舞島学園を飛び出したバイクは舞島緑地公園の木々を越え、国道の上空でゆっくりと道路に沿って進んだ。夏也は落ちないようにエリの腰にしがみ付いて地上に目を凝らした。足元からは細長い帯状に間隔を空けて移動する四角い車の屋根が見て取れた。
「国道は車が流れてるし、事故は起こってないみたいだよ」
「ふー、とりあえず一安心ね」
「どこ行ったのかなあ、みちほさん」
なおも夏也が左右へ首を振って車いすを探した。吐息をついたエリはバイクの正面パネルに指をトントンと押し当て、表示された黒い画面に唇を尖らせた。
「最新型って言うけど、新種の駆け魂に全然反応しないじゃない」
片手をパパっと動かすエリが気になり、夏也は肩越しに覗こうと後部シートで首を伸ばした。
「ところで、その『駆け魂』は悪魔とはどう違うの」
「駆け魂は肉体を持ってないわ」
「だから、人間に取り憑つくことができるんだ」
「そう。心のスキマに入り込んで負の感情をエネルギーにするのよ」
「へぇー、そんなのが近くに居たのか」
のんきに感心する夏也の様子に、エリが不満げな顔で駆け魂センサーの画面を閉じ、ハンドルを握ってスロットルを回した。
「それじゃ、早くそいつを見つけてちょうだいっ!!」
「わっ」
空飛ぶバイクが急にスピードを上げて大きな弧を描いて旋回した。舞島市の海岸に突き出た島は東西に狭く、Uターンしたエリたちは海の上を飛行して舞島学園へ向かった。夏也は体が外側に振られて傾いたまま眼下に望む舞島海浜公園を眺めた。
「あー、ばあちゃんが話してた海浜公園のあかね丸だ」
「ちゃんと探してるの、夏也くん」
「さ、探してるよ。えーっとどこかな……ん?」
エリの怒気をはらむ声に慌てて周囲を見渡すと、公園の桟橋に接岸する帆船へ向かう小さな点が動いた。近くにホイールらしい黒い輪が見えて夏也は喜びの声を上げた。
「車いすだ。あかね丸の近くにみちほさんがいるよ!」
「えっ、あかね丸って何なの」
「左側を見て、マストの長い船が見えるよね」
「ほんと、船だわ」
「うん。昔の客船なんだけど今は公園の一部として停泊してるんだ」
「分かったわ。あそこに下りましょう」
目標の船を見定めたエリはスロットルを握る手を緩めてバイクを左に傾けた。ブレーキをかけて足元のペダルを踏み、一旦前と上への推進魔力を同時に切り、再びスロットルを開けてスムーズに120度曲がった。ノーズを下げて真っ直ぐに桟橋へ向かい、後部噴射口から排出された魔力を飛行機雲のように空にたなびかせた。
すべての帆が畳まれた大型帆船・あかね丸。空飛ぶバイクは垂直に降下して甲板に着地し、すぐに夏也が後部シートから降りて船の端へ走った。手すりを掴んだ彼は上半身を突き出して公園を見下ろした。舞島海浜公園の桟橋は海岸を埋め立てて作られ、樹木が囲む公園の芝生より1メートル程低くなっていた。夏也は芝生寄りを歩くみちほを見つけたものの、不気味な雰囲気に圧倒されて声をかけるのをためらった。桟橋の向こう側を暗い表情のみちほがのっそりと通り過ぎた。
「みちほさんがあんな風に……。と、とにかく行ってみないと」
夏也は胸を押さえて気分を落ち着け、近くに見えるタラップへと歩いた。船の降り口は魔力で大きくした勾留ビンが陣取り、彼へ向いてエリが表面のガラスをコンコンと叩いた。
「これを使ってわたしが駆け魂を捕まえるの」
「それなら、早く行こうよ」
「いいえ。みちほの所には夏也くん一人で行ってもらうわ」
「だって今、エリさんが捕まえるって言ったよね」
「駆け魂の勾留は悪魔の仕事よ。でも、みちほの心のスキマを埋めないと駆け魂は外に出てこないし、それができるのは夏也くんだけだわ」
「僕が駆け魂を?」
駆け魂を出す役目を任された夏也が自分を指して驚いた顔を見せると、エリは静かにダウンジャケットのファスナーを下ろして視線を逸らせた。
「本当は言うべきじゃないけど…。みちほはあなたのことが好きなの」
「へっ」
「駆け魂が入り込んだことを考えると間違いないわ」
「そうだったんだ」
夏也は好かれていると知った嬉しい気持ちを隠し、真面目な表情で話すエリの前で無関心を装って頭を掻いた。彼をチラッと見たエリはダウンを脱ぎ出し、桟橋のみちほへ慈しむような目を向けた。
「夏也くんがわたしの話ばかりするから怒っちゃったのね。ま、みちほの気持ちも分からなくはないわ。好きな男子が他の女子のことを気にしてたら機嫌が悪くなるのも無理ないわよねぇ」
みちほへ向ける柔和な顔と裏腹に夏也の無神経さを当てこする口振り。夏也は腕組みして「僕のせいか…」とポツリとつぶやいた。エリの言葉に夏也はみちほに駆け魂が入り込んだ責任を感じ、神妙な顔つきで考え込んだ。悪魔がどんなものかはにわかに想像できないが、駆け魂に取り憑かれた彼女の表情は苦しそうに思えた。
すかさずエリが首を横に振り、脱いだダウンを両手で畳みながら口を結んだ夏也へ歩み寄った。
「ううん、駆け魂が入ったのは夏也くんのせいじゃないと思う。みちほが怒る前にすでに心のスキマができていたのよ。きっと、夏也くんへの想いをうまく伝えられなくて心の中でもがいていたんだわ。昔から他人に本音を話さない子だったし、そういうことが苦手なのね」
エリは一転してみちほをかわいそうな少女に仕立て上げ、彼女のダウンジャケットを差し出して彼の目をじっと見つめた。大きな瞳で「みちほのことをお願い」と言わんばかりに。受け取った夏也はそれをギュッと握り締めた。
「ねえ、駆け魂を出すにはどうすればいいの」
「みちほの望みを叶えれば心のスキマが埋まって出てくるわ。まず、彼女と話してあげて。表情の変化から何をして欲しいか読み取るの。夏也くんならそれができるはずよ」
「分かった。やってみるよ!!」
エリの期待を意気に感じて夏也は船のタラップを駆け下りた。みちほの駆け魂を出す決意を胸に固め、桟橋を歩いていく彼女の跡を追いかけた。
甲板に残ったエリは手すりに腕を掛け、М42を横向きにしてレンズを桟橋へ向けた。望遠モードでの動画撮影画面にみちほの背中が映った。駆け魂回収の道具を手に入れるために利用している負い目がありつつも、夏也が好きなみちほにとって彼との仲が進展する今回の作戦は決して悪い話ではないと笑みを浮かべた。
「さあ、お膳立ては整えたわ。存分に夏也くんと仲良くしなさい」
夏也のパートナーはみちほだとメルクリウスを納得させる映像を撮る気満々だった。ついでに勾留した分裂駆け魂をシャイロに譲り渡して恩を着せられる。女神と悪魔の両方にコネがあれば駆け魂回収が捗ること間違いなしとエリは算盤を弾いた。
みちほは林と海に囲まれた舞島海浜公園を歩いていた。夏也と別れて中央校舎に行った後の出来事はぼんやりとしか思い出せなかった。唯一、車いすが階段で倒れて芝生から桟橋に転げ落ちた記憶はあった。そのせいで左膝がヒリヒリと痛み、両腕はハンドリムを回した疲労でだるく、目がかすんで不快で重苦しい気分だった。
歩きながら彼女は考えを巡らせた。夏也と二人になった校舎裏、エリへの嫉妬をぶちまけて彼を置き去りにして帰った。乙女ゲームなら好感度が一気に下がる最悪の選択であり、さぞかしあきれたことだろうと思った。夏也は高等部合格を喜ぶあまり告白しようとしたが、ヒステリックな面を見て気が変わってもおかしくない。そうなると一緒に通学する約束もご破算。夏也との仲を悲観するマイナス思考は途切れることなく駆け魂のエネルギー源となり、みちほを暗澹たる気持ちで歩かせ続けた。
「おーい、みっちゃーん」
朦朧とした意識に親しげな呼び名が聞こえる。振り返ったみちほは見る見る近づく少年に幻覚を見ていると思った。彼は手が届く距離まで来てハアハアと息を切らし、黒いダウンジャケットを彼女の前に広げた。
「これ、中央校舎の所に落ちてたんだ。着てないと寒くないかい」
「いつの間に脱いだんだろ。けど、この顔…ふふふ」
寒そうにブレザーの袖を抱え、みちほは夏也に似ている少年を見てへらへらと笑った。駆け魂に操られているせいだと思った彼が真剣な表情で彼女の顔を見つめた。
「ゴメン。合格発表が気になって考えてなかったよ」
「おっ、なんか謝ってるぞ」
「そりゃあ、エリさんの話ばかりじゃ嫌だよね。わざわざ制服のスカートを履いてきたんだから、褒めて欲しい気持ちに気づくべきなのに……」
「スカートとか言っちゃって。恥ずかしくないのかぁ、こいつ」
話の腰を折るみちほの態度に彼は少し眉をひそめ、ダウンジャケットを前へ突き出した。
「絶対、僕が駆け魂を出してあげるから!!」
幻覚と思った少年が奇妙なことを言い出した。みちほは口を閉じて彼の顔を見つめ返し、言葉の意味について考えた。心のスキマに駆け魂が入り込んでいるとすると、気分の悪い原因として説明がつく。目がぼやけて黒っぽく見えるダウンの首元へ恐る恐る手を伸ばした。
手のひらが接触して「この手触りは…」と安物感に黒田家御用達のブランドと確信し、みちほがあたふたと彼の持つ袖に腕を入れた。本物と分かった夏也と顔を合わせづらく、ダウンを着た彼女は背を向けたまま手を組んで林へ目が泳いだ。スカートを履いてきたり、駆け魂に取り憑かれたりする事情を知るのはエリだけだった。一体、どうやって彼がこんなに自分を心配するように仕向けたのだろうと懸命に頭を働かせた。
「アイタタタッ」
意識がはっきりして体の感覚が戻ったみちほは中腰になって膝を押さえた。横に回った夏也はスカートの下から出た白タイツが赤く染まる膝へ視線を落とし、驚いて彼女の肩に手を置いた。
「大変だ。早く治療しないと」
「いえ、じいちゃん呼ぶから大丈夫です」
みちほがスマホを取り出そうとポケットに手を突っ込むと、足が地面を離れて背中が後ろに倒れた。それまでの鬱蒼とした木々の景色は冬の透き通った青空に変わった。いきなり、夏也は彼女を両腕で持ち上げて胸に抱きかかえた。
「僕がみっちゃんを運んでいくよ」
「へぇっ」
「あそこにベンチがあるから、まずは血を止めなきゃ」
「じ、自分で歩きます」
お姫様だっこされたみちほは体を縮こませ、「わたし重いし、腕が疲れるので」と言って降ろしてくれるように頼んだ。しかし、夏也は平然と彼女を抱えて芝生の方へ歩き出した。
「平気平気。元野球部だからね」
「そうじゃなくて……」
「毎日マネージャーの考えてくる筋トレやってたんだ。それで――」
彼は2D美少年と違って少女の恥ずかしがる気持ちを汲んでくれなかった。至って真面目な夏也の顔へ視線を上げ、みちほは口をポカンと開けた。エリの話で怒らせた前回の反省からか、続けて中学でのクラブ活動の話を始めた。興味をそそられないみちほも体の片側が密着した状態で動けず大人しく耳を傾けた。
桟橋は停泊するあかね丸の他に反対側にベンチがあり、座って海の眺望を楽しめる隠れたデートスポットだった。ベンチ前に降ろされたみちほはストンと腰を下ろして体の横に手をついた。駆け魂による気持ち悪さが大分収まり、心のスキマが埋まってきたのかと夏也へ目を向けた。しゃがんだ彼は白タイツとにらめっこしていた。何やらしばらく考え込み、人差し指を膝へ向けると顔を上げた。
「ね、左足だけ脱がせられるかな」
「こんなとこじゃ脱げません。タイツですから」
「そっか。じゃあ、この辺を切って傷口を出していいよね」
「まぁ、いいですけど」
やや不服そうにみちほは彼の提案を受け入れた。血が滲む怪我を放って置けないのは分かるが、再び二人きりになれたのにする事が手当てではもったいない気がした。そんなことは気にしないのだろうなと思い、口をすぼめて両手でスカートがめくれないように押さえた。
夏也はみちほの顔色をうかがいながら学生服のポケットをごそごそし、小さいハサミを取り出して得意げに彼女へかざした。
「ほら、ハサミ持ってるの珍しいでしょ」
「それも野球部ですか」
「うん。テーピングするためだけど、なんで分かったの」
「何となくです」
「僕はよく突き指するからマネージャーに『持っとけ』って言われてて」
「そりゃ、マネージャーさんも面倒ですもんねー」
みちほはつまらないといった表情で顔を背けた。その様子を見た夏也は気を惹こうと“彼女”のネタ話を口にした。
「それがね、顧問の先生が野球に興味ないからマネージャーが全部取り仕切ってるんだ。試合にボロ負けした次の日は毎回グラウンド30周。ただ走るんじゃなくて根性を鍛える的な練習をさせられて大変でさ。正直、うちの野球部は早矢ちゃんが監督だと思うよ」
「さ、早矢ちゃんって誰です?」
女子の名前を聞いたみちほがグッと顔を寄せ、夏也は早矢の話に興味を持ったと思って満足してタイツをつまんだ。傷に触れないように気をつけてハサミを挿し入れた。
「うちのマネージャーが早矢ちゃんだよ」
「もしかして、商店街の4人で野球部に入ったのがその子ですか」
「ああ、ばあちゃんに聞いたのか。早矢ちゃんは和菓子屋の一人娘でね。少し我がままだけど気配りができる優しい子なんだ。僕が言いづらそうにしてると横から話に入ってきたり、話すタイミングを側で耳打ちしたりして助けてくれてさ」
夏也が爽やかなスポーツマンという設定は間違っている。元々は人見知りで大して気が利かない普通の男子。おそらく、女子とも喋れる今の彼に変えていったのが一緒に居た幼馴染の早矢だ。話し振りから直感したみちほは太腿の上で握りこぶしを作った。
膝の部分を半円状に切った夏也は布を傷口からべろんと剥がした。右手に持つハサミを地面に置いてズボンのポケットに左手を入れ、ハンカチを出して血が出る膝に押し当てて「ふぅー」と息を吐いた。すると、彼のゴツゴツした指に細く柔らかい手が重ねられた。上げた視線の先にみちほの思い詰めた目があった。
「わたし聞きたいです。先輩が前から思っていたことを…」
みちほは伏し目がちに海の方を眺め、夏也に告白の続きを言わせようと演じた。このまま待っていてもエンディングは訪れないと考えた。女子の気持ちに鈍感な彼をフォローする早矢はおらず、自分の芝居で彼を攻略に駆り立てるしかない。彼女は覚悟を決めた。駆け魂を心のスキマから出してもらうには少なくともグッドエンドが必要になる。セーブなし一発勝負のラストシーン。成功への期待と失敗への不安で胸は高鳴り、汗をかいた手のひらが小刻みに震えた。