「夏風邪はこじらすと厄介ね。それじゃ、お大事に」
受話器を置いた彩香は振り返り、ソファーに並ぶ兄妹へ首を振った。ヨレてないモスグリーンのTシャツを着て新しい水着も用意した。ちはるの提案した海水浴に行く日。出かける間際に姉からかかってきた電話で甥の不参加が伝えられた。
「京太って、ぜんぜん体力ないのよ」
病気と知った妹が肩をすくめ、遊び友達との仲良さげな話しぶりに朋己は目を細める。少ない夏休みが始まってすぐ彼女から連絡を受けた。天文部の合宿前に買い出しする予定が、彩香と海に行くと聞いて顔を出した。彼は一度好きになったものに対してこだわる性格であり、慌ただしく必要な物をリュックに詰めて駆けつけた。
朋己の参加は別の効果をもたらし、彩香は有り難く思った。彼が来ることが分かってエリとの張り詰めた関係が一気に沈静化した。ちょうど天気も曇りが続いて過ごしやすく、ただ砂の上で子供たちを見ていれば良いイベントに心が軽かった。
バンッ
玄関を開けたラフなジーンズ姿。ちはるが自動車の暗号チップに付けた紐を振り回した。
「何やってんの、もう行くわよ~」
「はーい」
エリが肩にバッグを引っ下げ、朋己もリュックを背負って後ろを付いてリビングを出た。玄関で妹は真新しいビーチサンダルの鼻緒に足を引っ掛けた。彼が買ってあげたものでなく、見たこともなかった。ピンクの細い裾から出たくるぶしに目をやり、兄は吐息をついた。
最後に来た彩香はむくんだ足をサンダルに突っ込み、カーゴカプリのほこりを払った。ポーチに出て手提げ鞄にスマホを押し込む。家を施錠した音をくぐもらせてコンクリートの段々を下りた。
カーポートでエリは兄へ手を振った。車に乗って後部シートの前を中腰で奥へ歩き、横を空けるため荷物を抱いて腰掛けた。開いたドアの外で話し声がしてバックドアが上がり、彩香のガハハという笑いとスペースに物を置く音がした。手ぶらの朋己を見てエリが「そっか」とバッグを両手で頭の後ろへ放り投げた。
彩香が助手席に乗り、光沢あるブルーのボディが跳ね上がった門扉をくぐった。左右からの飛び出しに目を光らせ、ちはるはハンドルを右へ切った。ラゲッジの隅で小さい箱が滑り、二人の間にあるシフトレバーを倒すと車は静かに走り出した。
「今度のやつもミッションなんですね、ちはるさん」
「ざんねん、ATよ。指で押すよりレバーの方が慣れているから特注したの」
「じゃ、後ろのリフトもオプションですか」
「ええ。まあ……」
前の二人が少し話をする間に、緩やかな坂を上り切って道は平らになり、徐々に斜度が増す下りが待っていた。ちはるの視線はEV側のランプが点灯したパネルへ向けられ、アクセルペダル上でつま先から力が抜かれた。海に突き出した島を見下ろした景色へまばたきを数回した。
「五位堂のオーナーを乗せることもあるし」
「マダムも車いすでしたっけ。年齢の割に元気だから無理を言って大変ですねー」
「そうね。確か、母さんよりもいくつか年上だわ」
「でもサーキットの半分以上が五位堂家の土地なんて凄いですよね」
「こっちは共同運営さまさまよ。スクールの宣伝材料だしさ」
ちはるはブレーキを踏み、前車の後輪が見える位置で止まった。顔を傾けてイタズラな微笑みを浮かべ、助手席で彩香が口を開けて笑った。坂の下で信号は青から赤に切り替わった。
「ちはるさんはバイク学校の校長なんだよ」
後ろではエリがシートに体を伸ばして朋己に顔を向けた。キャラクターのTシャツを着た妹は自家用車でのお出かけを楽しみ、初めて座る兄は緊張して小さくなった。後部座席からは嬉々とした声だけが前に聞こえ、ちはるは後ろへ頭を反らせた。
「朋己くん、バイクに興味ないかしら」
「はぁ…」
「うちに来たら十日で免許とれるわ。来年辺り、どう?」
「それいいよ、お兄ちゃん」
隣でエリが喜び、妹の表情に朋己は少し笑ってみせる。ちはるはバックミラーに目を細めた。
「彩香も来た時はそんなだったわ。でもすぐに慣れたのよ、体重も増えて」
「ちょっと何言うんですかー」
「あら、褒めてるつもりなんだけど。ふふふ」
すぐに唇を尖らせる彩香に車内で失笑が漏れた。青色になった信号で四人を乗せた車は左折して車線の流れに従った。舞島市と愛美市を繋ぐ国道858号。車線をはみ出して大型トレーラーが追い抜いていき、ちはるは平然と見送った。市の中心部を離れるとメンテナンスが行き届かず、速度検知システムは不定期に故障した。海を眺める道路はたびたび危険な高速レーンとなった。
30分走って国道にショッピングセンターの看板が見え、市街地近くで普通車が増えた。ちはるの車は愛美市西端の商業地域に向かわず市道に入って真っすぐ海を目指した。雑草が生えた畑の間を通り、突き当たりを折れて坂を上がると堤防に出た。堤防沿いの右手に海が広がり、エリが指差して朋己の前に身を乗り出した。海岸線の先は崖が迫って狭い入り江となっていた。
海岸は堤防の入り口から車のまま下りられ、砂利を敷き詰めた駐車場が設けられた。細いロープが区切る十数台分の枠が向かい合い、ちはるは堤防を背に車を停めた。その側にはコンクリートブロックの更衣室が砂浜に面した。
バッグを持ったエリが朋己と別れて元気良く最初に女子更衣室へ入っていった。そして、最初に出てきたのも彼女だった。背中へ顔をひねってお尻をふんわり覆ったスカートの裾をつまんだ。朋己が出てくるのを待つエリは考えた――まず、初めて買った水着が似合っていると褒めてもらわなきゃ。それから、お兄ちゃんと渚を歩いて波を追いかけて――とシンプルな計画を。飾りのないワンピースは遊ぶために動きやすい。それでも授業用の半袖短パン型と違って肩を出し、腰の周りをゆったりと囲んだひだの広がりに可愛らしさを求めた。
「ふふっ、バッチリ。後は……」
エリは浜辺へ目をやり、ビーチボールを投げ合う女性達を見つめた。それとなく朋己のタイプを聞き出すという目的も忘れてなかった。海を楽しみながら兄の恋人探しと両にらみ。鋭い目つきを見せつつ、彼女の口元は緩んで薄く笑った。そこへ男子更衣室から子供が出てきた。こぶしを握ってニヤつく女子を見上げ、指をくわえてそーっと立ち去った。
待ちくたびれたエリがかかとで足元を掘った。しばらくして後ろから肩を叩かれて振り返ると、赤いビキニのちはるが筋肉を程よく保ったプロポーションを見せた。上げた髪はほぼ水泳帽に収められ、顔がやる気満々だった。
「エリ、今日はじっくり教えてあげる」
「あ、あはは。後でいいかな~」
エリは愛想笑いを浮かべて静かにつま先を後ろへ退いた。自分で掘った穴にはまり、ふらっと体が沈む。途端に腕が引っ張られ、ちはるの胸元へ引き寄せられた。目の前で三角に膨らんだものがぶら下がっていた。
「へぇっ。こ、これは?」
「見たことないかしら、この浮き輪。ほら、細長い穴があるでしょ」
「はぁ、それをどうして持ってるの」
「それはこうして使うためよ」
ちはるは掴んだ三角形の中心にエリの手を突っ込んだ。グッ、ググーッと肩まで差し入れ、彼女が反対へ伸ばした手も体ごと引き寄せた。元レーサーの腕力は半端なかった。
「まずは基本のバタ足からやりましょう」
「え~っ。おにーちゃーん」
「朋己くんにも後で自慢しよう。そう、手の動きはいい感じね」
顔の下でバタバタする少女にゴーグルをかぶせ、ちはるは脇にがっちり抱えて歩き出した。エリは更衣室に顔を向けたまま、砂浜を足が後ろへ歩かされた。叫びも虚しくバシャバシャと浅瀬に入り、だんだんと深くなって腰まで浸かり、水面に胸を浮かせて曇り空を眺めた。彼女が選んだ水着は腕を回して泳ぐのにうってつけだった。