中学生のエリはバス停で兄と別れて寂しそうにし、優しく声をかけてきた彩香に不審を抱いた。
だが桂木家にカフェがあると聞き、気を取り直して彩香に付いていく。
彼女は開店休業中の店内で小躍りし、ほこりの溜まった床を綺麗に磨いた。身の上話に涙を浮かべた彩香に兄を告白させるため使いたいと懇願する。エリの真摯な瞳を見て彩香は頷いた。
その夜、彩香が一回り上の叔母・ちはると夕食をとって仕事でレースに行けないと話した。彼女は仲が悪い姉に休めるよう頼んであげると言うが、結局電話で口げんかになった。
ちはるが見合いの返事を促して帰り、天井を見上げた彩香はソファーでごろ寝を始めた。
訪ね人、懐かしくて
7月も下旬。土曜日の午後、よそ行きの恰好をした女が桂木家に帰ってきた。駐車場の奥で彩香の250ccバイクが暑さを避けるようにカバーをかぶり、透明なブラウンの屋根に覆われたど真ん中で赤と黒の斜めに筋が入ったフルカウル、ちはるの125ccは磨かれた姿を晒した。ハンドバッグの口を掴んだ彼女は門扉を半開きにして擦り抜け、駐車場の縁を回って重い足取りにスロープを歩いて玄関先までたどり着いた。玄関は取っ手を引っ張っても扉が開かない。スマホをバッグから取り出し、解錠してやっと中に入れた。
土間の端に外へ向けて揃えられたブーツ、その向こうのすりガラスに人影が映った。腰の高さにある手すりに掴まって先の尖ったヒールを脱ぐと、リビングから廊下に流れ込んだ冷たい風で生き返った気持ちになる。戸を開けたちはるが顔を向けて意外そうな表情をした。
「あら早かったじゃない、彩香」
「まぁ……」
「ねえ、なんでストール掛けてんの。この前は『冷房が効いてない』って怒っていたのに」
「そ、そりゃ、流行ですよ。ハハハハ」
「フーン。もう着替えてきたら、冷房の温度を下げておくわ」
「ええ、着替えますとも」
廊下に用意されたスリッパを履いた彩香は頷くものの動こうとしなかった。髪を上げて広がったおでこから湧き出る汗が光り、涼し気な水色のワンピースは袖が二の腕に押し広げられた。ちはるは彼女の後ろ暗さに納得し、雑誌を読んでいたソファーへ戻った。
彩香はリビングの戸が閉まると急いで横の階段に足を掛けた。階段を折り返して上り切り、左へ廊下をすたすたと最奥まで行く。右手の部屋に入って戸をピシャリと閉め、胸の結び目をほどいたストールをベッドへ投げ捨てた。懸命に両手を背中にまわし、肩甲骨の間で止まったファスナーを「くっそー」と力任せに引っ張った。
髪を下ろしてゴムで結んだ彩香は柄のないTシャツとハーフパンツで戻り、ハンドタオルを片手にそのままダイニングへ、一瞥もせずにソファーの横を通り過ぎた。並んだ椅子の後ろを通り、突き当たりの冷蔵庫を開けてスポーツドリンクを出す。斜め後ろの水切りかごに残った逆さまのグラスを取って注いで立ったまま一気飲み。水道水でジャブジャブして元のかごに戻した。
レンジの上から菓子パンの袋を取って移動し、ダイニングテーブルで開けて出したスティックを一本かじりつく。リビングで後ろ向きのちはるがたまらず今日の出来を尋ねた。
「で、今回の相手はどうだったのよー」
「ハイ、ちょっと無理かと」
「公務員らしくない軽快なトークって触れ込みだったけど」
「さぁ~、なんとかボルタとできたからバイバイとか言われても」
「できたか、出来高……。ああ、ボラティリティでしょ。株式売買の話ね。投資に詳しいっていいじゃないの」
「私じゃ会話にならないですよー」
「そうね、兄さんも彩香と話が合うような人知らないのかしら。純一の彼女みたいに」
ちはるは雑誌を手に座り直して足を組んだ。彼女が口にした名前に驚き、彩香は半分くわえたままでそろそろと近づいてソファーの背に手を掛けた。一旦、食べかけのパンを手に退避し、顔を後ろから覗き込んだ。
「ちはるさん、なんで純一の婚約者を知ってるんです」
「それは私があの店を紹介したからよ」
「ぱのぴぽぽーぴぺぴっぺぷぽ」
「もー、汚いわね。家を建て直してすぐ取材に来た子じゃない。ほら、憶えてない?」
「ぺぇっ」
彩香は口に残りを押し込んでゴクリと飲み込んだ。思い起こす桂木家の一階はカフェを広げた建て直しで若干狭くなり、真新しいリビングには掃き出し窓から太陽の光が射した。長いソファーの右端に座った人物はちはるへレコーダーを向ける髭の生えた中年男性。純一の婚約者であるはずもなく首をひねった。
「でも、その人ってオジサンでしたよね」
「横で髪の長い新人女性が一生懸命メモを取っていたでしょ。あの子よ」
「あ~、あの人かー」
ぼんやりした輪郭で思い出した気分の彩香は菓子パンの袋を持ってソファーを回り込み、ちはるの横にちょこんと座ってパクパク。口をもごもごさせた。その仕草にちはるは遠い目をした。この家に彼女が来てからずっと見続けてきたせいか、それほど容姿が変わったように思えなかった――あの頃のままなんだけど――だが、体重計と服のサイズが嘘をつかないことも理解していた。
「おばあちゃんの食卓は皿が多かったわ。彩香、憶えてる?」
「うん、賑やかだった。従姉さんも居たし」
「母さんの従妹さんよね。今どうしているんだろう」
ピンポーン、ピンポーン
二人の思い出を遮るように門柱のインターホンが家の中に音を立てた。彩香は食べ終わった指をなめ、来訪者を出迎えに行く。ちはるの目に彼女の後ろ姿が中学の頃とダブって見えた。開けっ放しにしていった戸口から元気な声が懐かしく聞こえてきた。
「こんにちわー、姉さま」
バス停で知り合ったままのセーラー服に『M』のキャップ。閉め忘れた門扉をエリが自然と通り抜け、スロープの踊り場で大きめのトートバッグを肩に掛けて手を振る。彼女は玄関先に真っすぐ来てキャップを手に取った。
「よろしくお願いします、カフェでの職業体験!」
エリが深々と頭を下げた。その意味が分からず、彩香はアイボリーの鞄に走り書きされたロゴを眺めた。
「エリちゃん、その荷物はどうしたの」
「はい、今日からお世話になるので着替えを持ってきました」
「えっ…」
顔を上げたエリの口から出た言葉がすぐに理解できなかった。しかし、何かを訴える彼女の目に一瞬で気づかされた。良からぬ企みを想像して腰が引けている彩香を大きな瞳が離さない。薄いグレーのスカートで膝を隠した少女は玄関の湿度以上に目の前にいる大人に汗をかかせた。