ちはるは誰が来たのか気になり、開け放たれた入り口から廊下へ目をやった。玄関先に彩香の背中が小さく見え、夏の陽光に包まれた空間は緊張感を漂わせた。すっと腰を上げ、そうさせる正体へ足を向けた。
「そこじゃ暑いからこっちに来なさいよ」
わざわざ框まで出向いて来客用スリッパを置いて陰に隠れる人物をいざない、振り向いた彩香に目で合図をしてさっさと戻った。気づいた彼女が扉とエリの間に体を挟み、家の中に促してドアを閉めた。玄関でエリはスニーカーをくっ付けて脱ぎ、合わない足元にパタパタと開いた戸からリビングに入った。
テーブルにお茶を入れたコップが置かれ、ちはるが手を上げて微笑んだ。近づいてきた制服姿の女子を腕組みで迎えた。
「あなた中学生ね。もう夏休みが始まっているの」
「はい、今週からです」
「それじゃあ、遊びに行く時は私服でもいいんじゃない」
「そうよ、エリちゃん。びっくりするわ」
ダイニングに来た彩香がほっとした顔を見せた。セーラー服の後ろ襟に手を置き、二人は目を向け合った。笑顔のエリはバッグを下ろして中をゴソゴソ。テーブルの上に「これです」と印刷された横書きのプリントを差し出した。
突然訪れた少女と触れ合う彩香に、ちはるは不思議そうに首元をさすった。下ろした手で用紙を拾い上げ、書かれた文章を読み上げた。
「職業体験事業許可証、桂木彩香殿。右の者に、職業体験を目的として下記の事業所で当施設の学生を受け入れることを許可する。名称、カフェ・グランマ。住所、舞島市美里南一丁目……」
「何ですか、それ」
彩香はエリをかわして前に出た。顎に手を当てたちはるが目をもう一度ゆっくりと下から上へ、次いで手元を見る興味深そうな大きい顔へ向けた。
「つまり、カフェを職業体験に使う許可が出たようね」
「え、そんなこと勝手に決められても」
「あんたの名前が書いてあんのよ。それで許可申請が出されたの、よく見なさい!!」
「はあ……」
彩香がとぼけているとちはるは思ってなかった。だが、出所の分からない文書に利用された事へのゆるい反応に語気を強めて前へ差し出し、つまんだ紙を受け取らせた。気が小さい彩香は市長の公印へ釘付けになって困惑した。
彼女の背中でゴクゴクとお茶を飲み干したエリ。垂れた肩の上に覗く澄ました横顔へ、ちはるは再び腕を組んで疑惑を向けた。
「いったい誰が申請したんだろうね、エリ」
「えへっ、わたしが書きました」
「あら正直ね。けど公的機関の書類が簡単に通るものかしら」
あっさりと白状した彼女をちはるはなおも訝しんだ。四十過ぎた大人の目線が厳しく、肉厚な腕の陰へ注がれた。すると彩香の脇からひょっこりと椅子に乗っかり、エリは親指を突き出した。
「天下りで来た施設長は机の決裁箱に入れときゃ、何でもハンコくれます!」
明らかな偽造にも悪びれることなく自信満々な態度を見せた。ちはるはあきれ果てて沈黙する彩香へ目を向けた。余白の多い印刷物をギュッと掴んだ両手に、文字を追う眼球がまるで間違い探しでもしているかの様。ずる賢い中学生の算段でうろたえて文鎮化する三十路女に苛立ち、少女へ声を荒らげた。
「でも彩香の、桂木の印鑑はどうしたのさっ」
「あ、うん、色んな名前のを持ってる職員さんがいて――」
しゃがみ込んだエリはバッグの底に手を突っ込み、平然と施設で不正に手を染める人の裏話をした。ちはるは彼女の周りにろくな大人がいないと分かって俯き、ケロッとした表情が目に入って頭を掻きむしった。エリはぎゅうぎゅうに詰めた荷物に肩まで入れて何かを探していた。引っかきまわされた服が飛び出して床に広がり、一番上のシャツが皺んで胸に描かれた口のないキャラクターが笑ったように見える。ちはるは子供のしたことに考えを落ち着かせた。
「それでエリちゃん、働くと言ってもカフェは営業してないわよ」
「あの、これ失敗した外泊届なんですけど……」
「えっ、失敗したのをなんで。それに外泊届って何?」
渡されたクシャクシャの届け出にズレた電子三文判。「職業体験のため」と書かれた欄は殴り書きで読みにくく、期間は「夏休み最終日まで」と大きい。手のうちをさらけ出してエリは小さく隠れるように彩香の後ろへ。彼女を桂木家に迎えた時と変わらない背恰好に、その想いにピンときた――彩香と同じで来たかっただけなのか。
「そう、こっちが本命と言いたい訳ね」
ちはるは苦労の証をテーブルの先に置き、片手をついて折れ目を見つめた。ようやく彩香も慕われるようになったかと目を細める。彼女を見守る者としてエリの努力に感化された。虚偽の申請に対する非難は消え、純真な少女を迎え入れる方向に傾いた。
「ねえ、エリを泊めてあげるんでしょ」
彩香は呼びかけにも応じず、ペラペラの文書を大切そうに掲げて顔を上気させたまま。ちはるはポカンとする埴輪のような面構えを見て嘆息を漏らした。
「だから、職業体験をしたくて来たんじゃないのよ」
その耳へ外泊届の理由に必要だと教えても、まったく聞こえていない様子。
その手から用済みの紙を取り上げると首を左右へ行ったり来たり、背後に居るエリを探した。
その間が抜けた口の両サイドをちはるが指を入れて引っ張る。渋い顔を見上げた彩香は「はおはらっへひまふ」と両手を上げ、壁際の棚に腕をぶつけて廊下へ出ていった。