「司令官、起きてください、引いてますよ!」
だらりと糸を伸ばした先、ふらふらと波間に揺れる浮きが不自然に沈み込んだ。一度ならず二度、今度はさらに深く。糸が引かれて竿がしなる。退屈そうに沖を眺めていたセーラー服におさげという謎の安心感を覚える容貌の少女が、一瞬の狼狽の末とりあえず隣で寝転がる中年男を揺さぶった。
起こされた男は億劫そうに身体を起こし、糸の出どころ、竿の根元のリールを回す。キリキリと音を鳴らすギアの回転と共に浮きが段々と近づいてきた。不意にちゃぽん、と水から飛び出す細長い影。そこそこの大きさだ。
男は獲物を目の前まで持ってきてみる。ぷらぷらと揺れる糸の先、哀れにも目の前の餌に食い付くことを我慢できなかった間抜けと目が合った。
どうだ、こんなくたびれたオヤジに釣られた気分は。
びちゃりと魚が身をよじり、水が顔に降りかかる。海水が目に入ったか猛烈に痛む。こいつは真っ先にかっさばいてやろう、と男は魚へ小さな復讐を果たすことに決めた。
その復讐心もすぐに萎んだが。
「わぁ、いいのが釣れましたね!」
ぱちぱち、と無邪気に手を叩いて喜ばれるとなんだか毒気を抜かれた気分になる。
隣で手を叩いて祝福してくれたのは浦波。ちょっと太めな眉毛とおさげがチャーミングな駆逐艦だ。快活な笑顔が眩しい女の子でもある。このあたりのおかしな点は彼女がちょっと特殊な身分であるからだが、それは今どうでもいい。
そんな浦波は、暇そうにしていたので釣りのお供に男に引っ張ってこられたのだった。
「これ、旨いかな?」
「たぶん、おいしいと思います?」
お互い釣りと魚に関してはドのつく素人なので、何一つ中身のない問答であった。とりあえずクーラーボックスに放り込む。食えないってこともないだろう、男の目にはフグには見えなかった。
慣れない手付きであたふたやってどうにか魚を外すと、また浮きを沖へ放り投げた。ちゃぽんという気の抜ける音を最後に、また波頭が岩肌に砕ける音と海風(艦に非ず)の音があたりを包む。
「……司令官、ちなみにどうして釣りをなさることに?」
「……暇だったから」
こちらはボウズらしい浦波が律儀に両手で竿を離さずに持ちながら聞いた。
「浦波たち、こんなことしてていいんでしょうか……」
形のいい眉毛をへの字にして、浦波は空を見上げた。鴎が取り残しを狙ってか着陸を待つ旅客機よろしく場周飛行している。
のどかなものだ。一ヶ月前まではいつ黒ごまの集団が見えやしないかと空をねめつけることもあったというのに。
浦波の呟きは聞こえたかどうか、男は制帽を目深に被って寝に入ってしまった。
次もまた起こさなければ。浦波は自らのものと一緒に、司令官の浮きにも目を凝らす。
時と潮ばかりが流れる時間を幾ばくか。吹き付ける潮風に少し海水の飛沫が乗っている。涼しさを感じつつも髪がごわつきはしないかと一抹の不安を覚えるのは年頃ゆえか。
それでも糸の先を眺めていると、なんだか一瞬激しく動いた気がする。目を凝らすと、ついに浮きが沈むと共に手応え。自分の浮きのほうだ。
起きていた甲斐もあったと一気に糸を引く。ある程度引くと、突如手応えが大きくなり、いくら引いてもうんともすんとも言わなくなった。これは大きいかもしれない! 確信を得てさらに強く引く。艦娘の膂力をもってしてこの抵抗ぶりである。もはや大当たりは確実だろう。一つ気合いを入れ、えい、とばかりに一際強く引いた。それでもまだ動かず、浦波の額に玉の汗が浮かび始めた。
逃がすものかとさらに一段階力を加えて引く。するとぶちんという音と共に突然竿が軽くなった。
体重を後ろにやってまで引いていた彼女は勢いでスッ転んだ。さらに悪いことに頭をぶつけた。人の頭と固いものがぶつかる特有の鈍い音が響き、視界が一瞬明滅した。
痛む後頭部を抑え、溜め息をつきながらリールを回す。先の抵抗は嘘のように消え、なんの苦労もなく糸の先が現れる。獲物どころか浮きも重りも付いていない。
ここに来て浦波の嫌な予感は理解と落胆に変わった。重い手応えと思ったのは、どこぞの岩間にでも引っ掛けただけらしい。それに気づかず引いたものだから、プチンといったようだ。
一瞬で冷えた。獲物を逃がした(そうでも思わないと虚しかった)ばかりか司令官からお借りした物を破損するとは。
なんと謝罪したものかと恐る恐る持ち主を見ると、浦波の焦燥も露知らず規則正しい寝息を立てている。なんだか腹が立った。鼻をつまんでやろうか。
八つ当たりにすぎないそんな衝動を却下して、浦波は大きく溜め息をつく。そして自分も寝ることに決め込み、同時に二度と釣りをしないことも決めた。今のところは。
「結局あれだけでしたね……」
「まあ、こういうのも釣りの醍醐味ともいうらしいじゃないか。また行こうか?」
「う、浦波は遠慮しておきます」
「なんだ、まだ気にしてるのか」
日もとっぷり暮れた頃、重いくせに中身は氷水ばかりのクーラーボックスを小脇に抱えた男と浦波は帰路についた。
あのあと当たりにも恵まれず、暗くなったということでお開きになったが、釣れなくとも当たりを待ってぼーっとしてるのは男自身は満更イヤでもなかった。
「でも、意外でした」
「何がだ?」
ぽつりと溢したような呟きを拾うと、浦波は少し焦ったように言った。
「いえその、司令を悪く言うつもりはないんですが、その」
「どうした。珍しく歯切れの悪い」
いつもはきはきとした浦波にしては常ならぬ、言い淀むような態度だ。浦波はそれを取り繕うと、怒らないで聞いてください、と前置きした。
「その、司令はこのようなことをなさる方には見えなかったので。冷酷無じょ……ああその、仕事一筋、というか……」
いつも無表情でしたし、と消え入りそうな声で付け加えもする。
なんだ、そんなことか。というかそんなことを言われて怒るような奴に見られていたのか。そのことに少なからぬショックを受ける男だったが、平静を保った。
「……俺、そんな心狭く見えるかなあ」
「ああいえその、今は違うとわかったんです! そんなに悲しい顔をしないでください!」
保てていなかった。
少女のような姿をした部下に情けなくもしばらくなだめられ、ようやくいつもの調子を取り戻した男は、とりあえずもう少し明るく振る舞うことを心に誓った。
そして浦波は無表情でも感情が滲み出た表情になることはあることを学び、あとで姉妹に話すことが増えた。
「一ヶ月前までは、ほとんどお話もしたことありませんでしたから、まさか一緒に釣りをするなんて思えなかったんです」
確かに、哨戒や遠征の報告を受け、それに対しての返答や出撃の際の作戦指導以外に、部下たちと話した記憶は男にはなかった。
この泊地で彼女らと任務についている期間はそう短くないが、彼女らの声を聞き分けられるようになったのはごく最近だった。
「でも、前の司令よりは、今の司令の方が浦波は好きですよ」
「……そうか。じゃあ、また今度釣りに付き合ってくれるか?」
「はい! ぜひ、お供させてください」
朗らかな笑みをたたえた浦波に、ああ彼女はこういう風に笑うのか、と男は自らの部下とのコミュニケーション不足を改めて痛感した。次の釣りは浦波だけでなく、部下全員と来て、一人一人と話をするのもいいかもしれない。
しかし次はもう少し釣りたい。男は次回に向けて釣りについて調べることを脳内予定に書き入れた。
「あ、司令官」
「綾波に、磯波か」
「磯波姉さん!」
そんな二人をみとめて呼んだのは綾波。その後ろには磯波もいた。如雨露とスコップをそれぞれ片手に持った二人は、農場の造営を終えたところらしい。そちらを見やると、畝ができている。なかなか進んでいるようだ。
「どうしたんですか、こんなところで?」
磯波の疑問に提督はクーラーボックスを掲げて答えとする。
「釣れましたか?」
にこりと微笑み綾波が問いかける。
部下四人のうちで一番練度が高く、戦果も大量、毎度鬼神のごとき活躍であった彼女が、いつもにこやかなごく普通の少女の一面もあること。最近そのことに気づいてからは、彼女の微笑みは男の小さな癒しであった。
「うんにゃ、さっぱりだ」
「一匹だけしか……しかも、浦波は戦果なしです」
「そうでしたかー、それは残念です。次に期待ですね。今日のお夕食は磯波ちゃん担当ですから、渡してあげてくださいね」
「はい、せっかくのお魚ですし、しっかり調理しますね」
それに了承の意を返して小脇のボックスを渡すと、思い出したように磯波は言った。
「とりあえず、食材用の野菜から種を取って、植えてみました」
「おー、そうか」
畑仕事は門外漢の男はよくわからないがとりあえず労うことにした。御苦労様、というと磯波はほんのりとほほを染め、どこか誇らしげに微笑み、綾波もにこやかに「はい」と返す。一ヶ月前までのそれとは違って温かみのあるそれに、なんだか胸も温まったように感じた男である。
そんな謎の感動に浸る彼に、磯波はもう一つ続けた。
「それからその、敷波ちゃんが捜してました。片付けほっぽってどこいった、って」
「ぷりぷりしてましたよー。こーんな風に」
敷波の真似だろうか、頬をぷっくりと膨らませる綾波。彼女らしくもない、しかし再現度の高そうな物真似に浦波と男は揃って吹き出した。磯波も吹き出しこそしなかったが、口に手を当てて小さく笑った。
「あっはは、似てますね!」
「さすがは姉妹だ、目に浮かぶようだ」
「もう、怒り具合を表したんですよ」
「ご、ごめんね綾波ちゃん、そう膨れっ面しないで」
思いの外笑われたからか、今度は綾波がぷっくりと頬を丸くする。そんな様子がさらに笑いを誘い、綾波の頬はますます膨らんだ。
すっかり膨れっ面の綾波を宥めるのにとりあえず磯浦姉妹を置いていき(丸投げとも言う)、男自身はとりあえず敷波を探した。
片付けを放り出してとは心外な、きちんと終わらせて書き置きも残したはずだが。
「あ、いた!」
最近は聞き慣れてきた秘書艦の声が背中に突き刺さる。すたすたとこちらに歩み寄る気配を感じながら振り返った。
「どこ行ってたのさ、執務室片付けてって言ったじゃん」
綾波の言っていたとおり、ぷりぷりと怒りつつ腕を組み、こちらにジトっとした視線を向けてくる敷波だった。その姿に綾波の物真似のクオリティーが高かったことを確認した男だったが、込み上げた笑いは引っ込めた。いやちょっと口角がひくついた。
「なにさニヤニヤしちゃって」
「……いや。それより、執務室はちゃんと片付けたはずだが」
言い分を聞くや否や秘書艦は呆れた顔を隠さなかった。
「……真顔で何を言うかと思ったらさー」
そして人指し指を立てると、聞き分けのない子供に説くようにゆっくりと、平易な口調で言った。
「あ、の、ね? なんでもかんでも棚につめこんどくのは、整理整頓とかそういうのに、真正面から喧嘩を売ってるから」
貼り紙もしてるじゃん、と続ける。そういえばそんな赤文字を見たような。男は記憶の片隅を掘り起こしたが、確かにかわいらしい丸文字で『整理整頓!』と御丁寧にビックリマークまでつけた貼り紙を見た気がする。
しかし、そもそも禁煙やらなにやら、そういう貼り紙について守ろうと思ったことがないような気もする。
「……ねぇ、司令官てさ、失礼なこと聞くけど片付けしたことある?」
……言われてみると、これまでろくに私物も持っていなかったし、することといえば勉学と鍛練しかなかったので、部屋を汚したこともないような気もしてきた。
「まず散らかしたことがない」
「片付けもないねそりゃー」
司令官てすんごい真面目人間だったもんねぇ、としみじみぼやきつつ、額に手を当てる敷波。
確かに、生まれて初めて釣りというものをして、ぼーっとする時間を過ごした。
こんなに自由な、言葉を選ばなければ自堕落な生活を送ったことは生まれてからただの一度もなかった。
「……んじゃあ、これから覚えてよね、もう」
今日はとりあえずあたしがやったげたからさ。そう言い残すと敷波は歩き出した。まさかやってくれていたとは。頭の下がる思いの男である。
「すまん、ありがとう」
「……べつに、あたしが勝手にやっただけだし」
振り返らずに手をひらひらとやって、敷波は行ってしまった。
彼は自らについて仕事はできるほうだと思っていたし、それは事実であった。しかし、その仕事がなくなるとこうもダメ男になってしまうのか、と自らに愕然ともしていた。
それ以外のことを何一つ知らないからなあ、とある種の納得すら覚えたが、だからと言ってそれを理由にこのままでいるわけにもいかない。まして部下に部屋の片付けをさせるなど言語道断である。
生活能力の獲得を誓った提督だった。
このラバウル基地第六分泊地が孤立して一ヶ月が経った。山のように積み上がるはずの決済書類は一枚も出ず、雲霞のごとく襲いくるはずの敵も一匹足りとも現れない。敵も味方も忘れ去った、ただそこにあるだけの泊地。
当然補給もなにもないので、ペンと艤装を倉庫に投げ捨て、釣竿、鍬、その他おおよそ軍務には似つかわしくない道具を用いて自給自足をせねばならなくなった提督と艦隊。
そこへきて漸く、海軍士官として国へ捧げるだけだった人生にそれ以外のものを見出だした男が一人。四人の部下に支えられた彼の人間回復の記録。
「……なんで散らかってるのさ! あたし片したのに!」
「いや、磯波が貸してくれた本が存外に面白くてな。昔同期が送ってくれた本にそのシリーズがあった気がして」
「だからって文字通り棚をひっくり返さないでよ!」
……怠ける方法を覚え始めているだけかもしれない。