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―― 前章までのあらすじ ――
中学三年のエリは夏休みに彩香と共同生活を送る桂木家のカフェに兄・朋己を呼ぼうとした。
兄に電話して喜ぶ彼女だが、宿題を持ってきていないとバレて施設に取りに行くことになった。
翌日、彩香にお古を着せてもらう体験に戸惑いながらバス停へ向かう。
朋己を迎えた彩香は妹への不安を打ち明けられ、「大丈夫」と言い切った。明るく振る舞う彼女に彼はすっかり気を許し、彩香も弟ができたようで喜んだ。
帰ったエリが綺麗にしたカフェを見せるが、朋己は真面目に聞かず彩香を気にしていた。
エリは路地で帰る兄を見送った。カフェの再開に何が足りないのか、顎に手を当てて考えた。
ふつーの中学生
鳴沢駅を出発して20分が過ぎ、車窓から見える住宅街の奥に山がそびえ立つ。少年は7人掛けロングシートの端に座り、ドアから斜めに射す太陽へ不満そうに顔を上げた。携帯端末の向きを上右下左と順に回して首をかしげ、プラスチックレンズを通して鋭く目を左右に這わせた。耳とつるの隙間に指を入れ、レンズを支える二本のサイドフレームを浮かす。学年が上がって視力が低下し、怒った母が用意した眼鏡に、まだ彼はしっくりきていなかった。
長い橋に差しかかった線路の後方で広大なテーマパーク南端が小さくなり、渡り切って行く先に市境へと続く山々が見えてきた。少年はまばらに座る周りの人達に目もくれず、頭を後ろへドンともたれた。今日の遠出が成果なく終わったことだけ分かって肩を落とした。
端末をシャツの胸に仕舞って彼が目を閉じた。トンネルで周囲が真っ暗になって列車はゴォーと音を立てて山の中を通過していき、車内では心地よい揺れが乗客の眠気を誘った。
ピロロローピィーピィン、ピロリンーピィ……
少年は耳の側を風が流れる気配に目を覚まし、「しまった」と横のポールを握って体を回転し、発車メロディーが鳴る中を慌ててホームに降り立った。新舞島駅の南改札を出た彼に8月の西日が照りつける。帽子をかぶらない頭上に直射し、手をかざした脇へ青白い肌を日差しが照らした。
黒壁の木造建築が真新しいコーヒーのチェーン店前を過ぎ、新舞島駅の通りを商業施設が少なくなっていく方向へ歩いた。人が減ってだんだんと綺麗になるアスファルト上を15分。橋の手前で大型トラックに気をつけて横断歩道を渡り、川の中程まで進むと土手の先へ広がった田畑の景色に散在する住居が見渡せた。彼は河川敷でサッカーに夢中な小学生を苦々しく眺め、堤防の一本道を進んで雑草に囲まれた脇へ下った。とぼとぼと歩いて青い稲穂が絨毯のように生え揃う田んぼの間を近くの家並みへ向かった。
しばらくして畔の先で黒土から伸びる野菜が色づく。畑が取り囲む二階建ての家は瓦屋根が傾く太陽に照らされて青灰色を、それ以外の部分がまぶしそうな薄い色を晒した。塀までたどり着いた彼は『黒田』と彫られた表札だけの門柱の横に何もない空間から敷地の中に入った。目に飛び込むナスとその枝を支える柱の列。離れの前に広がる菜園を見ないようにし、玄関へ延びるコンクリ舗装の上を急いだ。
祖父は跡を継がなかったものの、古くからある農家の一人息子だった。孫たちと住むために建て替えた家は間取りに伝統的な田の字型の面影を残し、台所は日の当たらない北東に置かれて和室の客間と仏間が南西の方角に並んだ。戸を引いて玄関に入った少年は靴を脱ぎっ放しにして廊下に上がり、南向きの縁側からのもわっとした空気を浴びた。反対へ顔を振ると玄関の壁に飾られた作者不詳の人物画と目が合ってドキッとさせられる。静かに廊下を奥へ歩いて居間の入り口もこっそりと通過し、突き当たって台所から聞こえる雑音に耳を塞いだ。彼は隣の階段へ上りかけ、台所の扉が開いて甲高い声が響いた。
「京太、おじいちゃんの野菜持っていってちょうだい」
少年の背後にピンと手が伸びて袋から黒っぽい野菜が覗いた。母が顔を傾けて頬に膨らんだ髪と寄せた小さい瞳で断れない空気を作った。だが、彼は目も合わせずに階段を上って無視。母は口を尖らせて言った。
「どーせ、宇宙人とは会えなかったんでしょ」
返答のない息子の背中に向かって嫌味を浴びせる。勇んで出かけた様子を彼女が知らないはずはなかった。その上、耳障りな小言を始めた。
「それといい加減、玄関のとこに置いてある自転車を物置に入れときなさい。裕太はちゃんとしてるじゃないの」
「それは餌を物置に置いてあるからだろっ!!」
京太は階段途中でこぶしを握って振り返った。ドンドンと音を立てて彼女の前に下り、袋をひったくって玄関へ戻った。廊下を抜けて間口の広い玄関ホールで八方に手足を殴る蹴るして怒りを発散させた。反抗的な態度に腕を組んだ母はため息をつき、ふと思いついてもう一声。
「ワンピースの件、彩香に言うの忘れないでよー」
自分の用件を強く主張するような高い声に京太の鼻から息が漏れた。彼はつま先で靴の向きを変えてかかとを踏み、玄関を出て戸をピシャリと閉めた。
玄関脇に停めた自転車はそのまま放っておき、大きい歩幅で靴底がコンクリートを蹴った。門の手前に来ると庭の隅に物置が大きく口を開け、裕太を呼び寄せる餌のサッカーボールが据え置かれていた。少年は旧来のブロック塀が囲んだ家から飛び出した。沈みかけの太陽に足を向け、むしゃくしゃした気分を晴らそうと住宅街へ歩いていった。