住宅街は子供の声が消えて辺りが薄暗くなり、彩香は薄手のスーツジャケットを腕に掛けてレジ袋を片手に帰ってきた。蒸し暑さで額から汗を滴らせ、桂木家の玄関に入って廊下にのっそりと上がった。戸を開けてリビングの明かりを点けると、キッチン奥の扉からエリが飛び出した。
「姉さま、シャッターが閉まんないよー」
「え、どこ、どこのやつ」
上着をソファーの角へ放って彩香は足早に向かった。商店街で買った惣菜と卵のパックをキッチンの作業台に載せ、白いブラウスの首元に人差し指を入れて広げた。冷房が効くカフェに足を踏み入れ、カウンターに面したガラス張りの窓の上部に細長く上がり切らない影が目に入る。エリが壁のボタンを押し、プラスチックの軋む音が「ガガガ」と聞こえて彩香は肩を落とした。
「はぁ~、ダメだ。これは開かないわ」
「えー、このままなの」
「そーね。これが要るから」
彩香が指で丸を作って上げた。昨日今日と窓を拭いて綺麗にしたエリは落胆し、反対側のボタンでゆっくりと下がっていくシャッターに疲れを感じて室内へ引き上げた。
テーブルの片側で袋から出された照り焼き、湯気が立つ茶碗とお椀、左利きの少女が取りやすいように二人の食器は左右対称に並べられた。立ったまま彩香は二の腕に圧迫された汗ばむ脇パッドのずれを直し、シャワーを浴びる前のエリが座って手を合わせた。
「明日も来ないのかな、ちはるさん」
「うん、結構引きずるのよ。麻里ばあちゃんが亡くなった時もそうだったし」
「え、おばあさん死んでるの」
「ええ、ちはるさんの祖母に当たる人だけど…。もう十年以上前か、ひどかったな。レースの方も成績が振るわなくて家に通販の段ボールがいっぱい届いて。父さんが仕事終わりに訪ねてきたわ、鳴沢の家にも凄く心配されてね」
皿がない前の席で少し飛び出た椅子へ吐息を漏らす。ちはると過ごした歳月は彩香に今週は来ないような予感をさせ、商店街で三人分のおかずを買うことをためらわせた。
彩香はようやくの食事に椅子を引き、エリが箸をくわえて表情が冴えないのに頭を掻いた。
「あっ、ゴメン。食事の前に変な話しちゃって」
「……妹だったよね、ちはるさんも」
エリには母が死んでからの慌ただしい日々の記憶が苦々しく残る。狭い部屋でお経を唱える坊主頭を後ろから眺めて退屈に時間が過ぎた葬式。それから色々な所をまわって難しい話を聞く兄を不安げに見つめた。忘れられない硬い横顔と違い、お棺を開いた死に化粧はすぐ思い出せなくなっていた。その後、身寄りのない彼らは施設に連れていかれた。
ちはるとは違う境遇に苛立つ少女の手元で木の箸が鳥のように皿の上をついばんだ。彩香は不満のはけ口にされたおかずを不憫に感じ、ちはるがエリに良く思われてないのではという考えが頭をもたげた。何とかしようと知恵を絞って語り始めた。
「あのね、ちはるさんって頼りになるんだよ」
「ふーん、そーなの」
「うん。私が家出した時も一人で探し出してくれてね」
「姉さま、不良だったの!!」
他人のことに興味を示さないエリは話の後半だけを聞いて目を丸くした。彩香は「違うわよ」と自分を見上げる少女の眼差しに優しく微笑んだ。
「わたし、大学を卒業できなくて逃げだしちゃったの。母さんが怖くて」
「頭悪かったから?」
「はは、半分当たりかな。バイク乗り回して夜間のバイトに眠くて午前中は授業出なかったし」
「やっぱり不良ね」
「まぁ…それでね、ちはるさんがバイクで泊まれるところ色々調べて迎えに来てくれたの」
「ふーん」
エリは箸を動かし続けた。彼女は彩香の思い出につれなかった。それでも、キャベツに堰き止められたボロボロの鶏肉をつまみ、話の続きにある関心事に「どうなったの」と顔を向けた。彩香は少女の眼に興味の色を感じて箸を置き、空腹を我慢して片肘をついた。
「ちはるさんが母さんを説得してくれて、そのまま彼女の仕事を手伝ってたわ」
「姉さまがカフェもやってたの」
「その頃は休業してた。でも、ちはるさんが建て直して再開したのよ」
「それじゃあ、あの店舗は築何年なの」
「え、家の改築と同じだから六、七年かな。営業してた期間は半分くらいだと思うけど」
「うわぁ、もったいなーい」
軽く非難を浴びせるエリは端に置かれた小皿へ箸を伸ばして彩香に背を向けた。昔の話より扉があるキッチンの奥に心があった。併設されるカフェの比較的新しい床で輝くワックスと接した少女に過去への郷愁や愛着はなかった。
彼女の年齢に違わない態度に彩香は悔しい気分で頬から離した手をテーブル上に握った。足かけ二十年、正面に座っているはずの女性の背中を追い、その言葉や行動にたびたび助けられた。それを隣に座る年若いエリがすぐに理解してくれることは絶望的で、だとしても、ちはるをただの小うるさい人とは思われたくない。カッとなった彩香の体内に有り余る脂肪は燃焼を開始した。
「いい、ちはるさんは校長をしてて偉いのよ。この前は言わなかったけどさ。おかげでレーシングスクールは大人気で、彼女に会うために鳴沢から通ってくる人だっているんだから」
「えっ、そーなんだ」
「レースがない日に講師を引き受けたら評判になって、レーサーを引退したらすぐにオーナーから『是非、校長になってくれ』って言われたの」
「ふーん」
「それに舞島サーキットの利用も直接、ちはるさんが白鳥グループと交渉してるのよ!」
せっかく凄さをアピールしても平然と食べるエリに我慢ができず、有名企業の名をダシにしてちはるの社会的地位を誇った。もはや、彩香の腹ペコは極限状態。子供相手だということは頭から吹き飛んでいた。
エリは口から箸をすーっと横に滑らす。ゆっくり噛んで頭に情景を思い描き、白い歯を見せた。
「わかった。白鳥技研のシーイーオーに会ってるんだ」
「え、あ、えっと……」
すぐ調子に乗る彩香は言ったことの火消しに迫られた。エリを納得させるための決定打も足元へのレシーブに混乱させられて大きく打ち上げた。どうやって誤解を解こうかと考え、長話に冷めたみそ汁に箸を浸けてぐるぐるとかき回した。
「そ、そんなに偉くないわ。ただ広いだけの田んぼに囲まれたバイクの学校だし」
「そっか。舞島に土地をかなり持ってるのね」
「いや、そうじゃなく……」
彩香は弁解する気力がなくなって彼女の横顔を見つめた。口元にご飯を付ける少女が変に誤解をして喜ぶ姿に、自分もこんな風だったのだろうかと過去へ思いを寄せた。キャベツを多めに盛った手前に鶏肉は小さく見え、平たい胃袋に満腹は遠い。伝わらなかった想いをよそに口の中で唾液が広がっていた。