ガラガララーン、ラーン
入り口の鈴が音を立てて静かに事務所のガラス扉が開いた。髪が内巻きに毛先がくるっとした女性が顔を見せ、彩香に向かってペコリと頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
入り口へ振り返った純一と手でコミュニケーションをとって奥へ入っていく。スーツを着た彼女はどこかの会社員のようであり、とてもバイトを雇ったようには見えない。女性が気になる彩香をよそに純一は雑談を再開した。
「彩香さん、今年も舞島レディースは出ないんですよね」
「あぁ、ちょうど仕事が外せなくてさ」
「この前木梢町まで行ってきたんですけど、みんな寂しがってましたよ」
「どうせ陰口のオンパレードでしょ。口が悪いんだから紗世とか」
「そういや、また新しいマシンに変えるそうです」
「フン。夫婦仲良く共働きだといいわね。こっちは服を買う余裕もないってのに」
自分のことに無頓着な彩香も、他人の充実した生活にはすぐさま愚痴が口を衝いた。お決まりのぼやきを無視し、純一はテーブルに身を乗り出して声を潜めた。
「親父も心配してますよ。まだ体調悪いのかって」
「あー、大丈夫って言っといて。ほんっと大丈夫だし」
「でも本当は…」
急に黙った純一の視線の先、女性がお盆にコーヒーが注がれたカップと皿を乗せ、カタカタとさせて現れた。彼女はテーブルの端から「ど、どうぞ」とぎこちなく差し出した。そして、純一に耳元で何かを囁かれて手で口を押さえて頷いた。彼の隣に空いたスペースへと腰を下ろし、お盆を椅子の横に立て掛け、彩香の方を向いて姿勢良く膝の上に両手を置いた。
「初めまして、田辺遥です。鳴沢市の出版社に勤めてます」
「実は、俺たち結婚するんすよ」
雑談のノリで話す純一に彩香は冗談とも本気とも分からず驚いて口を開いたままに。一方で遥は少し緊張した面持ちで話を続けた。
「その、以前ご自宅にお邪魔させて頂きまして。おかげさまで――」
長々と話した彼女の馴れ初めは彩香の耳にほとんど入ってこなかった。頭で同じセリフが堂々巡りした。
「いつから婚約者が……」
彼らの笑顔も想定外の驚きに湧く嫉妬は悪意をもって迎え、さっきの余裕ある純一の態度に腹が立ってきた。彩香は落ち着かない気持ちで置かれたコーヒーへ手を伸ばす。指が当たったカップの側面は熱く、手を引っ込めてTシャツの袖口をさすった。すかさず、遥は目を留めた。
「あ、冷房がちょっと効き過ぎですよね。彼って暑がりだから」
「えぅ…。わ、わたし、お手洗いに行ってくるわ」
親切な気遣いにも彩香の口調は慌てる。これ以上ボロを出さないように、できるだけゆっくりと席を立った。動きの鈍い体よりも混乱した頭を何とかする必要があった。
ジャーーーッ
彩香はトイレで用を足してすっきりした気分でパタンと扉を閉めた。備え付けの洗面台で手を洗い流して顔を上げ、ついでに鏡に映った頬をつねってみた。でも大して痛くもなく、はっきりと皮膚に残る指跡と間延びした脂肪がつまんだ自分をガッカリさせた。
ため息をついてカウンターまで戻ると、純一と遥の飾らないやりとりが聞こえてきた。
「だから麦茶を出してくれって、手でこうしたじゃん」
「えー、絶対わかんないって」
「でもこの暑さでコーヒーはないんじゃない」
「そうだけど」
「ふっ…」
気づいた二人はそれまでの会話を切り上げて含み笑いで出迎えた。だが、少し離れた位置から眺める彩香にこれといって込み上げる怒りはなかった。窓ガラスのすぐ横に並ぶ彼らへ陽光が明るく射し込み、事務所の奥まった場所に自分がぽつんと一人立っていた。カウンターの上に転がるレジ袋からは空腹を満たす菓子パンが見え隠れし、彩香はそれを袋ごと掴んで唐突に純一たちに別れを告げた。
「私、用事を思い出したから帰るわ」
「えっ。今日は夕方まで居るって言ってませんでしたか」
「週末取りに来るから、じゃあ」
言い終わらないうちに背を見せ、入り口のガラス扉に体を寄せて押し開けた。できた隙間から這い出て外の空気を吸い、彼らと離れて安堵した――しかし、同時に寂しくもあった。彩香は二人の幸せを目の当たりにして、それを受け止めて祝福できるほど冷静になれない。かといって、彼らが恋人として家族として試行する姿を遠巻きにして焦りを感じずにはいられなかった。
今年で三十一歳。桂木彩香に浮いた話は聞こえてこなかった。