コツコツ、コツコツ、コツコツ
遠くから扉の閉まる音がして硬い靴底が木の段を打ち、日陰の廊下奥を両開き扉へ迫る。少なくとも屋敷の北側と私邸を行き来できる立場の大人がやってきた。京太はエリから宮町家には執事がいないと聞いていた。
「一体、誰だろう。見つかったら怒られるかな」
うろたえた彼は逆へ走った。角を大回りして南の通路は幅が広くなり、階段横のステンドグラスに目もくれず、中庭に沿って延びた反対側の廊下へと急いで曲がった。
ドンッ!
東の廊下へのアーチ下で倒れた京太の脇を小包サイズの機械がかすかなモーター音を残して離れた。壁側のへこんだ場所で腰壁が開き、赤いランプを点した機械は中に入っていった。膝の下をぶつけた彼は叫び声を押し殺し、絨毯に転がってエビのように身をもだえた。
京太は膝の下の痛みが少し治まると、すぐ怒る少女を想って立ち上がった。片脚をかばって奥へ行き、両開き扉を開けてエレベーターで一階へ、屋敷の壁を伝って調理場に戻った。部屋では換気扇が全開で回り、正面に座るエリが水筒をテーブルのコップへ傾けた。彼女の前の座席が足裏で蹴り出されてするすると滑る。止まった椅子に彼が腰掛けて横を向いた。ごくんと飲み干したエリは卓上に腕を組み、聞いてやろうという顔で京太を見つめた。
「どう、部屋でバレエやピアノのレッスンでも受けてた?」
「え、ああ、ピアノは一階にありました。けど、あんなとこで練習はできませんね。玄関を入ってぐるーっと来客用の広間ばかりですよ。二階に行ったけど、こっちも静かでした。未紗紀のらしい部屋は人の姿がなく、隣にミニ図書室があって何かと戦ってる声がしたんです」
「へぇー、通信ゲームブックが趣味なんだろうか」
「それが部屋に彼女は居ないんです。ちょうど誰かが来て廊下で転んじゃいましたよ」
「未紗紀さんは部屋に居たはずだけど…」
話に納得がいかない様子でエリはコップを逆さにして水筒にくっ付けた。テーブルに片手をついて立ち上がり、人差し指を部屋の隅へ向ける。給仕装置は取っ手が上に付いた扉の棚が三段。一番上は横に「未紗紀の部屋 ティーセット」の文字が表示されていた。
「ほらっ、そのパネルに名前があるでしょ。わたしが来た時は緑で点滅してたから、彼女が部屋に居て届けられたんじゃないかしら」
「気づかなかった。じゃ、どうやって出たのかな」
「答えは簡単。図書室には入り口が二つありましたとか」
「あ、そう、そうです。イテテ……」
京太はエリの疑問に適当に答え、椅子の上でズボンの裾を上げて足をさすった。彼女がジロッと目を動かして頭の中でドジな奴と烙印を押した。未紗紀に気づかず戻ったことにあきれ果て、眉をひそめたエリは椅子を立った。ごそごそとリュックに手を入れて畳んだエプロンを仕舞い、荷物を肩に担いでさっさと出口へ向かった。京太も慌てて跡を追い、二人は調理場から廊下に出た。
突き当たりのトイレまで来たところで通用口と反対から男の怒声が聞こえた。エリはすぐに足を止め、強引に京太の肩を押して通路の角に潜んだ。声がした近くでバンッと扉が開き、出てきた髪の薄い中年男性は首を後ろへねじ曲げた。
「昼から待ってたんだぞ。未紗紀の奴はどうしたんだっ」
「私は従業員ですからねー、ハイ」
「君、秘書なんだろ!!」
「まあ、お嬢さんのことまではちょっと」
「フンッ。役に立たんヤツだ」
ダブルスーツの上着を肩に掛け、怒ってわざと足音を立てた。屋敷北側の玄関は男が帰り、後に来たアロハシャツの男性は何も言わず突っ立っていた。だが、帰った男の黒い車が会社の門を跨ぐと肘を伸ばして大きくあくびをした。エリは様子を知るために身を乗り出し、京太の背中に体重をかけた。そのせいで彼がジタバタして床へ振り払われてしまった。
「うわーっ」
「い、痛ーいっ!」
京太はバランスを崩して壁に足をぶつけ、隠れる二人が廊下に崩れ落ちた。エリはすぐさま起き上がり、頭を掻いて男性の方に微笑んだ。すると、緊張した少女へ真っすぐ向かってきた。
「やぁー、未紗紀さんからCC受取ったよ」
「え、あの、その…。わたし、エリって言います」
「私は小畑と言います。どうも、どうも」
「あ、これは京太です」
「おー、サンキュー京太君」
彼女の真横でうずくまった少年へ小畑は調子良く手を上げた。性格はともかく調理師よりも年がいって来客の相手までしている。このざっくばらんな秘書からエリは未紗紀のことを聞き出せるかも知れないと考えた。
「小畑さんは部下が多いんですよね。会社の偉いさんだから」
「お世辞がうまいね~、エリちゃん。でも、残念ながらゼロ。ここ数日は泊まり込んで一人寂しく資料整理してるんだ。そろそろ帰りたいなあ」
「あの、未紗紀さんはどうしてます?」
「そうそう、午前中に居た学習室を見に行ったら居なかったね」
「図書室じゃなくて学習室か…じゃあ、自分の部屋に居たんじゃないですかねぇ」
「いや、そっちも声をかけたんだけど」
「そうすると他の部屋に居たことになるのかな」
「それはないよ、彼女は社長の書斎や部屋に勝手に入らないし。社長も居るには……」
口ごもった彼にエリが興味深そうな顔を見せた。そこで小畑は誤魔化すように手を打ち、得意の講談を始めた。お題は『屋敷の機械化』。身振り手振りを交えて小節をきかせた。
「やあやあ、そこに居るのは給仕ワゴン、掃除機、洗濯かご。毎回、廊下の腰壁から出ては勝手に動き回りやがって。今日こそ成敗してくれる、えいっ。今度はよけられないぞ。あっ、逃げるとは卑怯なり、それに扉を開けて隠れるなど言語道断だ」
こんな芸を見せて誰か喜ぶのだろうか――エリは口を手で押さえてあくびを我慢した。けれど、終わった途端に笑顔と拍手で迎えた。他人に見せてストレスの発散になったのか演者本人が非常に喜んだ。小畑の口はさらに滑らかになり、愛想笑いをする少女の思う壺だった。彼女がさりげなく未紗紀を呼び捨てにした人物を持ち出した。
「そういえば、さっき帰った人ずいぶん怒ってましたね」
「社長の弟さんだよ、最近よく来るのさ。しかし何で会社の方から入って来るんだろう」
「えっ、未紗紀さんの親戚なんですか」
「そ、あの人は先代に替わって宮町建設の社長になって今は会長をやってんの」
「ふーん。弟の方が会社を継いだってわけだ」
「おぅ、社長は屋敷をもらったって噂だね。あ、これナイショよ」
人差し指を立てたついでにウインクした。さすがのエリも不快を覚えて顔を下へ背け、小畑は視線を京太に移した。膝をさする彼を見て真面目な顔に変わった。
「屋敷内は走ると危ないからね。それじゃ、仕事があるから」
彼らに手を振ってふらりと西の廊下へ向かい、角を回ると扉の開く音がした。小畑は期待通りにペラペラと喋り、未紗紀が姿を消したことが正しかったと証明された。エリは疑って悪いという気がした。腰を曲げる京太に手を差し出して腕をギュッと掴んだ。
「さあ、うちに戻りましょ。手当してあげるわ」
「え、打っただけだから…」
「ううん。いいから、行くわよ」
二人は通用口を出て自転車が停まる階段の脇に立った。屋敷の影が東側にある林へ伸び、エリがキャップを目深にかぶった。彼女はノーブレーキで勢い良く山道を下りた。カフェで待つのはコーヒー豆。宮町家の不穏な事情を忘れて頭をリフレッシュした。兄の帽子からはみ出す髪を風で弾ませ、揺れる稲穂の間をペダルに足を置いて走り抜けた。
その頃、ほこりをかぶった未紗紀が二階の階段前を歩いていた。アーチをくぐって角部屋に閉じた扉を一瞥し、隣のバスルームに入って扉をロックする。ピカピカに磨かれた鏡に汚れた後ろ姿をさらけ出した。汗で張り付いたワンピースと下着が肌をこすり、彼女は思わず舌打ちをした。