駆け魂の出現はエリがまったく予想していない事態だった。М42をポケットに仕舞ってフラフラした幽体の発生地点へ目線を下げると黒髪の伸びる背中があった。眼鏡の少女が壁に貼り出された受験番号を見上げて嬉しそうな顔をした。合格に満足する心に居づらくなった駆け魂が逃げ出す途中に見え、エリは勾留のチャンスと考えて後ろへ手を振った。
「シャイロさんシャイロさん、勾留ビンないですか」
「へっ。あ、一個だけ持っていますわ」
シャイロは初めて見た駆け魂に度肝を抜かれていたが、名前を呼ばれてあたふたとリュックを背中から下ろした。リュックの蓋を開けて不安げな表情で手を突っ込んだ。
「どうしましょう。汎用タイプでも捕まえられるかしら」
「え、汎用ってどんな勾留ビンです?」
振り返ったエリは「これですわ」とシャイロが差し出す透明なビンを受け取った。蓋を取って中を覗いて耳元で前後に振り、手のひらから放出した魔力が内部に溜まる様子に頷いた。
「大丈夫です。これで二匹捕まえましたから」
「うぇっ、あなた駆け魂を捕まえたことありますの。駆け魂隊でもないのに」
「はい、これより大きいと思いますけど全然余裕でした」
「そ、それは凄いですわね!!」
駆け魂隊入りを目指すシャイロが向ける驚きと羨望の眼差し。エリは調子に乗って鼻を高くして駆け魂へ向き、自信満々な態度で脚を開いて身構えた。一目置く彼女の視線を背後からビンビンと感じ、浮ついた気分で目の前の敵に油断していた。
「ふふふ、一発で勾留して見せるわよ」
「グヒヒヒヒ…」
駆け魂が若い二人の悪魔を見下ろしてニヤリと笑った。不敵な笑みを気にせず、エリは勾留ビンを脇に抱えられるぐらいまで大きくして上方へ口を向けた。
「駆け魂、勾留!」
吸われた駆け魂の胴体は弓のように曲がり、吸い込む勾留ビンを抱えるエリが膝を曲げて後ろに体重をかけた。両者の魔力がぶつかってバチバチと火花を飛ばした。必死にこらえる駆け魂との綱引きの末、幽体の尻尾が眼鏡の少女から完全に切り離されてビンに半分以上収まった。ところが、駆け魂は頭部がスポーンと抜けて反対方向へ飛んでいった。
エリは勾留ビンに駆け魂の胴体部分を吸い取って蓋を閉めた。分裂する事を失念して逃げられる大失敗だった。魔力を解放して縮んだビンを掴んでブラブラとさせ、駆け魂が去った中央校舎の角を眺めてぼーっと突っ立った。
「どうなさいましたの」
呆然とするエリの眼前にシャイロが手を振った。エリは目をパチパチさせて小声でつぶやいた。
「…追わなきゃ」
「何です?」
「分裂した駆け魂を追わなきゃ」
「でもエリ―、勾留ビンがありませんわよ」
「うっ。それは……」
エリが口ごもって下を向くと、足元にコロコロと透明な物体が転がってきた。十字形の外蓋が付いた勾留ビン。拾い上げたエリは戸が閉まる音を聞いて通用口へ向き、はめ殺しの窓に白髪の副校長・二階堂の後ろ姿が映った。
「なんで、舞島学園の副校長が勾留ビンを持ってるんだろう」
不思議そうに通用口を眺めるエリの手から、ひょいっとシャイロがそのビンを手に取った。
「蓋が補強された勾留ビンに見えますわ。このタイプはレベル4の駆け魂用ですけど、角が蝶番になってますわね。もしかして、蓋がパカッと開いて魔法で駆け魂を捕まえるのでしょうか」
「う~ん。怪しいなあ」
腕組みをしたエリは二階堂が転がしたと思われる勾留ビンを横目で睨んだ。二階堂はシャイロの正体を見破って受験記録を消した舞島学園側の人物である。学園に悪魔が入り込まないように警戒する彼らが学園から駆け魂を追い出すことに協力してもおかしくはなかった。エリは捕まえた分裂駆け魂の胴体を見つめ、「アァーッ!」と叫んでシャイロの方を向いた。
「駆け魂って普通の人間には見えないんでしたよね」
「いきなり大声で何ですの。そんなの初等魔学校で習うことじゃありませんか」
「そうか、だからあの人も悪魔なんだ」
エリは二階堂を駆け魂が見える悪魔と断定した。彼女がくれた勾留ビンは分裂駆け魂を捕まえるための特殊なビンと考え、こうしてはいられないと中央校舎とは反対へ駆け出した。
「バイク借ります!!」
「はぁ、どうするつもりですの」
脇を通り抜けたエリへ困惑した顔を向け、訳が分からずシャイロは立ち尽くした。けれど、空飛ぶバイクを持っていかれては彼女も帰るに帰れない。二階堂の勾留ビンをリュックに仕舞って肩に背負い、林に入ったエリを急いで追いかけた。
舞島学園の上空をホバリングする魔法で飛ぶバイク。分裂駆け魂はデータが少ないせいか駆け魂センサーの広域チェックに反応しなくなった。ハンドルを握ったエリが魔力でバイクの姿勢を制御し、後部シートのシャイロが駆け魂を探して学園の敷地へ目をやった。
「駆け魂見えますか、シャイロさん」
「どこにも見当たりませんわ。というか、高度を取り過ぎですわよ」
「それじゃあ、ちゃんと腰に掴まってて下さい」
エリはペダルを踏んで機体の高度を下げ、バイクが中央校舎の建物前に滞空した。その時、校門から向かってくる学生服の夏也が見えた。あろうことか彼は一人で来た。一緒にさせたみちほを勝手にほっぽり出したと思い、問い詰めるために真下に着地しようとしてさらにペダルを強く踏み込んだ。
「よくも一人でノコノコと現れたわね」
「どこ、どこですの」
エリの独り言にシャイロは駆け魂が見つかったと勘違いした。急降下する最中にきょろきょろと地上を見下ろすと、彼女のヘルメットに突風で舞い上がった真っ黒なものが貼り付いた。
「な、何も見えませんわ。どこを飛んでいるのですかっ」
視界を塞がれたシャイロはパニックになって両手で顔の前を掻きむしり、バランスを崩してシートから真っ逆さまに落下した。幸いなことにバイクは地上から数十センチの所まで来ていた。それでも、コンクリートに頭を打ちつけた衝撃から気絶してバタンと仰向けに倒れた。
「もー、何をやってるんです」
シャイロが派手に倒れ込んだ音を聞き、分裂駆け魂の発見を急ぐエリはあきれた表情で振り向いた。彼女の手首を掴んでバイクを地面すれすれに飛行させて体をズルズルと引きずった。
校門からの通路の端でバイクを降り、自分のヘルメットをリング状に戻して首に掛け、シャイロの上半身を木の根元にそっと立て掛けた。彼女のヘルメットに付いた黒い物は女性用のダウンジャケットだった。しゃがんだエリがそれを手に取ると後ろに人の気配がした。
「エリさん、私服で来てたんだ」
夏也が軽く驚きの声を上げた。暗に「学校で決められた制服じゃないの」と責められた気がしてエリはムッとし、背中を向けたまま彼の行為を非難した。
「夏也くんこそ、みちほをほっといてひどいじゃない」
「みちほさんとは合格発表を見たよ。たぶん、もう帰ったと思う」
「『たぶん帰った』ってまるで他人事ね」
「帰る時は彼女と別々だったから、あははは」
てっきり今来たところだと思ったが、すでにみちほと合格発表を済ませたと言う。それなら、何をしに戻ったのか分からない。苦笑いする夏也に隠し事の匂いを感じ、エリはダウンをシャイロに掛けて立ち、振り返って腰に手を当ててじっと彼の目を見た。
「みちほと何があったのかを話してくれるかしら」
「ははは、それはその……。実は、怒らせちゃったみたいで」
夏也がみちほを怒らせた事を白状して頭を掻き、彼のリードに失望したエリはあきれたように質問を続けた。
「で、制服のスカート姿や花柄のヘアピンが可愛いとか褒めなかったの」
「制服は…スカートだったかなぁ」
「もぉ、せっかく可愛い恰好して来たのに気づかないなんて、みちほが怒るのも当然だわ」
「いいや、それは違うんだ」
「何が違うのよ」
「褒めたかったのは山々だけど、ダウンのファスナーが首まで閉じてたし、ヘアピンは三角形のシンプルなやつ付けてたし…」
「は、ダウンが首まで閉じてヘアピンが三角の?」
作戦ではみちほが女の子らしく可愛い恰好で来るはず。合格発表が気に入らないなら初めから来なければいいだけだった。可愛さを封印してわざわざ来た彼女の真意が分からず、エリは頭の中がクエスチョンマークでいっぱいになった。腕を組んで考えていると、夏也がポケットからスマホを出して見せた。
「それで校舎前に落ちてた彼女のスマホを拾ったんだ」
「え、そんな訳ないわ。スマホ持ってないとバスに乗れないもの」
「じゃあ、他の人の落とし物なのか」
「ちょっと待って、みちほにかけてみるから」
ひとまずエリはお尻のポケットからМ42を取ってみちほの電話番号にかけた。コール音が数回流れ、夏也の手のひらでスマホが振動してエリの顔は曇った。
「何があったか最初から話してちょうだい、夏也くん」
「う、うん。分かったよ」
みちほが行方不明では駆け魂を追いかけるどころではなかった。妹のように心配するエリに、夏也は彼から見た彼女の様子を語った。その話によると、舞島学園に着いてから不機嫌そうだった彼女も夏也の合格を知ると喜んでくれた。感激して彼は抱きついてしまったが怒ることもなく、二人で陸上のグラウンドを見に向かった。そこから、突然怒って「エリのこと考えてればいいんだ」と言って校門の方へ行った。
夏也の話を聞いたエリは腕を抱えて渋い表情を浮かべた。みちほが捨て台詞に込めた気持ちを考えつつ、首をさすりながら夏也に顔を上げた。
「バスが着くまでの間、わたしの話をしてたんでしょ」
「そうそう、エリさんの足が速いって話だ。あれ、怒らせること言ってないよね」
「そうね。誰かさん以外は」
みちほが怒った原因が自分への嫉妬と分かった。だが、彼女の気持ちが分からない夏也の目には急に機嫌が悪くなったように映っていた。エリは部屋でみちほの恋心に気づいてあげられなかったことを後悔した――夏也くんに「好き」と言える訳がないわね、ゲームじゃないんだから。あの時分かっていれば別の作戦を考えたのに――歯がゆい思いで中央校舎へ目を向けた。
「あっ、グラウンドの方からも見えないんだ」
エリは校舎間に中庭のシンボルツリーが見え、校門を出たかどうかは向こう側から確認できないと気がついた。みちほが学園内にいるかも知れないと思い、中央校舎前へ走ってランニングをしている生徒の前に立ち塞がって両手を大きく広げた。
「はい、ストップ!」
「うわっ。どっから来たんだこの子は…」
「ねえ、車いすに乗ったショートヘアの女子見なかった?」
首の後ろに手刀を当てて髪を切る仕草をした。人探しをする私服の少女にざわついた集団で、後方から聞こえた会話がエリの耳に留まった。
「さっきの猛スピードで校門へ行った車いすの女子かな」
「ああ、俺も見た。すげー速かったよな」
「それって車いす陸上の練習してたんじゃないの」
「いやいや、制服だったから。そんな恰好で練習なんかしねーだろ」
「こら、駄弁ってないで走るぞー」
「へーい」
ランニングを再開して彼らは脇を通過し、エリが手で顎を押さえて深刻そうに考え込んだ。みちほは校門へ向かった姿が目撃され、しかも、尋常でない速度で車いすを漕いでいた。以前、エリは駆け魂が取り憑いた女性が正気を失って異常な行動した現場に出くわした。もし、分裂駆け魂が中央校舎前でみちほの心のスキマに入ったとしたら、駆け魂の影響で暴走した彼女が国道に飛び出て事故に遭う可能性も考えられた。
急がないとみちほが危ないと思って全速力で戻った。夏也がぼけっと立つ前でエリは息を整え、面倒な説明を省いて単刀直入に言った。
「わたし、悪魔だったのよ!!」
「えぇーっ。いきなり何を言い出すの、エリさん」
ビックリした夏也は上から下へエリをまじまじと眺め、信じられない顔をして口元にだけ笑みを浮かべた。
「はははっ、冗談だよね」
「いいえ。メルクリウスさんから聞いたことないかしら」
「話には…。でも、悪魔って本当?」
「うん、魂が悪魔なんだけど。それで今、みちほが悪魔に取り憑かれてるの」
「エリさんが悪魔で、みちほさんは悪魔に……」
女神・メルクリウスが話す悪魔は人間に害を及ぼす邪悪な存在であり、エリがそうだとは信じられるものでなかった。だからといって、どちらも嘘をついていると思えない夏也は思索にふけって辺りをぐるぐると歩き回った。
夏也が考え込んだと見るや、エリはシャイロの元に行ってヘルメットを回収し、リュックの中から二階堂がくれた勾留ビンを出した。彼女の体を動かすと上に載るダウンジャケットは翻り、首の後ろに『UNYGLO』のタグがあった。みちほの服でよく見るカジュアルブランド名を目にし、さっき聞いた一言を思い出した。「制服だったから」。みちほは恥ずかしがってダウンで女子の制服姿を隠していたが、夏也と別れてから脱いで放置していったことになる。これがそのダウンジャケットに違いないと判断したエリは袖を通して勾留ビンをポケットに突っ込んだ。
側に停めた空飛ぶバイクをエリがパネル操作で少し浮揚させ、後部シートのほこりをパンパンと払って夏也に来るように呼びかけた。やってきた彼は心配げにみちほのスマホを握り締めた。
「悪魔に取り憑かれるとどうなっちゃうのかな」
「大丈夫。これで上空からみちほを探して駆け魂を追い出すから」
「え、これって何もないけど…」
首をかしげて夏也が彼女のかざす手元へ人差し指を向け、短い沈黙の時間が流れた。ピンときたエリは彼の腕を引っ張ってシートの上に片手を着かせた。
「ここに空飛ぶバイクがあるわ。さあ、時間がないから今すぐ出発よ」
エリはヘルメットリングを掴んだこぶしをビシッと突き出した。夏也はそれをこくこくと頷いて受け取り、彼女の真似をして首に掛けた。透明なナノマシンが丸くなって彼の頭を包む。メルクリウスに術をかけられた時のように不思議な力を感じた。夏也は彼女が悪魔ということを信じ、何も見えない場所に手を掛けて空中に跨るエリの後ろに飛び乗った。
空飛ぶバイクで探す対象が分裂駆け魂からみちほに変わり、後部座席で探す担当もシャイロから夏也に代わった。事態はより緊急性が高まり、エリは下方向に魔力を一点集中してバイクを一気に空へと駆け上がらせた。