ねーさま、ヨロシク!-桂木エリふたたび-   作:北河まき

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桂木家の長女

 鳴沢駅から地下鉄で6分。地上へ出ると繁華街から離れた閑静なエリアにオフィスビルが建ち並ぶ。さらに歩くこと10分。古びた九階建てビルの三階ワンフロア半分を芸能事務所・桂木プロダクションが占める。事務所の島式デスクでは彩香がパソコンの画面に向かって両肘をつき、出がけにエリとの朝食をとらなかった些細な出来事を気にした。

 

「あー、やっぱ起こすべきだったのかな~」

 

 甥と遊びに行く中学生の少女と暮らして二週間ほど経った。それは彩香に一定の充足感を与え、独り身の人生にも期待を持たせた。といって、仕事に良い影響がある訳でもなく、社長までが外出した社内に一人残り、大して電話が鳴らないのをいいことにサボりに余念がなかった。

 

「う~ん、子どもの世話より結婚がねぇ。でもその前に相手を見つけないと」

 

 厚い面を両手に挟んでへらへらとする時間は割と早く過ぎていく、本人が気づかないうちに。

 

カツカツカツカツ……バンッ

 

 LEDが床を白く照らす窓がないビルの廊下、くすんだ縦書きの看板横でドアが開いた。紫色のジャケットを羽織った女性は形ばかりの受付を通り過ぎた。目の下にできた小ジワが間仕切りの先へ向き、並んだ机上で妄想にふける姪に唇を震わせた。彼女は黒田千夏。創業した母が相談役に退いた六年前、この小さな芸能事務所の代表取締役に就いた。

 その昔、活発な髪の短い女の子は舞島市で年少の子達を連れて駆けまわった。彼女は中学生の頃に鳴沢市へ引っ越し、彩香の母と出会ってずっと妹分として可愛がった。やがて本当に義理の姉として助け合う間柄となり、悩みの種だった下の娘を二つ返事で会社に雇い入れた。

 ファンデーションから透けるそばかすと目元に母親の面影がある彩香だが、他人の席までパンの袋やペットボトルが散乱する様子は紛れもなく自分の姪だった。千夏は銀メッシュを入れた前髪を掻き上げ、静かに後ろを通過して奥の社長室へ向かった。ガラス張りの壁で区切られた社長室は端にレバーの付いた窓から外の光がもたらされる。扉を閉めて脇のスイッチを押してシェードをすべて下ろし、窓際のノートパソコンが置かれた机に来て上着を脱いだ。ノースリーブのシャツに上下真っ黒。椅子の背に上着を掛け、くるりと体を回転させてドスンと腰を落とした。

 並んだキャビネットの横で空気清浄機に大きなバッテンの裏紙がテープで貼られていた。千夏は机に片肘をついて舌打ちをした。あれを直さないと一服できない。四十年も前のアイドル時代、好奇心で喫煙に手を染めた。けれども今は業界でも吸う人は数少なく、社内ではお堅い専務が目を光らせる。彼女はおもむろに体を伸ばして閉じた入り口へ目を這わせ、さっと椅子の向きを変えて後ろのレバーに手を掛けた。

 すでに手の中にはライターと一本の紙に巻かれたものが収められた。少ししか開かない窓の隙間から火の点いたタバコが出され、白い筋は外へ上ってゆく。彼女も落ち着いて煙を吐いた。

 

バーン!

 

「社長っ!!」

「うわーーっ。こ、これは、あれは、それは…」

 

 指に挟んだタバコを落として後ろへ振り返った。だが、Vになった間から窮屈そうな上着の女性が目に入り、胸を撫で下ろした。部屋の中央で彩香が何か言いたげに固まっていた。彼女は真面目に仕事をしているか疑わしく、たとえ姪でも今は部下と、千夏はキリッとした声で問いただした。

 

「報告よ、報告。山河原崎せーじファンクラブ通信のコンテントはできたんでしょうね」

「うっ……」

「な、泣くこたーないだろっ。怒っちゃいないしさ」

 

 目に涙を溜めた大の大人に色めいて腰を浮かせた。彼女の母・志穂に対し、ひとかどの社会人にしてみせると大見得を切ってある。緊張感が薄れた社長室で彩香がスマホを差し出した。

 

「このメッセージ、見て下さい」

「なんだぁ、岡田の嫌味か。そんなの気にしなくていいって」

 

 机に乗り出して5インチの画面へ目を細めたが、千夏は老眼で見えなかった。卓上の大型電卓を取って裏返し、背面のディスプレイを点けて小さい文字へ近づけた。同じメーカー製の社員に配布したスマホと簡単にメッセージ交換ができた。再度腰掛けた彼女は手を離して焦点を合わせ、文面に目を通す。レンガ屋敷の位置情報付きで京太から送られたものだった。

 メッセージは強盗集団が現れて女の子が襲われているから助けに来てくれとの事。警察に出すならまだしも、到底信じられない内容だ。京太は妹・ちはるとウマが合って桂木家によく遊びに行くし、彩香への悪ふざけなのだろうと思った。屋敷には数年前に妻を亡くした資産家がみちほと同い年の娘を連れて戻ってきたと千夏の耳にも入っていた。家で酔っ払って聞いた話はどこかへ行き、夏休みに彼が校舎から見える建物に興味を持ち、年下の子と仲良くなるというストーリーが出来上がった。彼女は読み終えてポンっと電卓を置いて後ろへ体を倒した。

 

「ったく、京太のイタズラね。それでレンガ屋敷の子がエリなの?」

「バス停で…カフェで…兄のことを想う少女で…」

「でも、京太が女の子となんて嘘みたいでしょ。あいつ意外と面倒見がいいのよ」

「あの子……何するか分からないし……」

「そうそう、変な物もらって家で喜んでるわ。京太は外面を気にするから使わないだろうけど」

「私、どうしたらいいのかな…」

「あー、もうっ」

 

 千夏は動揺した言葉の意味を掴めずに苛立った。もっとも、昔から顔の真ん中に寄ってまごつく瞳に弱かった。ガラッと引き出しを開け、指をなめて職業別電話帳を引いた。ページに挟んであるICチケットを前へ放り投げた。

 

「タクシーを使っていいわ。もちろん、鳴沢駅までよ」

 

 両手で受け取った彩香は首をコクリとして部屋を飛び出した。千夏は座り直して後ろの床へ手を伸ばす。預かって二年余り。仕事の失敗にも見せない取り乱した表情を思い返し、拾ったタバコをくゆらせた。

 捨て置かれた上着の内ポケットに手を突っ込んで携帯灰皿を出して口を開けた。しかし、虚しくも固まりは机に落ち、崩れて広がる。それはいつもの前触れであり、決まって彼女の周りで何かが起こった。千夏は再び電話帳をめくった。巷で評判の補正アプリを起動し、通話カメラの前で顔の両端を引っ張り、旅行会社のカレンダーを背景に不気味なスマイルを繰り広げた。

 

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