エリが出かけてから数時間経った。ハーフパンツから出る足元に西日が射し込んで冷房の効きも鈍くなり、彩香は背中のべったり感を我慢し切れずソファーを立った。畳んだ洗濯物のTシャツを取ってダイニングへ行き、無造作に椅子の背に掛けた。湿った方を吸い付く肌から引っ剥がして脱ぎ、乾いた方に手を伸ばして替わりに載せた。両手を袖に通して首を出すと扉が開く音がした。
カチャッ
カフェから押し開かれた扉にひょいと顔が現れ、前髪を分けた少年がおでこを晒した。目を大きく見開き、すぐ身を引いた。彩香は慌てて腕をくねくねするが、火照った体に汗がたぎってシャツの裾は落ちなかった。「えいっ」と無理やり手で引っ張って腰まで下げた。リビングに戻って洗濯物のタオルで顔の周りを拭きまわし、首に引っ掛けてキッチンへ近づく。冷蔵庫の前で彩香はもう一度体中を見回した。他に肌が露出してないかを確認し、少し開いた扉に手を掛けた。
「朋己くんね。困るわ、そんなところから」
「す、すいません。妹にカフェに来てって言われて…」
「そう。エリちゃんは今出かけてるけど、そのうち帰ってくるわ」
「あ、そうなんですか」
「ささ、家の方に入ってちょうだい」
朋己が決まりが悪そうに頭を掻いた。彩香は足元に脱がれたスリッパをひっくり返し、白い半袖ワイシャツを着る彼をカフェの暗がりから明るいダイニングへいざなった。
他人の家に上がった朋己は緊張しながらキッチン台の角を回り、彩香が引くダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。ぎこちなく頭をペコっと下げた彼は妹のエリと目元がよく似ていた。彩香はグラスのお茶を差し出すと髪を結んだゴムを引き上げ、前髪を指で払って恰好をつけた。彼の正面に座ってまだ幼さが残る顔へ微笑みかけた。
「ふぅ、恥ずかしいとこ見られちゃったわ」
「そ、その、彩香さんですか」
「そうです。ハイ」
「どうも、妹がお世話になっています」
「気にしないで。脇腹にういろうをくっ付けてたこともねっ」
生真面目な高校生に向けて彩香はイタズラっぽく唇の前で人差し指を立てた。だが、腹に付いた脂肪を見なかったことにして欲しいという意図は伝わらず、朋己は何のことだろうかと目を左右に動かした。ちょうど、カウンターに置かれる土産のお菓子が見えた。
「あぁ、つまむと感触がもちもちとして美味しそうですね」
「え、そうね。アハハハ」
彩香はふざけているのかと思って苦笑いし、それが大好物だと朋己は思いっきり勘違いした。
「それじゃあ、肌身離さず持っているんですか」
「へっ。これはただ余ってるだけで、できればどこかに捨てたいと…」
「そんな、もったいないですよ!」
朋己が人の良さそうな女性に目尻を下げ、元気良く彼女の贅肉を褒めた。妹が世話になる先で失礼のないようにと硬くなった彼もグラスへ手を伸ばし、喉を潤して流れ落ちるお茶と一緒に心拍数も下がった。テーブルの反対では彩香が手元に目を落とし、皮肉に聞こえた言葉に唇を噛んだ。コンプレックスを刺激されて「食わしてやろうか」と低くつぶやく。しかし大人げないことはできない。辛うじて残った理性が彼女の上体を起こさせ、前を向いた口に社交辞令を喋らせた。
「それにしても、夏休みなのにわざわざ制服で来てもらって悪いわね」
「こちらこそご挨拶が遅れてしまってすいません」
「あら、そんなに畏まらなくてもいいわよ」
「いいえ。エリが施設に提出した外泊届の電話番号がでたらめで困って、一週間も連絡できなくて申し訳ないです」
「ううん、構わないの。一週間といっても昼は仕事でいないし」
平静に戻った彩香は椅子にもたれて足を組んだ。非礼を詫びる朋己は正しく叔母・ちはるが口を酸っぱくして言う『礼儀』の正しい少年。些細なことで怒ったりしないで大人の応対をしようと思い、思いやりの気持ちを持って接した。
「勉強しながら手当もらって働いてるわけでしょ。偉いわ」
「偉いというか、お金が無いとエリに好きなことをさせられないですから」
「やっぱり、ちゃんと考えているのね」
朋己はグラスを掴んだ両手がエリより大きく相手の目を真っすぐ見て話した。妹想いできちんと将来を見据える態度に感心し、自分で奨学金を申し込んだ少女の兄だと実感させられた。
「二人ともしっかりしてさ。それに比べて……」
頭の後ろに手を組み、朋己と比べた今の自分に思わず自嘲しそうになる。普段、ちはるが使っている席から少年を前に虚勢を張って喉が渇いた。冷蔵庫から飲み物を取ってこようと後ろへ体を倒し、もたれた背中の厚みを椅子の背に軋ませて立ち上がった。
カウンター側に寄ってさりげなくテーブルの横を通り過ぎると、いきなり彼に腕を掴まれた。
「えっ」
「あ、あの、エリが迷惑かけてませんか」
空中を揺れる頑丈そうな丸みへ朋己はタイミング良く手を伸ばし、胸に抱える妹の心配を彼女に打ち明けた。驚いて彩香は横を向いた。他人のことを考える余裕がない少年の真剣な瞳が自分へ向けられた。彼の握る手は力なく肉厚な腕から離れてテーブルで反対の手と合わさった。彩香にはそれが捧げる行きどころのない祈りに見え、歩道で仲良く歩いていた兄妹の隠れた部分を見た気がした。
彩香はホッとした。エリのことを悩む朋己は普通の高校生であり、自分の方が相談される側の大人であった。優越感を覚えるとニンマリと笑って顔の前で手を横に振った。
「ないない。家事をよく手伝ってくれるわ」
「それが、施設で結構わがまま言って周りから浮いてたんです」
「そうなんだ。でも――」
いじらしい朋己の姿は彩香に自信を回復させて心と体を軽くした。彼の肩をポンと叩き、グラスを受け取って対面キッチンへ回り込んだ。カウンターの奥から開けたリビングの天井へ根拠のないフレーズが響いた。
「大丈夫よ、大丈夫!」
人差し指をピシッと透明なグラスから伸ばす仕草に、朋己は施設で他の子に偉そうなエリの姿を思い返した。高圧的な態度をウザがられて相手にされない少女はむくれた顔を見せる。中学三年生になって年下が多い中、誰からもお姉さんとして慕われてなかった。その性格を彩香は「問題がない」と言う。妹を真似して。明るく振る舞って安心させようとする彼女は心優しい女性なのだと脳内で好ましく解釈されていた。彩香にすっかり気を許した朋己はリビングへ顔を向け、妹が彼女と生活する光景を想像して息をついた。
彩香は二つのグラスにお茶をなみなみと注いだ。久しぶりに男子と二人きりで話す。気分が高揚して急いで戻って卓上にトンっと置き、向こう側へまわって椅子に腰掛けてテーブルに組んだ腕を乗せた。
「実習はマイジマ工業なのよね。じゃあ、国道を南雲市方面へ行く途中に見える工場に行ってるんだ。白鳥の子会社だから車かバイクでしょうけど、何の部品を作ってるの」
「はい、作業には慣れてきたんですが。まだ名前が分からなくて」
「まぁ、おいおい分かるわ。でも職業訓練コースを選ぶってことは、朋己くんは機械いじりが好きだったりするのかな」
「実は……」
興味があるか問われて朋己は目を伏せてお茶に口をつけた。機械が苦手なら好きなバイクの話を諦めるかと、彩香はため息をついた。ところが、グラスを置いた彼が「ふっ」と笑みを浮かべた。
「実は神のお告げを聞いたんです」
「はぁ?」
打ち解けた会話のテーブルを冷ますかのような空気が流れた。信頼した女性に遠慮がなくなった彼はエリの兄だった。嬉しそうな朋己の黒い瞳を受け、彼を告白させる協力を懇願されたカフェの記憶がよぎった。彩香は前方に傾いた体をそーっと後ろへ引いた。