土曜日の朝、みちほは上半身Tシャツで洗面台の前に立ってブラシで髪をといた。昨日はかなりの寝不足で学校へ行ったため風呂を出てすぐ就寝し、睡眠が十分とれて色艶の良い肌が鏡に映っていた。
いつもと同じに分けた前髪は三角形のヘアピンで留められ、エリがしてくれた可愛い顔は採用されなかった。他人の合格発表で目立とうとするのは場違いな気がし、夏也に会った時にじろじろ見られると困る。そう考えたみちほはスラックスを履いてブラウスの上にセーターを着た。いつもと変わらない恰好で台所へ向かったが、食事中にハプニングが起きた。考え事をしながら味噌汁のお椀を持ち、手が滑って太腿の上にぶちまけた。母・美雪は瞬間湯沸かし器のように怒ったものの、急いでみちほを脱衣所に連れていって汚れた服を脱がせた。エリに聞いたバスの時刻が迫っているからだった。
「いちいち母さんに電話するんだもんなぁ、エリ姉」
みちほが寒そうに足を擦り合わせると、あきれた表情をした美雪がエプロンの前に着替えを抱えて後ろに立った。
「タイツも持ってきたわ。まったく、面倒くさがって履かないんだから…。それとパンツも濡れてるでしょ、ちゃんと替えるのよ」
「うん」
頷いてみちほは着替えの山から白タイツとショーツを取り、着脱に使う丸い椅子に奥へ向いて腰掛けた。美雪はブラウスとリボン、スカートをランドリーワゴンに載せて不思議そうな顔をした。
「ねえ、この制服のスカートは誰が買ったのかしら」
「あ、それはエリ姉が貸してくれたの」
「ふーん。彩香が捨てずに取っといた物ね。ま、ちょうどいいから今日はこれ履いていきなさい」
「いや、そのスカートは……」
慌てて振り向いたみちほの手からショーツが落ち、美雪は腰を屈めてプリントされた猫のキャラをつまんで下のかごへ放り入れた。腰を伸ばした彼女は恥ずかしがる娘に嘆息すると、優しく肩に手を置いた。
「みちほは女の子なんだから、スカートで学校に行っても変じゃないのよ。エリちゃんがこれを履いて合格発表を見に行こうって誘ったんでしょう」
「だって、履いてくの恥ずかしいしさ」
「あら、母さんはスラックスであぐらをかかれる方がずっと恥ずかしいわ」
「何言ってんの。そんなこと学校でする訳ないじゃん!!」
みちほが珍しく美雪に向かって気色ばんだ。普段、母の前では怒らせないように素直に言う事を聞く良い子を演じた。美雪は手がかかる兄たちと比べてラクと思う一方で、感情を表に出さない娘に不安を抱くことが間々あった。その最たるものが小学六年の時に始まった理由の分からない登校拒否だった。だが、エリが家に来てからほとんど休まず学校に行くようになり、前髪を分けてヘアピンをしたり、下着を買ってきたりと行動に変化が現れた。そして、先日は男子とデートをしたと伝え聞いた。そうした事の一つ一つがエリの影響を受けているのだと美雪は思い知った。
美雪は嬉しそうに微笑んで腰に手を当て、反抗的な目を向けるみちほの頭をポンと叩いた。
「ふふっ、諦めなさい。もう一本のスラックスは去年作ったまま裾伸ばししてないし、ちんちくりんで履いていくと笑われるわよ」
「そ、それじゃあ…」
「えーっと、あとはブレザーか。そうね、味噌汁がはねた紺のセーターは洗濯するからクリーム色のを持ってくるわ。ほら、ぼけっとしてないで早く着替えなさい」
やけに乗り気な母の命令口調に、みちほは面白がっているのではないのかと勘繰った。美雪が脱衣所を出ていくと、脱いだ靴下をスカートの上にポイっと投げ、面倒くさそうにして両手でタイツのつま先を手繰り寄せた。
リボンを結び終えたみちほは浮かない顔でたたずんだ。制服だけ女の子らしくしても彼が可愛いと思う訳はないと思った。ただ、美雪の機嫌を損ねてまでスラックスを履く気も起きなかった。
田んぼに囲まれる平屋の地区公民館。隣は住職のいない簡素な寺があり、道路から建物まで駐車用にコンクリート舗装された。バス停の案内板は道路端のギリギリに立ち、乗客はほぼ公民館側でバスを乗り降りした。
外はすっきりと晴れて日差しがまぶしく、みちほは母に借りたボテッとした黒いダウンが暑くて前を開けた。エリへ送ったメッセージは既読にならずイライラした。車いすのシート上で画面から視線を上げ、近づくバスに舌打ちしてスマホを仕舞った。夏也との鉢合わせを避けるために合格発表での時間をなるべく短くする。舞島学園に着くまでに受験番号を聞いておこうと気ばかり急いて他の事に一切考えが回らなかった。
渋い表情のみちほは停車するバスの中扉まで移動した。電動スロープが早く出てこないかバスの下を眺めていると、開いた扉脇に黒い学生服のズボンが見えて顔を上げた。
「な、夏也先輩……」
「おはよう。ちょっと待っててね、そっち行くから」
夏也はスロープが出終わるのを待ってコンクリートに飛び降りた。女性のバス運転手が前から来て「じゃあ、頼んだわね」と声をかけ、そちらを向いた彼が背中を見せた。みちほは事態が飲み込めないものの、隙を見てファスナーを太腿から首まで上げて制服を覆い隠した。
みちほに目配せして運転手は背中を見せ、代わりに夏也が後ろに回って車いすをスロープに押し上げた。そのまま車いすスペースへ押していき、キャスターと後輪を壁のセンサーが感知して床の固定装置に自動ロックされた。乗客はまばらだが彼は後ろの握り棒に手を掛け、みちほの横で満足げに息をついた。
「ふぅー、板に上げるまでは重くて疲れたよ。あ、もしかして驚かせちゃったかな。みちほさんが乗ってくるって話をして運転手さんにお願いしたんだけど」
「そうですか。気を遣わせてどうも」
顔を合わせようとせずにみちほは手を組んで斜め前方へ目を向けた。扉の閉まるブザー音がしてバスが発進し、車窓に公民館の建屋と寺のお堂が流れた。
「ああ、そうだ。エリさんは今起きたところで舞島学園には直接行くそうだよ」
いきなり夏也の顔が近づき、みちほはギョッとして身を引いた。小恥ずかしさをエリに転嫁して「連絡ぐらいしろよ」と腹を立てた。だがしかし、来るつもりがないなら話は違ってくる。これも作戦の一環かと考え、夏也の方に体を戻して上目遣いをした。
「それで、先輩もエリ姉と一緒に行く約束したんですか」
「うん。入学試験が終わってから話しかけられて、三人で行こうって聞いたんだ。けど、今日はしばらくみちほさんと二人きりだね」
「ふ、二人きり……」
みちほはゴクリと唾を飲み込んだ。男女が狭い部屋で肩を寄せ合うシーンを連想させる魅惑的な言葉に胸が高鳴った。時が止まったかのように夏也を見つめると、次の瞬間、バスが田んぼの十字路を曲がった。夏也が遠心力に上体を反らせて後ろへ足を引いて踏ん張り、ハッとしてみちほは彼へ手を差し伸べた。
「立ってたら危ないですよ。どうして座らないんですか」
「それはね、いつも君の側に居たいからさ」
「えっ、わたしと…」
「なーんてね。ほんとは一人でいると合格発表のこと考えて不安だし、みちほさんと話をしてれば気が紛れると思ったんだ」
「そ、そうですよね。ごめんなさい」
頬を赤く染めたみちほは下を向いて胸の前で小さく手を合わせた。彼の気持ちを考えず浮かれた自分が恥ずかしかった。吊り革を掴んだ夏也は上から申し訳なさそうな顔を覗き込んだ。
「ねえ、なんでみちほさんが謝ってるの」
「あ、その、それは……エリ姉が迷惑をかけたんじゃないかと」
「そっか、彼女と親戚だからね」
「はい」
「エリさんが寝坊か。試験の後は自信満々だったけど、昨日は眠れなかったのかな」
「ええ、多分そうですよ」
エリを気にかける夏也の話に合わせ、みちほは自分の勘違いを誤魔化した。告白される訳がないと頭で分かっていても淡い期待を持ってしまう。邪念を振り払おうと前を向き、膝に手を置いて目をつぶって深呼吸した。
無心のみちほに前より肌艶が良い柔らかな印象を受け、夏也は横顔に見とれて「ピンク色のヘアピン…」とつぶやいた。話かけられたと思ったみちほは目を開けて耳の上に手を当てた。
「あ、これですか」
「そうそう、前にエリさんも同じとこにしてたでしょ」
「へー。記憶力いいですね」
確かに、夏也の言うヘアピンは数か月前までエリが付けていた。みちほは彼が覚えていることに疑問を感じつつも、合格発表の不安を吹き飛ばそうと手を叩いて盛り上げた。
「この記憶力なら入学試験の結果もいいんじゃないですか」
「あははは、僕の話はおいといて…エリさんは合格すると思う。早期選抜を受験するぐらいだし」
「は?」
「それにしても、エリさんは成績も運動神経も良くて凄いよね。体育の授業でトラックを走ってるのを窓から見てたら、瞬く間に他の女子と半周近く差をつけたんだ」
夏也は自分の試験結果に触れて欲しくないのか、唐突に学校での話を持ち出した。ヘアピンのことも含めてクラスの違うエリに強い関心を向けていたと分かり、みちほは面白くなかった。不貞腐れると窓側のアームレストに肘をついて手に頬を乗せた。
「どーでしょうねぇ。入学試験の直前は余裕ぶっこいてサボってたし」
みちほはしおらしい態度から素の話し方に戻って悪態をついた。せっかく邪魔の入らない環境で彼と一緒に居られる機会に聞きたくない話題だった。エリには同じ学校と学年というハンデの上に可愛さで敵わない。以降は彼女の話を続ける夏也にムッとした表情で適当に相槌を打った。揺れるバスの車内で、エリに対する嫉妬の炎がみちほの心にゆらゆらと燃え出し始めた。
バスを降りた二人は舞島学園の校門を入り、警戒中のロボットから腰ほどの高さにある頭部カメラを向けられた。車いすを押す夏也は不慣れな様子でペコペコし、シートに座るみちほは我関せずとスマホを触った。一般入学試験の受験生と中等部の生徒としてそれぞれ認証され、冬芽が膨らみかけた木々の間を通って中央校舎の前に進んだ。
みちほは画面に表示されたエリからのメッセージを怪んだ。降りたバスの舞島学園前発車時刻と一致する送信時刻。あらかじめ予約しておいたのかと、眉をひそめて後ろへ向いた。
「もっと遅れるとかエリ姉から来ましたけど、先輩どーしますか」
「じゃあ、先に僕の結果からか…」
「ビビッてるならここに居てもいいですよ。わたしが代わりに見てきますから」
「はっ、ははは。つれないなぁ、なんか怒ってない?」
「いいえ。何もないです」
ツンツンしたみちほに夏也は観念し、合格発表が行われる場所へ車いすを向けて押した。校舎の周りはジャージを着た複数の集団が競技名を叫んでランニング中だった。彼らをよけるように車いすがくねくねと移動し、みちほは難しい顔で腕組みした。メッセージには書かれていなかったが、エリが学園内にいる確信があった。再び女神・メルクリウスから煎餅ビンや他の道具を手に入れようとすれば、夏也のパートナーを探す彼女が納得する彼との仲睦まじい男女関係の証明が必要になる。その証拠映像の撮影をエリが狙っているに違いないと考え、わざと固く口を結んで正反対の行動をとった。
中央校舎東側の角を曲がり、人気のない壁の前で夏也が車いすを止めた。白い用紙にびっしりと並んだ四桁の数字。校舎の横壁は進学、情報、芸術、職業訓練コースの順に合格者の受験番号が貼り出された。彼は受験したスポーツコースがなく、ふーっと息をついて通り過ぎた。
先にある高等部校舎裏は人だかりができて賑やかな声が聞こえた。人垣を回って後ろに来るとハンドベルが鳴り響き、長机の前で合格者が袋を受け取って周りから拍手が起こった。
「ああ、ユニホームが当たる福引きですよ」
「みちほさん、知ってるの?」
「スポーツコースの定員は少ないから、運動部が勧誘目的でやってるんです」
みちほがゴソゴソと片手をポケットの奥に入れた。久しぶりの会話に夏也は車いすの横に回り、楽しげに「それでそれで」と腰を屈めた。スマホを仕舞ったみちほはハンドリムに手を掛けた。
「あ、先輩は人が減るのを待ってて下さい。わたし用があるんで」
大した事のない恒例行事の説明より、エリを見つけて非難する方が大事だった。一階は教室の窓も多いが、どこかの壁に合格者が張り出されているのだろうと考えた。みちほは自分で車いすを動かし、そっけなく夏也を避けてエリを探しに行った。二階のベランダを見上げながら高等部校舎の端まで移動して車いすを180度ターンさせた。校舎と反対側は常緑樹が生い茂る林。地面の近くに寄って木の陰へ目を細くし、コンクリートの方に落ちた葉や折れた枝をよけつつ引き返した。
どこにもエリの姿は見当たらなかった。両腕が疲れたみちほは合格発表の場所までやや距離を残して車いすを止めた。人だかりは受験生が大分と減り、受験番号が並ぶ白い紙と貼られた小さい掲示板が合間から見えた。発表方法が分かったところで、ふと夏也はどうなったのか気になって視線を向けた。
掲示板から少し離れた後方に、夏也が呆然と口を開けて突っ立っていた。みちほは表情から『不合格』と思い込んだ。不安を抱える彼に冷たい態度をとったことをひどく反省し、追い詰めたような後ろめたい感じがして胸を手で押さえた。元気づけるために早く行かなければと焦り、ハンドリムを回すとキャスターに長い枝が引っ掛かった。思わずフットレストを上げてみちほが車いすから立ち上がった。「放課後は一緒に遊べるじゃないですか」、「バス通学より自転車の方が断然ラクですよ」、「わたしも公立高校を受けようかな」。幾つかのセリフを用意しながら、障害がある足を引きずって彼の元に駆けつけた。
ところが、夏也はみちほへ体を向け、彼女の顔を見るなり嬉しそうにして掲示板を指差した。
「見えるかい、右側の列の一番上が僕の受験番号なんだよ」
「えっ、ほんとですか。合格……良かったぁ」
みちほは合格だと知ってほっと一安心し、自分の事のように喜んだ。すると、「合格」と聞いた夏也は感極まって彼女に抱きついた。
「みちほさん、ありがとう!!」
学生服の胸が勢いよくぶつかり、ダウンの上から男子にぎゅっと強く抱きしめられた。みちほは目を丸くした。正面から異性の体が密着してくるドキドキ感と冬の厚着が遠ざける温もり不足のもどかしさ。真横にある夏也の頬を意識して顔を紅潮させ、手の置き場に困って腰の辺りを軽く押さえた。
至福と困惑の時はそう長く続かず、静かに体が離れて今度は両手を握られた。みちほは夏也の顔を直視できずに下を向いた。熱い抱擁からの流れはリアルでも相場が決まっている。チラチラと目を上げ下げし、彼の口から出る言葉を待った。
「これでみちほさんと毎朝一緒に通えるね」
「えぇ…ですね」
「病気で行けない時とか困るし、連絡先を交換しようよ」
「は、はい」
コクリと頷いてみちほは顔を上げた。夏也が手を放してポケットのスマホを差し出し、自分のスマホを近づけた。二人は手元を見つめて情報の送受信を見守り、ピピッと音が鳴って夏也は沈黙を破るように口を開いた。
「前から思ってたんだけど。僕、ずっと――」
話の途中で夏也は突然、空中へ体が持ち上げられた。彼の胴体を五、六人の柔道部員が頭上に水平にして運び、有無を言わせず彼は福引器やユニホームの袋が並ぶ長机の前に下ろされた。
初めは面食らった夏也も先輩たちの祝福にいつもの笑顔を見せた。一方、みちほは告白シーンを台無しにされて憮然としていた。けれども、彼の屈託ない表情を眺めるうちに彼女は楽観的な気持ちになった。
「ま、エンディングは見えたかな」
恥ずかしがり屋のみちほは面と向かって夏也に想いを伝えられなかった。だが、学校はイベント発生におあつらえ向きの場所であり、告白の続きを聞けるのではないかと期待を寄せた。
カフェの見合いから始まった二人の関係は急展開で夏也が告白する寸前まで来た。みちほはこのまま行けると考えつつも、彼の会話に一抹の不安を覚えた。エリの話を楽しそうにする夏也。その一言によってみちほの感情は浮いたり沈んだり如実に喜怒哀楽が表に現れた。心の中で彼の存在が大きくなるに連れ、比例して彼に望むことが増えていくのであった。
―― 次章予告 ――
舞島学園に出現した駆け魂は分裂してどこかへ飛んでいった。時を同じくして校門を出る猛スピードの車いす。夏也に話を聞いたエリは魔法のバイクに跨がって上空からみちほを… ⇒FLAG+21へ