早々とカーテンの閉まったリビングはLEDが明るさ最大で部屋を照らし、エリは足元にバッグを置いて長いソファーの真ん中に座らされた。正面にあるテレビは興味のないアニメが流れ、ダイニングの向こうを気にしてチラチラと顔を後ろへ向け始めた。
対面キッチンで夕食を作る二人。長い髪をまとめ上げたちはるが顔をまな板に近づけ、縦半分のニンジンへ片手で慎重に包丁を当てた。彩香は研ぎ終わった米の内釜を炊飯器に移動させる。顔を洗ってもエリの文書偽造が気になって仕方なく、スピード炊きのボタンを前に何回も蓋を開け閉めして背中合わせで話しかけた。
「ちはるさーん、あれって逮捕とかされないですよね」
「カフェは営業許可あるんだし…。ちょっと黙って、綺麗に切れないでしょ」
「それなら左手で押さえたらどーですか」
「いいのよ。で、この夏は彼女の面倒を見るのね」
「だから、警察沙汰になったら社長にも迷惑かかっちゃうんで」
「姉さんなら大丈夫よ。あっ、小さくなっちゃったわ」
二人の不穏な会話を耳にしてエリはそっと壁際をキッチンに近づいた。ちはるが気づいて目で彼女を制止すると、喉元に手を振って素知らぬ顔で冷蔵庫の前へ。貼られたカレンダーの記号に首をかしげた。横で棚板のスライドにも位置を決めかねる彩香に尋ねた。
「この赤マルは何ですか」
「ああ、カレーの日。ちはるさんが作ってくれるのよ」
「じゃあ、バツは」
「ちはるさんが来れない日。旦那さんの休み予定で」
「へっ、結婚してるの」
驚く少女を横目に、ちはるは玉ねぎを切り終わって額の汗を拭った。ステンレスの片手鍋に入れた肉と野菜を炒めて自慢げな表情で鍋を思いっきり振った。エリが飛び上がるニンジンや玉ねぎのサーカスから目を背け、彩香に近寄ってTシャツの袖をちょいちょいと引いた。
「ねえ、なんでマルの後は全部バツなの」
「え、どれどれ。えっと……」
彩香は目を細くし、カレンダーを人差し指で何度かつついた。ちはるがコンロの側に落ちた野菜を拾って小さくつぶやいた。
「今日も明日もカレー、さてさて」
ちはるのつぶやきに彩香は耳をピクピクと動かし、自分で思い出したように手を叩いてみせた。
「そーそー、三人分作っとけば次の日は私のご飯だけを用意すればいいの」
「ふーん。この日は姉さまがラクできるって訳か」
「うん。ちはるさんが考えたんだけど」
「こんな日に来ちゃってお邪魔でしたね、わたし。ごめんなさい」
「え、あ、その……」
エリが殊勝な態度を見せると途端に何を言っていいのか分からなくなり、うろたえた顔がキッチンの奥へ助けを求めた。ちはるがあきれ半分に「テレビ点けっ放しよ」と対面キッチンの向こうへスルーパス。彩香が反応してエリの両肩に手を乗せてリビングへ押していった。
彼女をソファーに座らせて彩香は隣に腰を下ろし、盛り上げようとテレビ画面へ騒がしい子供向け番組の話に懸命になった。
「そうだ。これ、六十年も前に作者が死んじゃってるのよ」
「えー、そうだったの」
「私も子供の時に知ってビックリしたけど」
「ふーん。姉さまも見てたんだ」
「でも何回か終わっててね。リメイクが多いらしいわ」
アニメでは目の形が様々な小学生が教室の後ろで視線をばらばらに会話が空々しい。それを前にときどき向かい合い、まったく他人の大人と子供が雑談をためらわなかった。彩香とエリの様子に見入ってちはるは鍋に水を流し込んで跳ねさせた。不思議と親子であるかに見えるのだ。実際、彩香の姉はそれくらいの子どもを三人抱えていた。そうであってもおかしくないし、そうであって欲しかった。
ちはるはコンロの弱く燃える火を気にかけつつ、休憩で使ったコップを片付けた。冷蔵庫から固形ルーを取り出して放っておいた鍋に入れてかき混ぜた。リビングの時計で長針が12時を跨いでテレビに硬い顔つきが映し出され、その人物を指してエリが振り向いた。
「うわっ、ちはるさんが出てる~」
「ええ、けど私は交通評論家じゃないわ」
キッチンでゆっくりとお玉を動かしてちはるが答えた。なるさわTVでは多発する交通事故の特集が組まれた。彼女は黒い背景にスポットライトを浴びた顔のくすみを気にし、表示された隅のテロップに不満を表した。
信じられないといった感じのエリは彼女が大きく映った画面へ向き直り、隣の肩を揺らした。
「バイクレーサーってなってるよ、姉さま」
「んぁ、『元』って付いてるでひょ。もう引退してるから」
彩香はソファーでうつらうつらと眠たい目をこすった。関心を引こうとする少女からお腹周りの脂肪を振られ続け、空腹の胃袋が刺激されて脳も活性化した。開いた眼にジグザグと路面を迷走するタイヤが飛び込み、フレームの中で転がる人が自分に重なった。その度に倒れた体を支え起こしてもらった昔を懐かしんだ。
「それで、今はバイクの乗り方なんか教えてるのよ」
「え、教えてる?」
「うん。ほら、古い舞島駅の北の方にサーキットあるでしょ。あの近くに学校があるの」
「へー、先生なんだ。たしか姉さまもバイクって…」
「あ、あたしは会社員。子供の頃はレーサーになりたかったけど」
彩香が見つめた女性はキッチンの明るい電灯下であくびをした。レースで数台を一気に追い越す彼女をテレビで見て憧れ、バイク乗りだった曾祖母を泣き落としてやってきた。
番組に目を向けたエリはフロントガラスを破って頭からすっ飛んでいく再現シーンから反射的に体を引き、ちはるへ向けられた顔に気づいた。テーブルの薄暗がりを越えた先には頼られる家族が存在していた。片手をソファーの背に掛け、片膝を座面に乗せて同じように眺めた。
リビングから届く期待する視線を受け、ちはるが壁のスイッチでダイニングに電気を点けた。
「できたわよー。そろそろお皿出しなさーい」
目を合わせた二人は一緒にソファーを立った。ダイニングを通り抜けたキッチンでは寄ってくる彩香たちにとって甘い香りが満ちた。