兄を追いかける妹
時は過ぎ去り、舞島市で半世紀以上昔に建ったショッピングモール・イナズマート。薄い肌色の外壁は十年前に増築された立体駐車場の近辺が一番明るく、補修改修による塗りの違いがまだら模様を描く。おまけに建物の隅では目立たない細長いひび割れがのたうちまわっていた。
正面の中央に出入り口があり、その脇をサマーセール開催の幟が並ぶ。平日の駐車場はまばらで客はなるべく近くに車を停め、そそくさと中へ入っていった。寂れた外観を眺めて舞島の歴史を気に留める人は既にいない。7月初めの風が吹かない午後。揺れることなく旗は新しい訪れを出迎えた。
出入り口の自動ドアがゆーっくりと開き、セーラー服の少女が慌てて飛び出した。駐車場まで来て真っ直ぐ、勢いそのままに白いスニーカーが車止めを四つ、五つと飛び越えていく。
右足を踏んばって植え込みへジャンプ。スカートの裾を枝に引っ掛けても気にしない。前に流れる体勢に「よっ」と腕を前後に突っ張り、歩道の上で一息ついた。途端に、右へ左へと首を振る。『新舞島駅2㎞』と書かれた下に橙色のリュックを見つけ、また走り出した。
「おにーぃーちーゃーん、待ってよーー」
兄は広げた雑誌に左から右へじっくりと眼を動かし、頭を傾けたまま歩を進めた。目当ての占い月刊誌はイナズマートの書店には二冊しか置いてなく、発売日は二週間前だった。棚で残っていた一つを手にしてすっかり有頂天になった。部屋まで持ち帰ることにした1cmの厚みがある本。今はもう読まれ、包んだ紙製の袋がどこにいったのかは開けた本人も分からなかった。
ふと、彼は雑誌から顔を上げた――さっきから誰かに呼ばれているような気がする。
ピッポー、ピッポー、ピボッ
歩行者用信号の音が途切れ、前方で青色が点滅を始めた。頭を覆ったキャップを回避するかのように地面から横断歩道の白線で反射する太陽に眉をひそめた。信号横は立ち木が植えられ、根元のまとまった日陰にリュックを下ろして500mlのペットボトルを取り出して封を開けた。
スポーツドリンクに口をつけ、あらかじめ用意した自分の行動に満足する。イナズマに向かう途中のコンビニでお釣りを数えて直前に袋を受け取り、千円札が支払われて店員に愛想なく、レジに置いた商品にそっと横からおにぎりを妹が……と、ようやく声の主を思い返し、彼は後ろの方向に目を凝らした。
「待ってよー」
声を張り上げた少女がこちらへ駆け寄る光景に頬を緩め、帽子のつばをずらして額を掻いた。
学校、公園、神社、竹やぶ、……と妹が後を付いてくる。色んな場所で繰り返された行為は二人の日常に根を張り、今日も彼女は施設から一人でやってきた。
彼女はだんだんと近づいた。その姿に比べてモールの入り口は大分と遠くに見え、そこに立てられた看板は色だけが場所を示す。後方から来た車がスピードを落とさず、あっさりと彼女の側を通過した。彼は交差点を気にかけるのをやめ、雑誌に視線を落としてしばらく待つことにした。
妹は手で空気をかき、やっとこさ兄のところにたどり着いた。涼しい顔の彼から閉じた雑誌を片手に迎えられるが、顔が紅潮した彼女は答えを返せなかった。前屈みになって膝に手をつき、肩で息をして呼吸を整えていった。太陽は高く昇り、経年によって道路の表面をも劣化させる。少女の腕や首回りに汗が光った。
呼吸が少しラクになり、気づくと彼が後ろを向いてしゃがんでいる。鼻の奥へ空気を吸いこみ、嬉しそうに無防備な背中へ飛びついた。
「追いついたよ、お兄ちゃん」
「ねえ、ちょっと離れてくれるかい」
突然の体当たりと首筋へのベタベタした感触にも大して驚かず、兄がゆっくりとリュックを閉じて日の当たる方へ立ち上がる。反対に、背中をずり落ちる妹は木陰で地面に足が着いた。
取り出したタオルで首を拭く兄の様子に、少女は顔の前方へ両手を持ってきて手首をくるくると回した。それを彼から放り投げられ、空中で広がってあたふた。そんな彼女にペットボトルが差し出された。
「汗をちゃんと拭くんだよ」
「うん」
「はいこれ、飲まないと熱中症になるから」
「うん、オッケー」
タオルを広げて顔を一拭き。僅かに減ったスポーツドリンクを受け取り、彼女は一気に飲み干した。制服の袖口から手を入れて背中を拭こうとするのを横目に再び雑誌が広げられた。もはや兄が手伝わなくてもさほど困らない。母親が死んだ病院でわんわん泣いていた少女は大きくなり、身の回りの事を自分でやるようになった。
拭き終わったタオルを首に引っ掛け、妹はページをめくる彼の手元を覗きこんだ。
「お兄ちゃん、何読んでるの」
「イナズマの本屋で買ったやつさ」
「わたしがソフトクリーム食べてる時、これを探しにいったの」
「そう。今日はラッキーだったよ」
「……なんで帰っちゃったの」
「やっと買えたんだし、早く読みたいでしょ」
「…よ」
「何か言った?」
「ひどいよ。わたしのこと忘れてっ!!」
ヘソを曲げた妹が木の傍らで俯き加減にペットボトルを両手で掴んだ。兄の視線は宙を泳ぐと、そのまま今日の占い欄へ。ラッキーフードの項目に『コーヒー』の文字が目に入った。
頭上を伸びる枝に遮られた陽光は少女の体へ斜めに差し込んで足元を照らした。彼は静かに雑誌を閉じ、彼女の前で下から急にパッと振り上げた。驚いて顔を上げた妹に腰を屈めて目線を合わせた。
「何か食べていこうか。お腹すいたんじゃない?」
「コンビニでおにぎり食べたからいいよ」
「一緒に来れば大好きなチキンを食べれるんだけどなぁ」
「へーきだよ。すいてないもん」
妹は両手を背中にまわして顔を背け、ご機嫌取りに乗らないように聞こえないそぶりをした。
突如、兄が腰を伸ばして胸のポケット辺りで何かを手に取った。彼女はおもむろに左手を口の前へ持っていき、あくびを小さくした。耳をそばだてるも無言の手先に音はなかった。薄目を開けてスマホを発見。思わずハッと声を漏らし、口元を隠して瞳が慌てた。
「エリ、ここに行こう!」
兄が目の前に出した画面でコーヒーの絵柄と価格表示の天地がひっくり返り、妹は不思議そうな顔。指をトントンされ、カップが大きくなって少女は目を丸くした。
「なに、なにこれ…」
「これでコーヒーの支払いをするんだよ」
「え、お金は……」
「その代わりになるの」
「へー、便利ね」
「駅前に新しくできたんだ。二階にオープンテラスもあるよ」
「それって喫茶店?」
「それは行ったらわかるさ」
「う、うん」
一抹の不安とともに新しい行き先への期待が膨らみ、兄を見上げた。そこへ手が伸びて軽くポンポンと白いキャップがかぶせられる。妹の温まった頭部はすぐに冷静さを取り戻し、自由になった彼女の手元に注意を向けさせた。
早速、雑誌を仕舞った少年。彼はリュックの肩紐を持って勢いよく背負った。幹にぶつかり、枝が揺れても気にしない。道路上の白と黒の縞々をセットで一歩ずつ越えていった。
残された少女は右手に持ったペットボトルを捨てる場所を探して周りをキョロキョロした。
「あ、待ってよー」
横断歩道も終わり、妹は車道と歩道の段差をスキップで乗り越えた。小走りで兄に追いつき、足元を見ながら前に出す足を揃えようと悪戦苦闘して苦笑い。キャップの後ろを押さえてつばを少し浮かせ、額にかざした手の下から進行方向を見渡した。
「この辺りって色んな店があるんだ。都会だわ~」
「舞島はまだまだだよ。鳴沢は高いビルが多いし、イベント会場もあってね」
「へぇー、すごいや」
兄と妹はいつも通りの何気ない会話を交わし、舞島の新駅へと延びる道筋を歩いた。あくまでも容赦なくギラギラと照りつける太陽の下、熱を帯びた地表を二人は進む。ともすると人の心に入り込んだ悪意が満ち溢れる現在。それに対抗する風は吹くのだろうか。
肩を並べる兄妹が向かう一本道の先に待ち受けているセカイはいかに――
―― 次章予告 ――
舞島市の桂木家で暮らす彩香。独身生活を謳歌する彼女だが、父からの見合い話を断りつつ他人の幸せに嫉妬した。前を通り過ぎたエリたち兄妹にも勘違い。彼らの後ろを歩いて… ⇒FLAG+01へ