エリはテーブルの横に立ち、ペットボトルを傾けてコップにお茶を注いだ。彩香の作った料理をダイニングに運んで並べたのも彼女だった。ちょこまかと動く彼女から座っていただけのちはるが醤油差しを受け取り、ほうれん草の小皿にかけた。前回と同じ廊下側は彩香とエリで窓側はちはるが座り、手を合わせて食事が始まった。彩香は少し不満そうにし、小さい瞳の周りに広がる白目を正面へ向けた。
「もぉ、ちはるさんもちょっとは手伝ってよー」
「いいじゃない。同時に三人が台所に立ったら狭いわよ」
「だからって…あっ、また醤油かけて」
目の前で野菜に箸がつけられるのと対照的に彩香はガツガツとご飯に肉を乗せて頬張った。隣のエリが箸を置いたまま上目遣いをした。視線の先、ちはるは「私かしら」と自分へ箸を向けた。
「そ、その、兄のことなんですが……」
エリが思いも寄らない話を始め、口が風船のように膨らんだ彩香と目を合わせた。彼女の兄については舞島学園に通っていることぐらいしか知らなかった。記憶に残るニュースの中から選んで糸を垂らした。
「ああ、舞島学園の職業訓練コースはマイジマ工業と関連があるのよね」
ちはるは野菜炒めの皿に肉を探しながらエリに言った。しかし、横から彩香の方が食いついた。
「その会社、どーいう関係があるんですか」
「あそこは白鳥のグループ企業でしょ…って新聞くらい読みなさい」
「テレビ欄以外もたまに見てますよ」
「じゃあ、職業訓練コース生が社員だって分かるわね」
「へっ、シャイン!?」
彩香は顎が上がって壁と天井の境をぼーっと眺め、無意識の口に箸をくわえた。ちはるが思考停止した顔へ冷ややかな目を向け、つられて天井を探すエリへ「もう食べちゃいなさい」と手を振った。気づいた彼女は茶碗を持って手前に置かれた箸を掴み、どんぐり眼を左右に揺らした。
「それがですね、今週は工場へ実習に行ってまして」
「手当が出るのよね、確か」
「はい、兄は作業が大変だと言ってたような。それで……」
唐突に畏まったエリに、ちはるはみそ汁をすすって話を合わせた。回りくどく話す態度は明らかにおかしく、お椀に口をつけて器の反対に目をやってつぶさに表情を観察した。彼女は兄が工場でトラブルを起こしたと言い出すのか、それとも、工場に行きたくない兄の相談したいと言うのか思慮して刹那が過ぎた。
「えぇ~~、社員。給料もらってんのー」
彩香が耳に入った「手当」の意味を遅れて理解し、驚きと一緒におかずを吐き飛ばす。ちはるは口に我慢を眉間にシワを寄せて立ち上がった。片足を斜めに出してつま先で立ち、カウンター越しのまな板に転がる布巾へ手を伸ばした。湿った布を掴んだ手に気が緩んで間もなく、テーブルからエリの声がボソッと耳に届いた。
「兄を土曜日に連れて来たいんです」
ハッとしたちはるが並んだ二人へ怪訝な顔を向けた。彩香が申し訳なさそうに手を合わせ、頼み終えたエリが満足げに醤油容器の丸い頭を撫でた。隣り合う彼女たちはそれぞれ別々の方向を向いている。ちはるはテーブルに背を向けて腕組みして考え込んだ。なぜこんな簡単なことを彩香に頼んでいないのだろうか、自分が来なかった間に話す時間は十分あったのにと。考えれば考えるほど彩香の面倒見に疑念が湧き、だんだんと腹が立ってきた。
後ろ向きで固まったのを奇妙に思って彩香が立ち上がると、振り返ったちはるが何も言わずに彼女の腕を取り、そのまま廊下へ引っ張り出した。洗面所のアコーディオンカーテンが閉じる行き止まりになった場所に彼女を立たせた。ダイニングの光が射し込んで照らされ、前へ垂れた長い髪の間からちはるのつり上がった目が見えた。
「ね、なんでエリは私の顔見て頼んでるのよ」
「それは彼女に聞いてみないと」
「そういう事を言ってんじゃないの。ちゃんと悩み事とかを聞いてあげないとダメでしょ」
「まあ、今聞けたんだし、それで十分じゃないですか」
「あんたって人は……。それなら彩香がお兄さんの相手をしてあげなさい!!」
ちはるは廊下の暗がりをどすどす歩き出した。玄関の電灯が自動で点き、下駄箱のヘルメットを前に立ち止まってジャケットを広げた。呆然とする彩香は頬に付いた米粒を取り、指先につまんで口へ入れようとして叫んだ。
「ちはるさん、ご飯どうするんですかー」
「あんた達で食べときなさーい」
無責任に言い放って閉じた玄関ドアの先にブーツの音がどこまでも響く。彩香はもやもやしてダイニングに戻り、見上げたエリが前髪の下に心配そうな瞳を見せた。
「ねえ、ちはるさんは何て言ってたの」
「あ、ええ、お兄さんのことは私に任せるって」
「そうなんだ。よかった」
エリが彩香のテキトーな気休めに胸を撫で下ろし、野菜炒めに入った肉へ箸を伸ばしてパクパク食べ始めた。桂木家に兄を呼ぶお願いを聞いてもらうため、従順に家事を手伝ってちはると彩香の機嫌を取った。首尾は上々と彼女はニコニコして食べ続けた。それとは逆に、テーブルに放置された食べかけの夕食を見て彩香は唇を尖らせた。
頭に血が上った彩香はカウンターとテーブルの間に入り、持ち上げた椀に大きく口を開け、みそ汁の残りを具ごと一気に飲み干した。その様子にエリの箸は止まった。彩香が卓上に器を叩きつけて少女へニヤリと笑う。
「明日の昼はこの野菜炒め、よろしくっ」
「えー、姉さまの口から飛んだところは取ってよ」
「それもそうねぇ。分かったわ」
まっとうな抗議に熱が冷め、ちはるの皿から箸で手前の方を削り取った。横の茶碗に残りご飯は少なかった。首を回して食器棚の前にズラリと並んだカップ麺を眺め、またニヤリ。
「こっちのご飯食べちゃおうか。カレーヌードルにおかず乗せてもいいよね」
「うぇっ。それ、くどいんじゃない」
ちはるから散々聞かされたこの手の忠告はいつも通り華麗にスルー。「食べたらわかる」と言わんばかりに、幅広のTシャツにどこだか分からない脇腹をバシッと叩いた。さすがのエリも顔を背けてそっけなく箸をくわえた。