中学三年のエリは夏休みに彩香と共同生活を送りつつ、桂木家でカフェの再開に汗をかいた。
彩香が三十で独身なのと対照的に、姉の美雪は結婚して三人の子がいた。次男の京太は宇宙人に興味を持ち、叔母の家でUFO探しに行った話を祖母の妹・ちはるに聞いてもらう。そこへ長い黒髪の女性が現れて彼は驚いた。廊下で着替えた彼女は「エリ」と呼ばれ、愛くるしさに奇妙な感じを受けた。
家では超常現象に理解のない兄妹と孤立する京太。翌日、電話が鳴って画面に映るエリの姿は髪が肩までと短い。姿が変わった不思議な少女に彼の胸が高鳴る。
京太はカフェに呼び出され、自転車で橋を渡り切った。新しい空気が爽やかに吹き始めた。
ぞうきんをどうぞ
海から山へ広がる農耕平野の美里町で叔母・彩香が住む辺りは小高くなっている。京太は住宅街の坂道を上り切り、なだらかな下りでペダルを漕ぐ足を休めた。ウッドフェンスとカフェ入り口の前を通り過ぎ、袖を上げるチェック柄シャツの後ろが目に刻まれ、両手を強く握って急ブレーキをかけた。自転車をフェンス際に停め、飛ばした分ぜえぜえと肩で息をして戻った。
戸を拭くエリが雑巾をどけ、小窓に黒い影が映って振り返った。ボタンが外れた胸元に目が行く京太に「どうぞ、どうぞ」と手を差し出し、愛想もそこそこにカフェへ入っていく。彼はおずおずと後を付いて入り、人の姿が見えない店内でカウンター席の椅子に腰掛けた。普通の人間は一瞬で容姿を変えられない。彼女が変身能力を持った地球外生物なのか、宇宙の科学技術を使って変身したのか調べに来た。
桂木家のキッチンでエリは水切りかごのコップを取ってお茶を入れ、レンジの上へ手を伸ばして半分残った菓子パンの袋をつまんだ。カフェへの扉脇でスニーカーにつま先を入れた。体をひねって曲がったカウンターを端まで真っすぐ闊歩し、コップを手からトンっと卓上に打ちつけ、座った京太の服に染みができた。
「はい、お茶どうぞ!」
「え、何も頼んでませんが」
「おでも、おても…お、おもてなしよ」
慣れない言葉を言い終えてエリが満足げに雑巾を上へ放り投げた。京太は思わず肩の力が抜けそうになるが、彼女の正体が分かるまで油断できなかった。念のため、カフェの戸を通れるくらいに開けておいた。パンの切れ目からはみ出るバナナクリームへ京太が嫌な顔を返し、投げられた布はカウンターの向こうにペタッと落ちた。
「そう。甘い菓子パン、彩香さんは大好きなのに」
エリは眉を寄せて面白くなさそうに体を横へ向けた。椅子に片膝をついてカウンターから身を乗り出して床を覗き、体を曲げて今にも落ちそうな体勢で長いスカートに腰を浮かせた。京太は昨日見たくびれを思い返し、横からお尻をじっと眺めて腕組みする。やましい気分になって彼は左右に首を振った。
「あ、俺が中に入って取りますよ」
「うん、ありがと」
作業台に手をついて体を起こし、エリは上方へ目をやった。カフェの棚は高い場所に蜘蛛の巣が張る。その棚の前に京太が入り、肩幅の広い体を丸めて床を這った。彼女は椅子に腰を下ろして前髪を掛けた耳を触った。
「あなたの名前は『ひろ』って読めるから京太なのね」
「はい、兄貴が父さんの字で裕太。俺のは双子と分かってから調べたらしくて」
「ふーん。お父さんも背が高いんでしょ」
「まあ、身長は遺伝なんで」
京太はまだ食器のない棚を前に立ち、寂しそうな少女へ握った雑巾をぶらつかせた。エリが手に頬を乗せてカウンターに肘をつき、少年の上へ遠い目をしていた。
「わたし憶えてないんだ、お父さんの顔」
「エリさん…」
こーいうお話に弱い彩香の甥はほろりとさせられ、高まる感情で来た目的を見失った。「でね、ちょっと手を貸して欲しいんだけど」と言われたのにも黙って頷く。エリはそーっと手を伸ばして計画通り。垂れた雑巾の湿り気を確かめ、赤い目をこする京太の上へ見ていた角度に人差し指を向けた。
「あそこは手が届かなくて綺麗にならないのよ。拭いてくれない?」
「はぁ」
「わたし、やる事があるから。お願いねっ!」
頼み事をした彼女が早々に扉から家の中に消え、京太は呆気に取られた。側の棚へ顔を上げて試しに雑巾を天板に振り上げた。ふわふわと落ちたほこりの固まりを頭にかぶり、またしても自宅と同様に一人残された。馬鹿馬鹿しくなって彼はカウンターへ雑巾を投げつけ、狭いカフェの作業場を抜け出した。
時計で下向きの長針が反対へ傾き、エリがまんじゅうの箱を抱えてカフェに戻ってきた。右の壁にある扉へ向いて奥のカウンター席を背にしゃがみ、蓋を開けてキーホルダー、ストラップ、その他色々と詰まった中身をかき混ぜた。金属の鍵を見つけては扉の鍵穴へ挿し込もうとした。一つ目は大き過ぎ、二つ目は合わない、三つ目は途中で止まってしまう。彼女は似たような小物がいっぱいの箱に眉をひそめた。息をついて窓の外をまぶしそうに眺め、カウンターの端からお茶をすする音に唖然と立った。のんびりする京太を目にして怒りが込み上げ、雑多な山に目立つ縁結びのお守りを手に振りかぶった。
京太は肩への軽い衝撃で顔を向け、腰に手を当てて仁王立ちする少女に気づいた。エリが手のひらを上に四本指をクイクイと折り曲げる。自分へ向けた人差し指で一応確認し、大きく頷いた彼女の元へ向かった。
「えっと何ですか、いきなり」
「サボってちゃ駄目じゃない。拭くの手伝ってくれるんでしょ」
「でも俺くらいの背丈じゃ、全然届かないですし」
「へー、そう。じゃあ待っててよ」
「……ち、違う。一言も手伝うなんて言ってませんから」
慌てて雑巾がけを拒否した京太だが、大真面目なエリは手元の紙箱を見つめた。「えいっ!」と擦れが少ない銀の一本つまんだ手を高々と上げ、そいつを縦に鍵穴の奥まで挿し入れた。ゆっくりと横に倒して取っ手をひねって扉をガーッと開け、窓のない暗い倉庫へ飛び込んだ。そして、彼女は急に大人しくなった。
ガチャガチャ、ガチャガチャ……
繰り返される単調なリズムが終わりそうもなく、京太はそろりと覗いた。カフェの窓から射す日光が入らず薄暗い。脇のスイッチで明かりを点けた。右の棚で薄い色の豆が詰まったピッチリとした袋が数個見え、奥で赤みがさした顔のエリが脚立を右に左に引っ張った。
「ほらっ、これを使えば手が届くわ」
獲物を捕まえて周りが見えない彼女と異なり、京太は冷静に横たわるものに手を伸ばして棚と脚立の両方に引っ掛かった棒を取り上げた。軽い彼女の体が後ろへ倒れた。すぐ倒れ込まないように手首を掴むと、足で踏ん張ったエリがニッコリと微笑んだ。狭い空間で頬を紅潮させる少女に彼は胸をドキドキさせて細い腕を放し、後ずさって棒の先がザッと床で弧を描いた。
途端にほこりがブワーッと小さい部屋一杯に舞い上がった。目が開けられない状況に口と鼻を押さえ、二人は奥のカウンターまで避難した。ほこりはカフェの奥の方に流れ込み、時間が経ってもなかなか床に落ちなかった。エリは頭上で大きく手を振り、それが顔の前に迷惑そうな京太は大して長くもない柄を見上げて首をかしげた。白っぽい繊維を束ねた穂先の箒にしか見えない棒を手に考えた。
「んー、超高速で振動する新しい掃除機とか」
「何よそれ。ただのホウキじゃない」
「ええ、これを少し振ったらこうなったんですよ」
「何を言ってんの……アーッ!」
エリは指をあちこちへ、床の所々に白い模様ができていた。カフェ中に目をやり、カウンターに雑巾を見つけて一目散。戻ってきて腕を伸ばし、掴んだ雑巾を見せて目に力を込めた。
「京太、これも拭いてくれるよね!!」
目元まで赤くなったエリの頬へ耳に掛けた髪の毛がはらりと外れる。可愛らしい少女が開けた扉からは積年のホコリが店内に飛び出た。倉庫の奥に残った脚立を見つめ、京太は何となく胸騒ぎを覚えた。