「えー、まだ施設に帰りたくないよ」
「実習は遊びじゃないんだ。分かるだろ、エリ」
「うん…」
渋々頷いてエリは手を振る兄へやる気なく手を上げ、彼が来た道を戻る姿に肩を落とした。病院前のバス停に彼女は一人残され、リュックが海を望む丘へ遠ざかっていくのを見つめた。行くはずだった喫茶店を諦めきれずに唇を尖らせた。信号待ちをしている時に兄が突然方向を変えても疑わずに付いてきた自分に嫌気が差した。
運行状況で変わる案内板の電子時刻表へ体を向け、施設への路線を調べると次のバスが来るまで二時間近くある。ため息をついて顔を上げた道路向こうにクリーム色の病棟を歩く人影。暇を持て余す入院患者を想って疎ましくなり、エリは背を向けて後ろへ手をまわして案内板にもたれた。
「アッツーー!!」
エリが金属部分に触れて飛び退いた。熱くなった鉄板と赤くなった手のひらを交互に見比べ、再度ため息をついた。
バスを待つエリは屋根もなくベンチもなく仕方なくその場にしゃがんだ。スカートの広がりを片手で押さえ、しかめっ面で反対の手をアスファルトへ近づける。表面の空気から熱が伝わるや否や腕を後ろへ引っ込め、バス停の土台に手が当たって熱くもないのに跳ね退いた。白い指に息をフーフーし、くるりと回ってツンツン。手前や奥を何度も確かめた。そろそろとコンクリートの端へ寄り、鉄板の位置を気にかけながら腰掛けた。
兄は交差点の手前まで引き返してバス停へ振り返った。この先、新舞島駅の通りを横切る道路は海岸へ下っていき、もうエリをしばらくは見守れない。否応なく置いてきた妹が時刻表に顔を近づけるのを目にして一安心し、後ろ髪を引かれる思いで彼が振り返った直後、角のビル陰からのっそりと人が現れた。
止まれずにドンとぶつかり、足がふらついて尻もちをついた。顔を上げた彼は雲一つない青空から手が伸びてくる先に屈む女性と目を合わせた。
「あのー、大丈夫ですか」
彼を見つめる小さい瞳の下にはそばかすが目立った。センターで分けた髪が左右に流れ、後ろで結った残りを耳の前に垂らして顔の大きさが隠されていた。午後の日差しにたっぷり汗をかいた女性は桂木彩香だった。心配した彼女は倒れた少年の顔を覗き込んだ。
「頭、打っちゃったの」
「…………」
彼は脳の奥底に精神が引き込まれたかのように口を開ける。だが、振った手に視界を遮られると瞳に反応があり、指に合わせて黒目が左右に動いた。彩香に「大丈夫、ほら」と片腕を支えられて一緒に立ち上がり、パンパンとお尻を払われて意識が戻りかけた。突き合わせた顔のポツポツへ、どこからともなく声を絞り出した。
「…バカ……ヘ………マ………」
「えっ、何て言ったの」
「………ト……シ………ネ」
「は?」
「その、ぜんぜ…前…見て…ません…した」
「そんなこといいから病院行った方がいいんじゃない」
「す、すいませ…」
朦朧とした少年が申し訳なさそうに頭を下げて後頭部を掻いた。彩香は脳震とうを起こしたのかと通りの向こうに掲げられた『舞島市民病院』の看板を指差したが、横をすーっと通り過ぎる彼に合わせて体を反転させた。
彩香は拍子抜けして横断歩道に彼を見送り、背負うリュックが点滅した信号の下へ遠くなった。
「かわいい顔してさ。あの子も舞高だけど一年生なのかな……ん?」
後ろ姿から歩道で前を歩いていた兄だと気づき、隣に居るはずの妹を思い出した。彼が来た方向へ首を振り、目に入った案内板の側に彼女が一人でいた。
妹の待つバスは山深い舞島市北部へ向い、兄の向かう海岸の先には彼が通っているであろう『舞島学園』がある。また会った兄と妹は別々の行動をとった。路上付近に座る彼女は体を前に傾けて両腕で太腿を抱え、一緒に行けないからか寂しそうにして元気がなかった。
汗の浮く額にポーチから出したハンカチを押し当てた。少女を元気づけようと考え、体裁を整えた彩香はバス停へと足を向けた。