中学三年のエリはカフェ再開を目論んで桂木家を訪ね、夏休みに泊めてもらえることになった。
朝から掃除を始めたエリの元気な姿に影響され、彩香は共同生活に胸を躍らせる。
彩香が仕事に行っている間、エリはカフェ以外にも食事の後片付けをしたり、洗濯物を干したりと雑事をこなした。しかし頭の中は兄のことばかり。
夕食の時、エリに「兄を連れてきたい」と頼まれたちはるが腹を立てて帰った。彩香は叔母を悪く思われないように思い出話をするが、彼女は無関心だった。それでも、懸命に食べる彩香には親しみを感じて気遣いを口にした。
テーブルでくつろぐ女性を慕いつつも、エリの気持ちは兄を迎える明日へ向かっていた。
たまには大人らしく
一週間ぶりの湯舟を堪能した彩香はヘアバンドとゴムを取って髪を背中へ解放的に、乳液の力を借りて潤いを閉じ込めた肌に自信を持って廊下から戸を引いた。
桂木家のダイニングキッチンは出来合いの食事でウィークデイの最後を節約し、明かりを落として静まり返る。片やリビングではシーリングライトの下、壁の両サイドに浮かんだ小さい窓をカーテンが覆い、中央で横長のディスプレイが光を放った。
しんとしたテーブルに若干の湯冷めを感じつつ、気を取り直して明るいリビングへ足を向けた。
「う~ん」
点けっ放しのテレビに四角い枠の懐かしい番組が特集され、ソファーの背に見えないエリから呻きが聞こえてくる。窮屈そうな声の主を確かめにそっと横へ回った。座面上で芋虫のように腰を浮かせて手をバタバタと、彼女は画面を真似してお尻を動かす。綿のハーフパンツと裸足を眺めて彩香は肘掛けに腰を乗せた。
「何をしているのかしら、一体」
「んー、この子の無理~」
「おやめなさい。そんな恰好、下品よ」
噴き出しそうになるのを我慢して口を押さえた。いつもは自分がテレビに向かって唾を飛ばして大笑いが定番だが、風呂に入って気を良くして思春期の少女を前に大人の顔を見せた。
エリの体が転がって化学繊維の生地に手をついて起き上がり、正座をして前傾姿勢でソファーの前方へ両腕を空転させた。それにも彩香は膝に手を乗せて構えた。動きが止まった彼女に微笑み、入浴前の生返事をした用事に遅ればせながら気を遣った。
「それで、朋己くんに連絡できたの。うちの電話古くて操作が不便だったでしょう」
「できたよ。お兄ちゃん、『明日来る』って言ってた」
ソファーのばねに元気良く跳ねたエリは手を上げて彩香へ目を輝かせた。テレビ番組の古めかしい映像で狭い教室に生徒達が同じポーズを取る。ちらちらと画面に映った見慣れないボードが彩香の目に留まり、嬉しそうな彼女に目線を合わせて指で差した。
「エリちゃん、あれ黒板って言うんだよ」
「知ってる。まだ中学にもあるし」
「え、そうなの。私は実物を見たことないんだけど」
「へー、姉さまの方が昔なのに。ウソだ~」
ジェネレーションギャップを感じさせる若いエリが過去の遺物を知っている。彩香は彼女から遠く山奥の雰囲気を感じた。耳を隠して裾をまっすぐ揃えた髪に素朴さを、『田舎者』と書きたくなる白いほっぺに柔らかさを。事務作業で溜まった疲れがほのぼのとした少女に癒された。その上、ぽかんと口を開けたエリに注目され、ちはるに教えられてばかりの彩香は相好を崩した。一段高く腰掛けて人差し指を立て、なけなしの知識で都会生まれの鼻を高くした。
「鳴沢市はこっちと違って進んでるから、デジタク云々」
「デジタイゼーション?」
「そう、それよ。小学校とかにITネットワークのあるやつでさ」
「社会の授業で習うんじゃないの」
「あ、うん、昔は習ってないの。ほんとよ~」
不意に突っ込まれた彩香は雑なでまかせにエリの肩をポンポンと叩いた。「またか」という目を向けた彼女に、のっけから腰の折れた話を元に戻して調子づいた。
「でね、先生に怒られた事がぜーんぶ、帰る前に母さんにバレちゃうの」
「じゃあ、その頃から少し不良だったんだ」
「なっ…宿題忘れたくらいよ。そーいうことあるでしょ」
雲行きが怪しくなってムッとしながらも無難な所で手を打ち、ひねた少女に同意を求める。しかし、エリは手を這わせてソファーに転がるリモコンを探り、表示された番組表に難しい表情で顎を押さえた。彩香は肩透かしを食わされ、彼女の横顔に目が行った。急に硬くなった頬は母の小言を去来させた。
「宿題はちゃんとやってるの、エリちゃん」
「えっ、何か言った?」
目を合わせようとしないエリは手を伸ばしてチャンネルを変える。笑っていたバラエティ番組へ面白くなさそうにした。終いには「もう寝てこよっと」と立ち上がり、宿題をしていないと疑う彩香の前を何食わぬ顔で通り過ぎた。
「ちょっと待ったー」
彩香に呼び止められ、エリは戸のハンドルを引いて目を泳がせた。ぎこちない笑顔を作り、くるりと振り返って手を後ろに隠した。下を向いた彼女へ、両肩を怒らせた彩香は目を光らせてじわりと近づいた。捕まえようと手を上げると、顔の前に細い腕がさっと伸びてきた。
「い、今は宿題ないんだよ~。コレ、本当っ!」
突然、掲げられた人差し指に彩香が一瞬ひるんだ。エリは戸を閉じることなくスタコラと二階へ逃げ出した。ハッとした彩香は廊下に追って出た。彼女が暗い階段を駆け上り、折り返しで外側にひらりと身を翻して回るのが見えた。
彩香はやれやれといった感じで入り口脇で肩の力を抜いた。リビングに戻って無秩序にばらけた後ろ髪に手をまわし、どうするべきかと振り返った。テレビに向かう三人掛けのソファーは以前と変わらないちはるや曾祖母・麻里と過ごした位置にある。電話の棚に置かれた記念写真から見守る視線がそれを撮った人の分までプレッシャーをかけた。彩香はポケットに手を入れ、ゴムを掴んで廊下へ出た。
明日の献立を考えて二階へ上がり、納戸に入って風呂上りに毛穴を開いて汗をかく。エアコンの涼風を受けて布団にくるまるエリを廊下の向こうに、仕舞われた衣類をせっせと掘り起こした。