文句一つ言わずにカフェの床を這う京太。散らばるほこりを雑巾で拭きがてら、目地の詰まりが気になってゴシゴシとこすった。彼を見下ろしてエリがカウンター席で脚を組んで踏ん反り返り、放置されていた菓子パンを頬張った。倉庫を拭き終えたモップを立て掛け、フレアスカートの裾をポンポンと蹴って従順な少年へ自分の話に鼻息が荒い。
「べはー、ぴぺぷも…チビ共は全然言うこと聞かないんだー」
「その施設はエリさんより年上の人がいないんですか」
「まあまあ新しい施設だからお兄ちゃんくらい。れもりょひはひたはら…」
「そーですか。あ、それと叔母さんの真似しないでくれませんか」
「べっ、ばんべ」
喋る口からボロボロとパンくずが床にこぼれ、直ちに京太が腕を伸ばしてゴミを回収した。その拍子に胸ポケットの端末はエリが動かすスニーカーの前に転がった。
エリは座ったまま腰を折り曲げて拾い上げ、思ったよりも軽いプラスチックの筐体をまじまじと眺めた。どす黒いカラーリングに見たことのない文字が彫られた携帯端末。横に小さい差し込み口が開く他はスマホと同じでカメラレンズが一つあり、表面は特殊加工を施されたのかまったく傷がなかった。高級感に緊張する彼女が裏返した画面に指を上下させると、大人っぽい女性の姿が表示されて薄笑いを浮かべた。
「小顔ナチュラルか。こーいう女子が好きなんだ」
「あ、いえ。それは半世紀以上も前に現れた舞島巨人です」
「えっ、じゃあ後ろはビルってわけ」
ピントがずれて顔がぼけた画像に唇の赤色が艶めかしい。腰から上のみ映った女性が置いた手の場所で崩れた何かと下に窓らしき透明な枠が見える。エリは「変なの」と首をかしげた。
床を見つめる京太は思い出していた。叔母の家で少女に覚えた違和感と目にした長い黒髪。巨人を見て知らないふりをしたエリは明らかに何かを隠したいのだろうと。今、疑わしい人物を問いただすチャンスが来た。指を丸めてスクッと立ち上がり、カウンター席へ振り返った。
「変じゃないですよ。人間以外の知的生物がいても…」
「そうかなぁ」
ロックを解除できないエリは端末で遊ぶのを諦め、パンの端を口に放って待ち受け画面を京太へかざした。
「ぼべって普通の人が立ってるだけだったりして。特撮とかあるし」
「地球上では普通に見える人の方が怪しいですからね」
「え、この舞島巨人のこと言ってんじゃないの」
「はい、近くにいます」
「ふーん。わたしの近くにいるかな」
「宇宙人の正体はエリさん、あなたです!」
「へぇっ」
宇宙人に間違われて返す言葉が見つからず、ただ目を丸くした。彩香が「変わり者」と言う話で口を濁す昨日のちはるに騙されたとエリが感じたのも束の間。眼光鋭く京太がバッと手のひらを前に差し出し、彼女はちょこんと端末を載せた。手を膝に置いて顔を上げると彼の長話が始まった。
「――で舞島をあちこち回って情報を集めた結果です。ほら、赤くなってるここ。海岸の突き出た岩だけど管制塔だと思います。おそらく、UFOが下りてくる場所ですね。エリさんも本当は胸が大きく…じゃなくて、体が成長した宇宙人の大人で普段は小さい子供に見えるんでしょう」
「ねえ、人間にわかるレベルで話してくれない?」
きりのいいところでエリは口を挟んでお茶を飲んだ。京太は平然と人間アピールする彼女をますます怪しみ、腕組みして髪の長さが変わった出来事の説明を求めた。
「俺、叔母さんちで見たんすよ。エリさんの胸まで伸びる黒髪が短くなったのを」
「肩までしか伸ばしたことないけど。京太、夢でも見たんじゃないの」
「いやいや、夢なんかじゃなくて……」
「そーだ、片付けがまだ終わってないんだったわ」
エリは空になった袋をポンっと叩き、コップを掴んで奥の扉へ早足で向かった。京太の話に興味がある訳でもなく、黙って聞いてやるほど大人でもなかった。ポカンと口を開ける彼を置いて家のキッチンに入って壁際で胸を撫で下した。
流しには朝食と昼食で使われた皿が所狭しと残っていた。彼女はエプロンを腰の後ろでキュッと縛り、水道の蛇口をひねった。洗い桶から取った食器がガチャガチャと音を立てた。施設では食べ終えた食事トレーが洗われず給食センターに回収される。彩香との共同生活に面倒くさい片付けも手際良くこなせるようになった。それでも、洗剤の垂れる透明な筒先で指先を付けたり、離したりと、まだ細長いグラスの底はうまく洗えなかった。
「あははっ、ぜんぜん指が届かないや」
失敗しても上機嫌な理由は京太が自分に協力的だから。施設の子達は嫌な顔をするか、とっとと立ち去るか、またはその両方。わがままを拒絶された反動はいつも兄が受け止めた。だが、今日の彼女は少し違った。こする手を動かしつつ、首を横に向けて後ろを気にかけた。
「京太に悪いことしたかな。でも話が長いんだもん、あくびが出ちゃった。これから外出しなきゃいけないのに…」
逆さにしたグラスを水切りかごに置き、コーヒーカップを代わりに取った。スポンジをくるりと回して内側を得意げに洗い上げる。いい案が浮かんだエリは泡の付くカップを手のひらに載せた。
「そっか、連れてってやろう。どうせ暇なんだろうし」
都合良く決めつけるのは相変わらず、京太を外出に付き合わせることにし、食器を洗うスピードを早めた。片付けを終えてレンジ台の横にエプロンを引っ掛けた。カフェへの扉の取っ手を引いたものの、カウンター席に彼の姿は見えなかった。スリッパのままでカフェに入って音のする倉庫へ首を伸ばした。
「なーにやってんの、こんなとこ入って」
開いた扉の隙間からエリが微笑んだ。京太は脚立に雑巾を掛け、きびすを返して歩いてきた。
「あ、帰ろうと思って片付けてました」
「どーして、黒髪が短くなったとかいう話はもういいの」
「はぁ。よく考えたらあれは夢じゃないかなーと」
京太が頭を掻いて半笑いした。あれだけテンション高く宇宙人やUFOについて語った少年の姿は影も形もなく、エリは不思議そうに突っ立っていた。彼は仕舞った胸ポケットから端末を少しつまみ上げ、数値やグラフが表示される画面を彼女に見せた。
「これ、拡張端末って言います。センサーデバイス搭載で角研のアプリを入れると、超常現象を探知したり、判定できたりするんです。動画配信サイトにこれ使って撮影したUFOが幾つも上がってるんですよ」
「へー、スマホじゃないんだ」
「それでさっき試してみたんですが、未確認生物アプリの判定でエリさんが宇宙人の可能性は低いという結果が出ました」
「そ、そう…」
「という訳で、なしの方向で……」
視線を逸らせた京太は後ろを向いて静かに扉を閉めた。態度を小さくした彼に、エリはビビッときた。背後を通ってカウンターの角に先回りし、両手を広げて進路を塞いだ。
「指紋を登録してあるし、カフェは閉めていくわ」
「もしかして、どこかに行くんですか」
「そうよ、今から出かけるの。あんたはここで座って待ってなさい」
そう言ってエリは近くの椅子をパンパンと叩いた。せっかく見つけた自分の言うことを聞く年下を手放しては面白くない。夏の明るさが入り込むカフェの窓辺で汗がじわっと肌着に滲み、キッと京太を睨んだ。扉の前で当惑する彼の腕を掴んでカウンターに引き寄せた。
「わたし、宇宙人じゃないって言ってないんだからっ」
冗談とも受け取れるフレーズを発してキッチンへ入っていった。全開の入り口からひんやりした空気が流れてくる。残された少年はどうしていいのやら、彼女が叩いた椅子に腰を下ろした。