中学三年のエリは夏休みに彩香と共同生活を送り、彼女の甥・京太を連れて兄の恋人探しに出た。
宮町未紗紀の住むレンガ屋敷へと来た二人。屋敷にはしゃぐエリを京太はサポートするつもりが、逆に調理場で苦しむところを助けられて彼女の作戦に従うことにした。
使用人体験の三日間が始まり、エリは調理場から未紗紀の生活を調べに京太を行かせた。成果なく戻った彼にあきれて帰ろうとすると、屋敷に併設された会社の社長秘書・小畑と出会って宮町家の内情が分かった。
翌日、マイク内蔵機器を載せた自動給仕ワゴンが屋敷内を移動して端末に音声を送信する。エリは病床の父へ未紗紀が震えて話す声を聞き、彼女を助けるナイト役は朋己しかいないと考えた。
山あいに建つ洋館へ風が吹き始めた。悲嘆にくれる令嬢を兄に会わせようとエリが前を向いた。
雲行き怪しい調理場で
中学校の裏山に立った屋敷に東寄りの風が吹き、上空を千切れた雲の集団が流れた。陰に隠れた北側の少し低い屋根は一瞬の暗転にも蓄えられた熱を保つ。先代が建てた洋館は側面に事務的な外来者を迎える玄関と通いの使用人が出入りする通用口が設けられた。屋敷の周囲をアスファルトが敷かれ、正門から野生の林まで濃紺が広がっている。昼間は裏口の門扉が折り畳まれ、いつ来るか分からない来訪者を待ち受けた。
未紗紀の嗚咽が過ぎ去り、部屋に口をポカンと開ける少年と手で押さえる少女が残った。二人の間は調理場から漏れる光のみで薄暗く、お互いの表情がよく見えない。それでも、食器棚と仕切り壁に挟まれた細長い空間で、点滅するディスプレイの両側は明らかな温度差があった。
ガチャッ
奥の壁で扉が開く音がしてエリは手を伸ばす。手のひらで京太の顔を押さえ、「すぐ切って」と自分の口元に人差し指を立てた。フッと光が傍らから消え入った。彼女は仕切り壁の端に近寄り、横髪を耳に掛け直すと両手を枠に添えて様子をうかがった。換気扇が回った調理場でぷんぷんとタバコ臭を撒き散らす男。やはり調理師だった。彼はテーブル上にあるリュックを見て食器が漬けられたシンクへ目をやった。
「嬢ちゃん、トイレでも言ってんのか」
二人がいる壁の裏で音を立て始めた彼は特に不審がることもなかった。隅に置かれた冷蔵庫から何かを取り出し、エリたちへ近づく。彼女は翻って背中を壁に付けた。調理師は四角い紙の包装をレンジへ放り入れ、足音を残して部屋を出ていった。
エリは調理場に飛び出て棚の中段に納まる白いレンジの窓を覗き、開けて箱を両手でゆっくりと手前に引き出した。鼻を押さえた京太ものろのろと現れてパッケージを見下ろす。
「らぶるかいとーひょくひんでふねー」
「そんなに臭ってないわ、ここ」
「ふぇ、ああ、本格フレンチシリーズです。ソースが濃厚で美味しいし、俺も好きだなあ。うちのばあちゃんは知り合いの業者に卸し先が値下げしないか時々聞いてますよ」
「ふーん。お屋敷のご令嬢も立派なグルメね」
箱を元に戻してエリは皮肉交じりにつぶやいた。宮町家への失望も含まれた。未紗紀は中学一年だから味が分からないんだと頭に納得させ、エプロンを着けながら朋己を屋敷へ呼ぶための理由を考える。シンクの中から皿を取り上げ、顔の前で丁寧にスポンジを添わせた。背後で京太が悪臭をかき分けるように手を振った。
「いやぁ、未紗紀の家庭は大変なことになってますね」
「そうかしら、ドラマではよくあるわ」
「テレビと同じにしちゃかわいそうですよ、彼女泣いてたし」
「じゃ、存分に泣いたら気でも晴れるんじゃない」
エリは振り返らず肩をすくめた。施設に新しく来た子がそうであり、いずれは慣れる。自分の場合は兄にくっ付いていられたから、集団内での孤独を紛らわせることができた。その結果、彼女は他の子よりも恵まれていると自負を持っていた。当然、そういう目で未紗紀を見ていた。
らしくない見下すような態度に京太が憤りを表し、彼はエリの背中へずけずけと言い放った。
「エリさんひどいですよ、未紗紀に同情してないんすか」
「そうじゃない……。親なんか、死んじゃうんだから。早いか遅いかよ」
抑え気味の怒りがポチャンと落ちる音で小さく聞こえた。未紗紀との違いは兄がいるかいないかであり、同情しない訳はなかった。ただし、それは少女にとって大切な事柄だった。京太は固まった後ろ姿を眺め、嘘は言ってないのだろうと溜飲を下げた。沈んだ食器を前に、エリがぶかぶかのシャツで長く垂れる袖をまくり上げた。彼も気持ちを入れ替え、スポンジがないかと調理台を見回した。黙々と皿の汚れを取る彼女はぽつりと口を開いた。
「京太、明日は裏門辺りの掃除がしたいんだ」
「はい?」
「調理師や小畑さんがメッセージを受け取ってたけど、未紗紀さんへも送れるのよね」
「あ、ローカルサービスですか」
京太が端末を出してエリの要望通りの文章を作った。屋敷のネットワークで執事が送れる宛先のリストから選択して未紗紀へメッセージを送ると、「OK!」と書かれた返信がすぐに来た。
昨日よりも少なかった食器の山を洗い終えたエリは水を流して蓋を閉め、台の横に並ぶボタンを押して水気を飛ばす。作業が終わって休憩なしに帰り支度を始めた。それぞれ荷物を持ち、二人は屋敷を出て大して会話もせずに帰宅した。
桂木家に着いてエリは自転車を庭木に立て掛けてカフェに入った。キッチンへの扉を開けっ放しにし、スリッパを履かずリビングへ小さくスキップした。端に来て棚の上で受話器を取り、パネルに登録済みの番号を探して朋己の名前に微笑んだ。押して壁にもたれた彼女。画面に彼の顔が映ると正面にまわって声を張った。
「ねえ、明日ちょっと来て欲しい所があるんだけど」
「ダメだよ。天文部の打ち合わせがあるんだ」
「えぇ~、そんなの聞いてないよ。今週は暇なんでしょ」
「だから実習がないだけだってば――」
朋己の話はそれまでした話の反復で頑固な兄は首を縦に振らない。都合の悪いところを聞かないエリは怒り出した。
「もう知らない!!」
通話を切って受話器を側に放り、ソファーへ飛び込んだ。舞島学園の寮は目と鼻の先だが、この家に兄は一度来ただけ。兄が施設を出てからほとんど会えなかった。とても未紗紀より自分が幸せだとは言えなかった。リモコンをテレビへ向け、画面にバットを振る高校生が映し出された。しばらくして不貞腐れた彼女はうたた寝をして床に腕を垂らした。
「お兄ちゃんのバカバカバカ……」
エリが目を覚ました時には窓の外が薄暗くなっていた。カーテンを閉めて壁のスイッチでリビングに明かりを点けた。重い体に寝汗のベトつきを感じ、おのずとシャワーへ向かった。