空騒ぎの末に明かりが点ったダイニング。今日の夕食は成長期の兄妹のため、彩香が一口カツ用の豚ロースを揚げた。テーブルの中央を占拠する大皿に焦げ目が所々の揚げ物が積まれる。エリは小皿に取ったその一つを箸で指し、横の兄を肩で小突いた。
「この豚肉、わたしが瓶でトントンしたんだよ」
「そうなんだ。それじゃ、彩香さんに教えてもらったんだ」
「うん、大変だったんだから」
右手に市販のソースを取ってかけると口に半分かぶりついた。妹を横目に朋己は遠慮が表に出て躊躇した。見かねた彩香が「どうぞ」と大皿を押し出した。彼は促されて箸を取り、エリと利きの異なる腕が当たらないように小さめのカツへと手を伸ばし合う。彩香は仲良く並んだ兄妹との縁に不思議なものを感じた。二人の背中へ思いを巡らせたことが昨日の事のように思い出され、正面で黙々と食べる朋己に交差点での一件を尋ねた。
「朋己くん、一ヶ月くらい前に歩道で私とぶつかったよね」
「えっ、彩香さんとは初対面ですが」
朋己が箸を止めてまばたきをした。彩香は疑問を抱いたが、言おうとした言葉を呑み込んだ。
「ううん、覚えてないなら構わないの」
無理に思い出させるのは悪い気がした。見覚えてなかったんだと深く考えないようにして自分の小皿を手に取った。もてなす側の人間として彼らとの食事に参加しているのだ。
彩香は作り過ぎた感のある大皿へ腕を伸ばし、カロリーが気になって手を止めた。だが、エリの箸が大きめカツをひょいっと掴み上げる。脂っこい食事で箸が進む若さに嫉妬し、中高生は多少食べ過ぎても太らないからと思い込んだ。今朝彼女に着せた服の袖に腕が通らなくなった過去をとっくに忘れ、彩香の目は自分より背が高い男の子に期待した。
「ところで朋己くんは今、体重何キロあるのかな」
「はい、4月に計った時は53でした」
「へぇっ。そ、そんなに軽いの。身長がそこそこあるのに、私より10キロも」
「体重より背がもう少し伸びないかと。やっぱり運動をした方が…」
「そんなことはどーでもいいから、どんどん食べなさい!」
大皿の真ん中にある塊を箸で「どうぞっ」と朋己の方へ寄せた。彩香がテーブルにぐいっと首を突き出し、体重差の責任はそっちにあると言わんばかりに唇を噛み、彼の小皿が空くのを凝視して食べ切るよう迫った。朋己は向けられた顔に照れくさそうに口を動かし続けた。
食事が終わって流し台の前に彩香が一人で片付けをした。エリは兄をカフェへ連れ出し、電灯の下で暖色に照り返されるカウンターの椅子に座らせた。
「わたしがキッチンに入ると、姉さまは『疲れた~』って帰ってくるの」
一週間でカフェを掃除して綺麗にしたことを得意げに話した。シャッターが下りてガラス張りの窓にはしゃぐ妹が映る中、朋己は気を利かせて二人にしてくれた女性を気にしていた。キッチンの扉へ視線を向けて真面目に話を聞かなかった。エリは頬を膨らませ、彼の耳を引っ張った。
「もぉ~、ちゃんと話を聞いてよ」
「痛い、分かった分かった」
「じゃあ、そこ。トイレの前から入り口まで綺麗にするのに二日かかったんだから」
「へー、この通路は結構広いね」
「え、あぁ、車いすで通れるんだって」
「こんな小さい店でもバリアフリーなんだ」
「何それ?」
「うん。チェーン店では当たり前なんだけど――」
朋己が話をしようとするエリに顔を合わせた。カウンターに手をついた妹はしばらく黙って兄の話に聞き入り、ときどき合いの手を入れる。カフェでの時間はすぐに過ぎ、彼女の思ったほど彼はこの場所を気に留めなかった。
門限のある朋己は寮へ帰るためにカフェの外に出た。敷地のへこんだ角に兄妹で柵を背に並んで夜空に夏の大三角形を見つけ、北極星を探す妹が明るく輝いた星々を指して見上げる。彼女への不安を軽くしたのは見送る彩香の微笑みだった。兄がボーっとする様子に、エリは自分が見つけた星を見ているかを気にした。
「お兄ちゃん、ちゃんと見てるの」
「ああ、明るいのは見えてるよ。ベガとデネブくらいは」
「ふーん。ところでさ、今日はどうだった?」
「うん、いい人だね」
「えーっ。カフェのことだよ」
カフェに興味を示さなかった反応にエリは口を尖らせた。とはいえ、店内はまだ手の届かない高さにほこりや蜘蛛の巣が残って問題があり、ひとまず堂々と彼をこの家に呼べることに満足して朋己の顔を覗いた。
「ねえ、今週はヒマなんでしょ」
「違うよ。工場で実習がないだけで学校には行くの」
「え~、おんなじだよー」
路地を帰る朋己へ手を振ってエリは見送った。彼の夏季休暇はもう少し先。それまでに相手を探そうと決意し、彩香に借りた服の背中にジワリと汗をかいた。駅前から漂う明るい空の境は住宅街の端まで広がり、振り返った彼女の頭上で北極星が控えめに輝いた。桂木家に来て兄以外の頼れる人ができたエリは行動に弾みをつけた。カフェを再開するために何が足りないのか、顎に手を当てて入り口の先を見据えた。
―― 次章予告 ――
黒田京太は中学二年生。叔母・彩香が住む桂木家にお使いで来た。ダイニングで祖母の妹・ちはるにUFОを探しに行った話を聞いてもらっていると、廊下から長い黒髪の女性が… ⇒FLAG+06へ