未紗紀が住む屋敷は西向きで赤いレンガを使って四角い中庭を囲むように建てられ、外観からレンガ屋敷と呼ばれた。玄関は一般住宅の部屋ほどの広さがあり、玄関ホールはその倍くらいの奥行きがある。ホールは左手に北への細い通路が延び、右手にサロン、真っ直ぐ行くと階段の横に広い通路が続いた。完全に閉じた中庭では日光が当たりやすい北側に植物が集中し、囲んだ四方の壁面に数多くの細長い窓が並んだ。未だ日が高く照りつける洋館は西の棟から廊下に赤く敷き詰めた絨毯へ日影が伸びた。
エリは階段の先を道なりに左へ曲がり、せり出した棚が反対側の窓と向き合う細い通路を進んで両開き扉の前にいた。窓から木漏れ日が首筋に射し込み、合わさった隙間を覗いてしゃがみ込んだ彼女はジワリと汗をかいて立つ。開かない扉へ両腕を横に上げて後ろへ足を振り上げた。
「ハイ、そこまで」
こっそりと近寄った京太が手首を掴んだ。長いスカートに脚を広げて屈んだ姿が見えた瞬間から怪しんでいた。エリはスニーカーのつま先で床を叩いた。彼が手を離すと、振り返って腕組みして口を曲げた――年下のくせに、大きな顔をするんじゃないっつうの――見下ろす眼鏡野郎から目を逸らし、人差し指を棚の間にある扉へ伸ばした。
「そこの食堂と調理場を行き来できないと困るでしょ」
「扉を壊れされた方が困ると思いますが」
「ち、違うわよ。これは靴が脱げそうだったの」
「まーた、見え透いた嘘を」
「嘘じゃないもん。この廊下滑るんだから……って、何するのよ」
「俺が助けてあげますよ。扉が開かなくて困ってるんですね」
京太は早口になった少女をさらりとかわし、扉の前で天井の隅をじーっと見上げる。エリも同じように視線を上げた。彼はレバーをぎゅっと握って躊躇なく回し、顔を下げたエリが「あの黒いの何?」と聞く。彼女は開いた扉の先にいる少年を見て驚いた。
「えぇー、なんで開いたのよー」
「あのカメラが執事で登録した俺を画像認証して開いたんです。調理師では無理でしょう」
「あ、ずっる~~い」
つかつかと近寄るエリに、京太は閉じられた短い廊下の脇を指して注意を逸らす。彼女が目を丸くする間に先にある扉を開けて足を踏み入れた。それまでより天井に圧迫感がある細長い廊下は木製の床に左側から日差しが入り込んだ。窓の向こうに小さい扉があり、どん詰まりの壁にトイレと思われる赤と青の人型マーク。そこから左右へ通路が延びる。京太は右側の壁に目を戻していき、ただ一つある横の扉をゆっくりと押した。
広めの部屋は入った所の左に食器棚が並んだ薄暗い場所が壁で仕切られ、奥から電灯が漏れて短いシンク付きの作業台が見えた。誰もいない調理場は前方にメインの調理台が備え付けられ、広めのシンクと作業スペースにコンロが三つ。反対の壁に並ぶ冷蔵庫やオーブンは大型の市販品。レンジは叔母の家で見たものと同じ。窓はなく白い壁紙に囲まれ、中央に長めのテーブルが台代わりに置かれる。家庭的な雰囲気の中、右隅に天井へ繋がる幅の広い機械だけが場違いだった。
後ろの扉がバーンと開いてエリが入ってきた。京太は顎に手を当てて面倒くさそうに首だけ横へ向けた。彼女は思った通り、ありふれた台所に興味を示さない。彼の勝手な行動に怒っていた。
「ちょっとエレベーターよ。何でスルーしてんの」
「まあ、フツーに資産家ですから」
「あっち側の廊下見えるし、あんな大きいやつデパートにしか…」
ガチャッ
今度は左奥で扉が開き、半袖の白衣を着たひょろっとした男が入ってきた。テーブル上を漂ってくるタバコの臭いが京太の顔をゆがめる。アレルギーの彼は鼻を押さえた。男性は入り口で固まる少年を見下ろし、台に腰を乗せた。
「ああ、働きたいっていうの君だ。未紗紀さんのメッセージ見たよ」
「ファッ、ファイ、そーれす」
「俺はここの調理師だ。しかし、手で皿洗いなんて感心だな」
「ふぁい」
「ま、せいぜい頑張ってくれよ。蓋すれば勝手に洗浄モードになんだけど」
調理師は京太の脇にあるシンクを指し、ニヤニヤと横を向いた。しゃがれた声が聞こえたエリは壁から身を乗り出す。頬が京太の腕に当たり、ざらついた感触がして見上げた。苦しそうな表情を目にして無理やり連れてきた責任感がふつふつと湧いた。それと助けてあげれば年上として面目が躍如される。「よーし」と意気込んで彼の前にすっと体を入れ、後ろに両腕をまわして彼の腹に手を付けた。
ドンッと勢い良く京太を押し、彼の体が仕切り壁の後ろへ倒れた。エリはテーブルの方につんのめり、男が視線を向けた。小さい女の子がスカートの前に両手を置いて可愛く一礼する。とっさに調理師は卓上から降りて彼女に不真面目な態度の言い逃れをした。
「困るな~、妹連れだったのか。ここは女人禁制なんだぞ」
「それじゃあ、この屋敷ってメイドとかいないの」
「ああ、あの給仕装置がそれやってんだ」
「ふーん。機械化して人件費削減してるのか」
「お嬢ちゃん、難しい言葉知ってんね。そう、あと運転手と警備員くらいさ」
「たったそれだけという事は…ねえ、執事もいないの」
「そんなの見たことないな。たまに庭師や掃除のおばさんは来るけど」
「でも大きな屋敷だし、管理人がいるんじゃない?」
「まあ、いろいろさ。あ、兄さんに今日はもう終わってるんで明日からと言っといてよ」
子供の相手が面倒くさくなった男は部屋を出ていき、扉が閉じた音が食器棚の前でしゃがむ京太の耳に入る。両手で顔を押さえていた彼は立ち上がり、大きく息を吸い込んだ。何度目かの呼吸をしてようやく落ち着いて調理場を向いたが、そこに騒がしいエリの姿はなく奥の壁で換気扇が回った。京太は自分の方が助けられてしまったと頭をぽりぽりと掻いた。
彼女の跡を追って京太は廊下に出た。エレベーターへの扉は閉じた状態で戻れない。反対方向へ走り、突き当たって左へ体を向けた。廊下は西日が射す窓まで長く真っ直ぐ伸び、右手に壁がない部分の床が白く輝いた。ひんやりした通路で新鮮な温かい空気が背中に触れ、彼は後ろへ振り返った。角を左に折れると狭い通用口。キャップをかぶるエリは開く扉の脇で壁にもたれてたたずんでいた。腕を組んだ彼女が京太にとって大きく見えた。
「もう大丈夫なの、京太」
「ええ、あのまま吸い続けたら倒れるかも知れませんけど」
「敏感なのね。でも良かったわ」
「え、俺のこと心配してくれてるんですか」
「うん。だって、帰る方法を考えてもらわなきゃ」
エリが親指を立てて白い歯を見せ、京太は彼女に従わされることを納得した。ほいほいと端末を片手で操って自宅へ電話をかけ、早番で家に居る祖父に迎えにきてくれるように頼んだ。
レンガ屋敷の北側は車が通れる裏門が設けられ、塀の方に駐車スペースの白線が引かれた。西寄りの『宮町アンティーク家具販売』の看板が立つ玄関と少し隔てて東端に通用口がある。エリと京太は日陰になった階段に腰掛けた。しばらくして門の前に軽トラが現れた。傾いた陽光に照らされたアスファルトを駆け、荷台に並んだ二人は山道で揺られて帰った。