを見てしまって、喉奥が勝手に「クッ」と変な音を立てて引き攣った。致命的な何かが自分の中にポッと点火(・・)された、そんな直感が働いた。ケアキュアたちとの戦いでは有利に働いてくれた直感が、今はたまらなく鬱陶しかった。訳も分からずにそわそわとした気恥ずかしさを感じて、ルキナはさっと逃げるように目を逸らす。

 

どうして、たった今、自分は目を逸らしたのだろう。

どうして、青年から求められることをこんなにも嬉しく思うのだろう。

どうして、「出て行け」と言われなかったことにこんなにも安心を覚えているんだろう。

自分が青年にとって必要だとわかったことで、どうしてこんなに満ち足りたような気持ちが膨らむのだろう。

どうして?どうして?どうして?

こんな気持ちは、こんな反応は、まるで───。

 

 

わけもわからず勝手に高鳴り始めた心臓の動悸を抑え込むように胸の前で腕を組み、尖らせた唇でなんとか答えを紡ぐ。

 

「……べつに、いいけど」

 

 ルキナのぶっきらぼうな答えに、青年は心の底からの笑みを浮かべて喜びを示した。「ああ、よかった。嫌われたらどうしようかと思ってた」。

 「それはこっちのセリフ」という声が胸の内から喉のすぐ下まで湧き上がってきて、それを抑え込むためにルキナは全身全霊の力を使わなければならなかった。腹の中でたくさんの蝶々が飛び回っているようなそわそわとした落ち着かなさから逃げるように、ルキナはガバリとその場に立ち上がると長髪を閃かせて風呂場へ歩みだした。

 

「お風呂、入ってくる、から」

「あ、ああ。わかった。変なこと言ってごめん」

 

 前髪を触る青年の指先から逃げるように風呂場へと踵を返す。青年は、そんなルキナの行動を誤解して謝罪する。変にたどたどしくなってしまった自分の台詞に、なにより、“気付かれなかった”とホッと安心した自分に、さらに恥ずかしさを覚える。これ以上青年に見つめられていたら、自分が自分でなくなってしまうという焦燥感があった。目には見えないけど確かにそこに横たわっている一線をもう少しで超えてしまいそうな予感がした。その線を踏み越えてしまったら、その線が何なのかを認識してしまったら、きっと自分はもう元に戻れなくなる。

 心のどこかでは、その線の正体も、その線を超える意味もすでに理解して、自己の性別(・・・・・)を自覚し始めている自分がいる。そんな自分自身を、この奇妙な下っ腹の火照りとともに洗い流さなくてはいけない。早急に、絶対に。

 ふと、青年が背後から付いてくる気配を察し、足を止めて背中越しにジロリと睨んだ。

 

「なに」

「なにって、いつも君がせがむように洗ってあげようかと……」

 

 青年に下心はなかった。あったとしても、欲望の獣は鋼の知性でなんとか封じ込めていた。ルキナの求めに応じて目隠しをして身体を洗っていただけで、悪気もなく、罪もない。むしろ被害者の側だ。だが、今のルキナは、なぜか青年と風呂に入るのを嫌だと思った。当然のように一緒に入ろうとしている青年に対し、今まで訪れなかった正体不明の苛立ちが眉根を機嫌悪そうにギュッと寄せさせた。青年に裸を見られたくないという羞恥心が、少女としての経験が欠如した思考回路を通って不快感へと変換され、そのまま青年へとぶつけられた。

 

「ロリコン。変態教師」

「ええっ!? そんな、理不尽な、それにまだ僕は教師になってもない───」

 

 ショックを受けて立ち止まった青年を脱衣所からぐいと押し退け、ルキナは扉をピシャリと締めた。まるで思春期の娘が父親と風呂に入ることを拒否するような一幕だった。ルキナの“裸を見られたくない”という意識の変化は、まさしく青年を異性として認識しているが故の年頃の少女として(・・・・・・・・)当たり前の反応だった。ルキナは、この日を境にして青年と風呂に入らなくなった。自分と青年が“異性”なのだと無意識の内に認識しての決定だった。

 

 

 ところで、その日の風呂は、ルキナにとって恍惚の癒やしの空間ではなく苦難の場となった。シャンプーの適切な量がわからず、闇雲にベチャベチャと塗りつけて乱暴に擦ったため、風呂場も髪も恐ろしく悲惨なことになった。自分自身で髪を洗うことがこんなに大変だとは思ってもいなかった。ガシガシと雑な扱いを受けた髪は、キューティクルの艷やかな輝きを失い、見るも無残なスチールウールと化してしまった。それを見た青年は、ルキナよりも深く残念がった。「なんてもったいないことを」と嘆くと、いつもより強気になってルキナの肩を掴み、髪は今後も自分に洗わせて欲しいと詰め寄った。不意に近づいてきた青年に赤らんだ頬を悟られないように顔を傾け、ルキナは渋々了承した。こんなに簡単に他人に弱みを見せてしまう自分自身の変化に、ルキナは内心で呆気にとられていた。気味が悪いともチラと思ったが、それでもやはり、本能は不快を感じていなかった。それどころか、この感覚は、この感情は、きっと───

 

 髪を洗ってもらうルキナの口元が八重歯を見せるほどに幸せそうに微笑んでいることは、青年も、ルキナ自身も、気づいていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「───夢と、希望の力を、感じるぞ」

 

 虚ろで、情熱的な声音が、街の何処かで木霊した。屍衣(しい)の如き不気味な装束を風に垂らし、ゲキヤックは狂気の深みから沸き立つような凄絶な笑みを浮かべた……。




フランス語には「avoir des papillons dans le ventre」という表現がある。直訳すると「お腹の中に蝶々がいる」。その意味は、「恋が芽生える」である。

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