仕事から帰った彩香は戸を引いてリビングに入った。電気が点くダイニングに一人でエリが夕食をとっていた。献立は叔母・ちはるが作り置きした昨日のカレー。テーブル上に自分の皿が並ぶのが見え、上着の袖を引っ張りながら近寄った。
「ありがとう。私の分も用意してくれたのね」
隣の椅子に脱いだ上着を掛けても返事はなかった。エリの横顔は目つきが鋭く、皿に音を立ててスプーンを動かす。彩香は鎌をかけつつ多感な年頃の彼女をからかった。
「あれー、怒ってるの。京太くんとケンカでもしたのかな」
反応はなく、彼女はパクパク、パクパクと黙って食べた。彩香は何かあったのだと推測したが、これ以上は踏み込まないことにした。今朝、確かエリはオーバーオールだった。Tシャツとハーフパンツに着替えた姿を見て話題を変えた。
「服大きかったでしょ。でも、エリちゃんに合うサイズだと実家で探してこなきゃ」
「……いいよ」
「え、なになに?」
「ねーさま、全然カフェの手伝いしてくれないしっ!!」
「あっ、あれ、ちょっと…」
彩香はいきなり自分に不満をぶつけられて驚いた。エリが立ち上がって脇を通り、皿とスプーンを持って流し台へ向かう。水を勢い良く流して洗い出した。それらが水切りかごに入れられた後は台の左右に飛び散った水滴や放り投げられたスポンジが残った。
対面キッチンを呆然と眺め、側の扉から彼女が出ていって彩香は口を閉じた。少女の無作法な振る舞いを叱るべきだろうかと迷った。よその子に対する遠慮がその場で動けなくさせていた。
ピィン、ピィン、ピィーン、ピィーー
聞き慣れた着信音が彩香を困惑から引き戻し、ブラウスの胸元をつまむと室内の涼しさが肌に染み渡った。彩香は上着のポケットからスマホを取り出し、『M』のキャップを模したスタンプを押して耳に当て、エリが仕舞わず去った椅子にゆっくりと腰を落ち着けた。タイミング良く電話をかけてきた彼とは話題がすぐ彼女のことになり、食事を忘れて会話を弾ませた。
「ええ、最近は甥の京太と自転車で遊びに行ってるわ」
とっくに朝が過ぎてリビングは午前中。よれたパジャマを着たエリがソファーの背もたれに手をついて指で目をこする。彩香はもう仕事に行ってしまった。テーブルを囲むダイニングの椅子は仕舞われ、昨日までと違ってキッチンの洗い桶が空になっていた。彼女は八つ当たりした夜の出来事に後ろめたさを感じて顔を背けた。窓の外を見ると久しぶりに曇り。時計の針が動く壁を見上げ、差し迫った午後に焦って体を廊下へ反転させた。
部屋に戻ってエリはキュロットを履き、袖だけ朱色のTシャツから首を出した。動ける恰好をして荷物を持って外へ出た。ヘルメットの顎紐を垂らした彼女が栄養スティックをくわえ、足をペダルに掛けて白い靴下を目一杯伸ばす。電気自転車は飛ぶように住宅街を走り抜けた。
後ろに京太を従えて未紗紀が住むレンガ屋敷の裏門にたどり着き、エリは自転車を通用口付近に停めた。荷台に括り付けられた長い棒を下ろし、それを掴んで駐車場の方へ行った。塀際で植わる高木に棒の穂先を下にして立て掛け、たすき掛けしたポーチの紐をきつくした。とぼとぼとやってきた京太は彼女が再び掴んだ手元へ人差し指を向けた。
「エリさん、その箒は倉庫にあったやつですよね」
「そうよ。使用人体験なんだから、ちゃんと掃除しなきゃ」
「危なくないんですか、それ」
「は、何言ってんの。どう見ても外用でしょ」
エリが地面に落ちる葉っぱを軽く掃いてみせた。突風が吹き上げ、彼女の髪は顔を覆う。瞬く間に細切れが数メートル先へ飛ばされた。さっと前髪をかき分け、片手をかざして空を見上げた。
「ふぅ~。今日はすっごく風が強いわ」
「イヤイヤイヤ、塵になったじゃないですか。って、こっちに振らないで下さい」
「ふふ、まったく心配性ね。それより、このメッセージ出してよ」
一晩寝たエリは機嫌が直り、京太にいつもの自信を見せた。背中のポーチからノート大のプラスチックが差し出される。見た目通り軽くて安っぽい学習用タブレットだった。受け取った彼が開いた右半分は文字がびっしり詰まっていた。
「黒田京太です。現在、レンガ屋敷の北側の門にいます。エリさんが襲われて……」
京太は自分が名乗り出て始まる文章に嫌な予感がした。途中を端折って最後の方を読んだ。
「――早く彼女を助けに来て下さい。あの、これ何です?」
「お兄ちゃんへ送ってここに来てもらうの」
「え、でも、まるで俺が書いたみたいじゃないですか」
「そうよ、わたしが差出人だって分かったらイタズラかもって怪しむでしょ。だけど、見ず知らずの第三者が送ったのなら信じてくれるわ。京太が偶然居合わせたように書いてるし」
「へー、そっか。なるほどな」
寝過ぎの目を腫らして力説するエリに、一度は納得したが京太は朋己へ送るメッセージの効果を疑った。そもそも、誰とも知れない人を信用するのだろうかと。端末表面をシャツの裾に擦り付けて綺麗に拭いて彼女へ顔を向けた。
「こっちの門に来てからどうするんですか」
「正面の玄関に行ってもらうわ。ノートにちゃんと書いてあるでしょ」
「けど認証してないと玄関の扉を開けられませんが」
「そのために外にいるんじゃない。お兄ちゃんがそこの角に来たら、私達が屋敷の中に入って開ければいいの」
朋己を待ち遠しそうにエリが門から外へ体を傾ける。京太は書かれていない未紗紀を兄の恋人にする段取りを尋ねた。
「じゃあ、未紗紀をお兄さんと会わせようってことなんですよね」
「うん。玄関で未紗紀さんを紹介するの」
「それで作戦がうまくいきますか」
「そりゃあ、うまくいくに決まってるわ。今、彼女は父親の代わりに誰かを頼りたいの。で、お兄ちゃんはしっかりした高校生。アドバイスして叔父の件は弁護士に解決させる。まあ、少し時間がかかるけど、相談してるうちに自然に惚れるはずよ」
エリは向こう側の門柱へ跳ね、植え込みを囲むブロックに乗って両腕を伸ばした。時折、彼女は体がふらついた。レンガ塀にもたれた京太はエリの行動から目が離せず、様子をうかがいつつタッチパネルに指を滑らせた。
学習用タブレットは教育委員会認定の機器以外とは通信できない。京太はエリが書いたメッセージを自分のスマホに写し終え、朋己の宛先を登録するために送信マップを開いた。
「ま、住所は後で変えればいいか…」
とりあえず入力した宛先をマップ上の桂木家に登録し、メッセージを人差し指で押さえて画面のそこへ移動させた。これで送信完了して「ピロリーン」と音が鳴った。やれやれと顔を上げると、エリが小石の多いアスファルトの上で危険な箒を振り回す。京太は端末をポケットに突っ込んで止めに駆け寄った。耳の近くを強風が吹き抜け、聞き慣れた既読音はすっかりかき消された。