中学三年のエリは彩香と出会い、桂木家のカフェで「兄に告白させる」と宣言して去った。
7月下旬、ちはるが彩香と昔を懐かしんでいると、エリが着替えを持って訪ねてきた。
彼女は彩香名義で申請し、舞島市が出したカフェでの職業体験の許可証を見せる。ちはるはそれが桂木家に来るためにした事だと分かり、彩香も慕われるようになったと目を細めた。
しかし、当の本人は偽造にうろたえ、頼りのちはるが帰ってしまった。
カウンターで物思いに浸った彩香。カフェの再開に淡い希望を抱き、泊めることを決断する。
思惑通りに事が進み、エリは寝たふりをしたソファーで居心地よく眠りに就いた。
共同生活にかけろ
ぼんやりとした意識にすがすがしい白さが細目の奥へと突き刺さり、ざらざらした模様の天井がはっきりする。目を開けたエリは上体を起こし、毛布をかぶってソファーで横になっていることに気づいて周りを見渡した。垂れ下がる濃い色のカーテンが薄く透けるリビング。一階の片側は朝のうち日差しが届かず、夜間の冷房でひんやりと湿気が感じられなかった。背もたれの向こうで夕食の記憶が新しいテーブルに、突っ伏した彩香が腕を下にだらりと寝息を立てた。
薄明りの真ん中でエリがほくそ笑み、爽やかな朝に腕を伸ばした。皺の付いた上着とインナーを投げ捨て、焼けてない素肌でローテーブルの下に潜り込み、バッグからTシャツとホットパンツを引っ張り出す。着替えた彼女は栄養食品の小箱をつまみ出して硬いスティックを口に挟むと、静かに廊下へ出て玄関でスニーカーを指先につり上げた。
ダイニングで彩香はTシャツの裾に手を入れて乾いた背中をボリボリ。その奥の戸がそーっと開き、廊下からエリが洗面所で濡らした雑巾を持って現れた。キッチンに面したカフェへの扉を開けてスリッパをスニーカーに履き替え、漏れ入る光を頼りにカフェのカウンターを拭き始めた。
キッチンの奥で勝手口のすりガラスが明るさを周囲に撒き散らす頃、彩香は身体にまとわりつく不快感にうなされた。顔を上げて唇と卓上によだれの橋が架かる。手の甲で目をこすって囲まれた壁の家具や椅子が並ぶテーブルを見回し、下着の張り付いた肌に暑さを認識した。
冷房のスイッチを求めてソファーの方へ足を出した。何かを踏んで引っ掛けた後ろ足のつま先で予期しないところに落ちているキャミソールを拾い上げた。制服の上下が散らばった床に、彩香は目が点になった。リビングの戸を引いて土間のタイルに彼女の靴が見えず、肌にハリがない顔は焦りが増す。スリッパのまま下りた玄関先で開けた扉からの外気に汗がじっとりし、表情を曇らせて室内に戻った。
すると、キッチンの壁に暗いカフェからエリの顔が明るい家の中へうっすらと見えてくる。
「あっ、おはよー。姉さま」
ほこりで汚れたTシャツは先日の雑巾で滑った一幕を思い起こさせ、彩香は二の足を踏んだ。閉じられて久しい奥のカフェからはむわっとした空気が漂ってきた。蒸し暑さに顔を背け、ローテーブルのリモコンへ膝を曲げて手を這わせた。一つしか押せないボタンに指を伸ばし、急いで彼女の元へ駆け寄った。
「どうしたの、こんなに汗かいて。水分をちゃんととらなきゃ」
「うん、冷蔵庫の飲んだよ」
エリの指した流し台にちはるが箱買いしてくるトクホ表示のペットボトルが置いてある。彩香は空になった2ℓの容器に目を凝らした。
「ちょっと、あのお茶全部飲んだの」
「えーっとね。半分くらい入ってたかなぁ」
エリは勝手に飲んだことも大して気にしてない。ベタベタする体を触りながら自分より背が低い華奢な少女に芯の強さを感じた。対抗するものを持たない彩香は怒ったふりをし、汗臭さから感じる熱意への嫉妬が険しい表情に隠された。
「シャワー浴びてきて。昨日、風呂入んなかったんだから」
「はーい」
「廊下に出て右よ。脱いだものは全部洗濯かごっ」
少し開いた戸の先を指してエリを見る。彼女はくるぶしを使ってスニーカーを脱ぎ、「じゃあ、バッグ!」と着替えを催促。腕を組んだ彩香は小刻みに顎を振り、スリッパで廊下へ跳ねる元気な姿を見送った。エリが脱衣所に入る音を聞くと扉からカフェを覗いた。光が満足に届かない暗闇に足を踏み入れる度胸はなく、スイッチで明かりを点けた。カウンターで迷った昨日の肘跡は一掃され、奥に並ぶ一本脚の椅子は輝いていた。彩香は彼女のやる気に押されるように扉を閉めた。
エリが脱ぎ捨てた制服を腕に掛けて脱衣所へ跡を追い、彼女の鞄を入り口の脇に下ろした。洗濯機に掛かったネットを取って手を入れ、かごに溜まるシャツから靴下までを一巻きにして裏返し、全自動ボタンを押して洗濯槽に放り込んで蓋を閉じた。
帰り際、すりガラス風の半透明な折り戸を横目に持ってきたバッグの中が気になる。けれども、シャワーが止まって近づく人影にすごすごと引き上げた。
「あ、そうそう。ここにタオル置いとくから」
彩香は室内に戻り、リビングの壁で上を向く長針と短針の狭い角度にまた焦って汗をかいた。冷蔵庫へ向かうとバターの箱と卵を出し、コンロでフライパンを火にかけてバターの角をスプーンで落とした。流し台の下からボールを取り出し、卵を割って入れ、冷蔵庫を開けて取り出した牛乳をパッとかけた。最後に砂糖をなるべく一つまみ。レンジの上の食パンを一枚、押し漬けるのもそこそこに溶けたバターで焼き始めた。
エリの髪が半分濡れた状態で戻った時にはテーブルの上に料理が並ぶ。彼女に牛乳を入れるよう言い、フライパンから移された目玉焼きの皿に魚肉ソーセージを付け合わせた。皿を運んできた彩香が腰を下ろす隣にエリは陣取り、それほど甘くないフレンチトーストに舌鼓を打って脂っぽい目玉焼きをつついた。
「これ、おいしいねー」
「お腹すいたでしょ。でも、もう昼だし、足りなかったらカップ麺とかで我慢してね」
「うん。全然、大丈夫だよ」
彼女の返事をへこんだ腹に言い聞かせる彩香は少なめの食事へ残念そうに微笑む。一方、エリは履き替えたスカートのお尻に突っ込んだ潰れた箱をさらに押し込んだ。
とりあえずのブランチを終え、頼まれたエリは流し台で水をジャバジャバして慣れない洗い物に苦戦した。壁を一枚隔てて洗面台で彩香は指の腹をせわしく動かし、脱水が回る音に急かされつつ顔の土台をこしらえた。午後を回ってようやく洗濯物が外に干し出され、リビングで角ハンガーのピンチに下着を掛け終わると、二人はソファーに並んでインスタントコーヒーで休憩を取った。
「エリちゃん、この後は買い物があるから出かけるわね」
「じゃ、何をやればいいの?」
「うーん。何もないけど…。カフェの方はちょっと待ってて」
「そっかあ」
自分の言葉に少し退屈そうな表情を見せるエリを置いて二階へ。彩香は厚めのデニムに着替えて脇のスタンドミラーで体裁を整え、麻のジャケットを羽織って部屋を出た。
階段を下りて玄関を出る前にリビングを覗き、浅めに座って足を伸ばす少女に声をかけた。
「うちの中は二階とか勝手に見てもいいからさ」
ドアを出て玄関ポーチから駐車場へコンクリートの数段を駆け下り、久しぶりに訪れた共同生活に充実感を噛みしめる。跳ね上がった門扉にタイマーを設定し、押し出したバイクに足を後ろへ蹴り上げ、ブレーキを緩めて発進させた。スロットルを回すと静けさの残る路地から徐々に感じる風に胸を躍らせた。