週明けの朝にスーツ姿の彩香が玄関から出ていった。笑顔で見送ったエリはスリッパの方向を変えてトントンと二階へ上がり、真っ直ぐな廊下を進んで木目調の引き戸に背中を向け、子供用に作られた部屋の扉をバンッと押し開けた。隅のベッドは整った夏布団の上にパジャマが広がり、反対の壁際にバッグの着替えを移した収納ボックスが重ねられた。カーテン越しに窓からの陽当たりで暑さを溜め始めた部屋に眉をひそめ、彼女はソッコーで手前に転がるハンディタイプの掃除機を持ち出した。
一階に下りてキッチンでカフェへの扉に向いて立ち、教えてもらった通りに扉を手前に引いて手を入れた。脇のボタンで冷房と明かりにスイッチオン。程なくして動きやすくなった店内に入り、カウンター席に並ぶ椅子の後ろでホースの先をぶつけないように振り回した。
昼になると両手で持った皿の冷凍チャーハンを電子レンジへ差し出してかかとを浮かせた。食べ終わって洗い桶に残された朝食の皿と一緒に食器を洗い流す。少し泡が残っていても水切りかごにちゃちゃっと収め、拭くことを忘れて再び掃除機の電源を入れた。夕方までカフェで雑巾片手に汗をかき、帰った彩香にシャワーを促されて従った。
次の日は夜に洗濯された肌着を外へ移した。狭い庭先にある一本のプラスチック竿。リビングの室内物干しからハンガー数本を手に行き来した。エリは掃き出し窓の桟に腰掛けて片足のつま先を地面から上げてつっかけをポトリと落とし、太陽に照らされた塀を眺めてリビングの涼しさを背に受けた。彼女は親しくすべき人には素直さを見せた。その彩香の言いつけを終えると、一息ついてカフェへ向かった。
お腹が減ってきてキッチンに入った。水を入れた鍋にインスタント麺を放って火を点け、袋の説明を読んだ。後ろの棚から見当たらない丼の代わりに深めの皿を作業台に置いて出来上がった鍋の中身を移した。腰を曲げて器に口をつけて汁を吸い、肘をついて息を吹きかけて麺をすすった。
食後に冷蔵庫からお茶のペットボトルを出し、閉じた扉のカレンダーを前に立ち止まった。
「お兄ちゃん、まだ忙しいよね。週末にならないと来れないかなぁ」
エリは夏休みの少ない兄を想った。彼のためにカフェを掃除し続け、彩香にいい顔をして雑事をこなした。店内はカウンター、テーブル、椅子、その周りの床からほこりが消えて少しずつ綺麗になった。
ちはるが夫との連休を満喫した翌日、夕方にやってきた。対面キッチンのカウンターにお土産を置き、ダイニングの椅子を引いて横向きに腰を下ろした。未だ浮かれ気分でジャケットを腰に巻く彼女は背もたれに手を掛け、しばらく彩香と旅行の話に興じた。ひとしきり喋った後、エリがどうなったのか尋ねた。彩香はフライパンで野菜炒めに普段より多めの肉を転がし、隣の鍋でみその塊が沈むのを気にして答えた。
「はい、居てもらうことにしました」
「やっぱりね。じゃあ、上の子供部屋を使っているんでしょ」
「ええ。納戸の前の部屋がいいって言うから」
「そうだわ、彩香が使っていた奥の部屋のベッドは寝にくいんだった」
「マットレスが少しへこんでるだけですよ。それなら従姉さんのやつは修理してあるけど、かなり古いベッドじゃないですか」
「大丈夫よ、彼女は体重が軽くて小柄だったし…」
ガラッ
彩香が雪平鍋で菜箸をかき混ぜて火を止め、廊下から入ってきた少女に気を留めた。ほんのりと乾き切ってない髪を見て頭の上で手を握って振った。
「わたし、ドライヤー使ったよ」
エリは裾の感触を確かめた。彼女の目に組んだ脚を彩香へ向ける女性が映った。ちはるは敬語を使われ、話し方に年上の威厳を感じさせた。彼女はタンっと前に進んだ。この家の年長者には丁寧にという意識が働いた。
「こんばんは、ちはるさん。お世話になってます」
「こんばんは。居心地はどう?」
「はい、おかげさまで毎日快適です」
「良かったわ。それで今どこで寝てるのかしら」
「あ、二階で…奥へ行った……えっと、真ん中に…フローリングの……」
上手に話そうとしたエリだが突然の質問に口が回らずにばつが悪そうな顔をした。慣れていないしどろもどろな答えに、ちはるは目を細めた。彩香が「エリちゃ―ん」と炊飯器を叩いた。彼女は対面キッチンの端をぐるりと回り、奥で食器棚を物色した。
ちはるはテーブルに肘をついて上体を寄せ、向かい合って一枚の皿を前にちぐはぐに口を開ける二人を見つめた。後ろへ頭を向けるとリビングの隅に今まで見られなかった生活感が出たハンガーの列。振り返ってキッチンの壁に浮き出た扉がオレンジ色で縁取られる。電灯を消し忘れたカフェは再開がまだ先になりそうな感じを受けた。
ともあれ自分のいない間にできた協力関係の垣間見える室内に機嫌が良くなった――彩香はきちんと面倒を見れてるようだし、それなりに家事をこなせるし、そろそろいい人が現れる……なんて事があったり――と期待を滲ませ、なるべく口を挟まずに彼女たちを眺めることにした。