屋敷玄関からホールを抜けた階段前の廊下は開口部が少なく曇り空の光が弱い。シャンデリアに照らされた京太は赤い絨毯に尻をついてわなわなと震えた。
彼の異変に気づいたエリは警戒した。何も見えない空中へ向けて穂先を水平にゆーっくりと箒を動かす。引っ掛かりはなく、また彼へ目を向けた。顔の方向、二階から下りてきた手すりの下に壁が広がり、いつの間にか壁に絵が掛けられ、怪しいと睨んだ彼女はその前に立った。
エリは瞼を閉じて見えない敵に耳を澄ました。そして、息遣いがする階段下の腰壁を蹴った。
ゴトッ、バッターーン
木の模様がずれて手前に倒れ、階段下に設けられた部屋から廊下に明かるさが届いた。窓が付いた狭い空間に未紗紀は座っていた。白い壁の下に両膝と床へ伸びる短い靴下が覗き、奥の少女は立ち上がった。折り目が付く紺のスカートとふくらはぎの横っ面が晒されても、エリは壁の向こうをすぐに覗こうとはせず、指先でヘルメットを回して挑発的な態度をとった。
「お嬢様ったら、中学生になってもかくれんぼが趣味なんだぁ」
その物言いで京太の前に白さがモクモクと天井まで広がった。階段すら見えなくなった状況で彼は泡を食って力なく手足を動かした。突如として口を塞がれ、緊張がピークに達すると目に溜めた涙に黒い線が揺れた。直後に「しっ」と声がして京太は我に返った。エリが箒を持つ左手で人差し指を立て、右手は京太の口を押さえる。彼女は片膝を立ててしゃがみ、彼だけに見える霞がかった先へ顔を向けてじっと見つめた。
急に廊下が静まり返り、未紗紀は不安を胸に腰を屈めて狭い入り口から這い出た。姿を目にしたエリは立ち上がって鼻を鳴らす。顔を赤らめた少女は重たい口を開いた。
「そうよ、隠れなきゃ。お父様が死んだら、あいつから狙われる……」
「警戒して叔父さんに会わなかったの」
「ええ、アカウントも消してやった。お父様にも近づけさせない。セキュリティシステムの管理を勉強して屋敷に入れないようにした。入ったら十秒以内に出ないと警報が鳴って警察を呼ぶ設定にしたんだから」
「ふーん。身内なのに信用してないんだ」
「当然だわ、彼はお父様の遺産を欲しがっているのよ!」
心の奥に溜まった叔父への強い憎しみが吐き出された。彼女が襟元のフリルからバーッと右手を広げ、途端に京太は首をすくめた。未紗紀の体から発する白い気体が憎悪感情を拡散させるように見えた。それとは逆に、まだ物足りないと考えたエリはヘルメットで下から上へ煽って意地の悪い顔をした。
「けど叔父さんが何かしたってわけ?」
「……あいつは自分が社長の座に就くために宮町建設から父を追い出したの」
「それで会長になったんなら、お金持ってんじゃない」
「ふふっ、笑っちゃう。今や叔父の会社は倒産寸前。だからだから…」
下を向いた未紗紀は肩を震わせて今にも泣きだすかの様子だった。待ってましたと、エリはほくそ笑んだ。ゆっくりと側に近寄ってそっと彼女の肩に手を掛け、大きい瞳が捉えた悲しげな表情へ口調を一変させて優しく切り出した。
「でも、あなたを守ってくれる人がいるわ」
「うぇっ。ほんとに誰が、わたしを守って…くれると言うの」
「それはすぐに分かるから、ねっ」
エリは首を傾けてニッコリと笑い、未紗紀の潤んだ目には少しずつ輝きが戻った。これで屋敷に来た朋己に彼女が頼るための下準備が完了した。
バァーン!!
屋敷の正面玄関が勢い良く開く音。エリはメッセージを読んだ朋己が到着したと確信し、未紗紀の背中に手をまわして「行きましょう」と連れ出した。不思議と階段前を厚く覆っていた白いモヤモヤが晴れ、京太は立ち上がって彼女たちの跡を追った。
ホールに来た二人へ扉が両方開いたドアからヒューッと風が吹いた。玄関に十人前後の黒いスーツを着た男性がたむろし、ホールにダブルスーツの男が一人だけ立った。サロンの入り口横でエリが頬を押さえた。
「えぇー、お兄ちゃんじゃな~~い」
「なぜ叔父様が…」
未紗紀はたじろいだ。彼らが屋敷の正面玄関に入れた上、叔父がホールに上がっても設定したアラームは鳴らなかった。呆気に取られるエリの背後に彼女が隠れるようにまわった。すると、玄関に控える男の一人が数段をひょいっと上がり、手に持つメカニカルスイッチのキーボードを掲げて威張った。
「どうだ、管理トークンを全部付けたアカウントを作ってやったぜ。システムを再起動したから、もう屋敷は会長のモノって訳だ」
「あ、あいつはタバコ臭い調理師ですよ」
京太がホールに来てエリの横で止まり、前に立つ痩せた男の顔へ指差した。調理師と分かって未紗紀は悔しそうに親指の爪を噛んだ。万全だったはずのセキュリティは屋敷の使用人によってハッキングされ、侵入させてはいけない叔父に入り込まれた。
勝ち誇った叔父が余裕の笑みを浮かべた。スーツに二列並んだボタンを外し、内側から折り畳まれた紙を出して広げた。
「この相続放棄の書類に名前を書いてもらおうか」
「だ、誰がそんなことしますか」
「うぉら、こっちは手ぶらで来てるわけじゃないんだぞ」
叔父は歯向かった未紗紀へ素の顔を見せて凄んだ。後ろの玄関では男達が手にした得物を構えたり、振ったりして威嚇した。窮地に追い込まれた彼女はエリの言葉を信じ、思いきって前の背中にしがみついた。
それまで呆然としていたエリは体が揺れて初めて攻撃的な集団に目をやり、ようやく自分が最前列に立って危険が迫る事態を把握した。逃げ道を探って首を右へ左へ。けれど、後ろで懸命に押す未紗紀の小さい手が少女の思い出を呼び覚ました。怖い人を見れば兄の背中に隠れた過去。朋己に「エリが彼女を守ってあげる番だ」と言われたような気がし、前を向いて強い風を巻き起こす箒の柄を固く握った。
エリはくるっと振り返り、右手からヘルメットを彼女の頭に載っけた。一歩下がって男達へ背を向けて穂の付け根を掴んだ左手を高く上げた。彼らは一斉に笑った。
「あーっはっはっは。なんのマネだそりゃ」
「それは……こうよっ!!」
右膝を高く上げて左腕を後ろに引いた。右足を斜めにタンと出して手を横からグイーっと回し、大きく前傾した姿勢からサロンの暖炉へストレートが投げられた。京太は慌てて両腕で顔を覆って目をつぶる。エリは未紗紀の肩を抱いて壁へ向き、一緒にしゃがんで頭を下げた。
暖炉に突っ込んだ箒の先端は灰を斜めへ吹き飛ばし、玄関の男性達に向かって強烈なシャワーを浴びせた。咳き込んだ後ろの連中と違い、前の二人は顔や喉を押さえて床に転がった。
「逃げるわよ。ついてきて!」
エリはホールに舞う大量の灰に腕を振り、未紗紀の手を握って薄く明るいサロンの入り口へ飛び込む。整然と置かれた椅子やテーブルを器用にくねくねと避けながら窓際にたどり着き、ガラス扉の一枚を開けてテラスに出た。追ってきた京太は窓に手を掛け、段差を下りた先に広がる庭へ叫んだ。
「エリさん、どこ行くんですかー」
彼の声は奥にある林へ吸収され、かわりに遠くからサイレンの音が聞こえた。エリは階段の途中で芝生へジャンプし、両膝を揃えて見事に着地。未紗紀は足を引っ掛けて前へこけた。
屋敷の門は緊急車両の通行のために自動で開き、三人は入ってくるパトカーへ顔を向けた。赤い回転灯の波が建物の正面に向かい、エリも玄関へ走った。庭に下りた京太の横でヘルメットがずり落ちた。ふらりと未紗紀が立ち上がり、屋敷の角に生えた高い木に向かって歩き出した。彼女は体が隠れるほどの幹に手をつき、警官の姿を見て膝が内側に曲がってへたり込んだ。
未紗紀は父の容態を気にしつつも、叔父に対する一切の憂いが消えた。安堵した彼女からは白く泡のように蒸気が天へ向かって立ち昇っていく。京太は目の当たりにして身を震わせた。黒く曇った上空高く、一つの影が人知れずヒュッと飛び去った。