愛美市の西端に位置する『愛美西海岸』は海水浴に地元の人が集った。雲が判別できない灰色の空に気温が下がり、週末は子どもを連れた一行が目立つ。舞島市から車でやってきた四人。ちはるに沖へ連れて行かれたエリは両手を持たれて水中でバタ足の練習をした。その頃、残りの二人は心の準備に時間がかかっていた。
ガチャリ
更衣室の扉が同時に開いた。左側から出てきた朋己がすぐ驚いた顔を見せた。右側からの彩香は周りを見渡すように首を振り、側にいた彼に気づいて肩をビクッとさせた。
「あっ、朋己くん。着替えまだだったの」
「は、はい。ちょっと……」
朋己は言いにくそうにした。彼の背中には大きなタオルが引っ掛けられ、彩香はパーカーで上を隠して膝までのパレオが巻かれた。二人のしじまが伝播し合い、より自信の無い彼女が岩場の方へ離れた。彼は賑わう沖を眺めたが、目が悪くぼんやりとしか見えない。人の少ない奥に行った灰色の上着をとことこと追いかけた。
波しぶきの音を邪魔する声が聞こえない場所で彼女たちは砂の上に腰を下ろした。彩香は長袖で隠された二の腕をさすり、朋己へ少しだけ顔を向けた。
「どうしたの。エリはちはるさんに泳ぎを教わってるはずよ」
「いや、それが…。占いで水に入らない方がいいって」
「ふーん。それは都合がいいお告げね」
彩香は膝を抱えて水平線の先へ目をやった。完全防備でたたずんだ浜辺に涼しさを感じた。
「ここって昔から穴場なの。それに今日は日差しがなくて良かったわ」
「それじゃあ、ここはよく来るんですね」
「ううん、中学生以来。実は私も泳げないのよねー」
「あっ、同じ、エリとそれは」
朋己の慌てた様子を見て彩香は微笑んだ。少年ぽっさを残す顔をした彼が隣でじっと自分の話を聞いているのは海にそぐわないような気がした。
「泳いできたら、タオル持っててあげるわ」
「その、これは……」
「女の子はね、はっきりした男の子が好きなのよ」
「え、そうなんですか」
「ええ、誰だってそうなんだから」
顔の横で人差し指を斜めに振った。顎を上へ向けて鼻で笑い、お姉さん風を吹かす。目だけ彼へ向けると、俯いて決心のつかない姿が目に入った。また、二の腕をさすった。彼女は目をつぶって大きく息を吐き、朋己へと顔を向けた。
「じゃあ、私も上脱ぐから。そのかわりタオル取りなさい」
「え、あ、あの」
「もぉ、女を先に脱がせるつもりなの」
少年をからかいつつ、膝を押さえてゆっくりと腰を上げた。朋己は目をパチパチさせ、コクリと頷いて立ち上がった。さっとタオルを取り払った背中の下辺りには大きなやけどの跡があった。
「なっ」
頭を抱えた彩香は左右の髪を掻き上げた両手をだらりと下ろした。砂浜でのんびり過ごそうとして何もせず垂らす横髪がパサっと頬に掛かり、緩みきった顔が潜んで呆然とした。手のひら大に広がった紫色の部分を見つめ、無理やり立たせたことに罪悪感を覚えた。岩々が壁を作る静かな場所で波音が大きく響いた。彼女は手で口を押さえて小さい瞳を真ん中に寄せ、打ち上げられた魚のように口をパクパクさせた。
「朋己くん、せ、背中のそそそ……」
「あ、これですか。大分経ってるし痛みはないんですよ」
「そうなんだ、知らなかった」
「あまり他人に見せたくなくて。けど、彩香さんなら構わないかな」
「ごめん悪かったわ。絶対、他人に言わないからっ」
彩香は手をパンッと合わせて頭を下げた。少し経って頭を上げるとニコニコした表情。こうして朋己が鷹揚に構えるところに、エリが兄としての頼りがいを感じるのだろうかと彼の顔を眺めた。
ん?――朋己が腕をさすって何かを待っている仕草に気づき、彩香はパーカーを脱ぐ約束を思い出した。体よく泳ぎに行かせる考えだったが、気が変わった。彼のやけど跡に比べたら、気になる腕の二本や三本見せてやろうと思えた。わざわざ他の水着から取ってきたパレオがへその上から太腿まで広くガードし、一番見せたくない腹はどうせ隠れるとも思っていた。
ファスナーを下までガーッと引っ張って袖から腕を抜き、もう片方を抜いて砂上に落ちた。パーカーの下はあざが多い肌にオレンジ色が鮮やかだった。ホルターネックのビキニがぷよぷよした肉を締めて谷間を作る。彩香は恥ずかしそうに手をこすり合わせ、意識して腕を抱えた。
「あ、じろじろ見ないで似合ってないし」
「ゴクッ。そ、そんな素敵です」
「そう、派手じゃないかしら。あの子が勝手に購入を押しちゃってね」
「すいません、エリはそういうイタズラをよくするんです」
「別に謝らなくても。私が迷ってたから代わりに決めてくれただけだしさ」
「そうか、こんな事してたんだ。エリの奴……」
たちまち朋己が体を背け、彩香は背中を丸めて妹想いの彼に微笑んだ。しかし、腰の痛々しさが目に入った。妹のした事に兄が頭を掻くのだと思うと、彼女は容姿ばかり気にして汲々とする自分が情けなくなった。朋己はエリをかばって社会の風雪に耐えてきた。施設に入るまで二人は母親と小さいアパートに住んでいた。シングルマザーが世間を騒がす事件も多い昨今、『虐待』の二文字が頭に浮かんだ。
彩香の目に海岸の楽しそうな家族が遠く映った。彼女は白昼に傷痕を晒したまま座っているのに我慢できなくなった。涙を指先で拭い取り、彼に近寄って両肩をガシッと掴んだ。
「朋己くん、せっかく来たんだから一緒に泳ごうよ!」
「えっ。それは『二人で』ですか」
目を見開いた少年の手を取って彩香は引っ張った。そうして波が打ち寄せる方へ顔を向け、さらさらの砂を踏みしめて歩く足に力を込めた。脂肪の乗った腕を振って先を行く。今の彼女には恥も外聞もなかった。
朋己は嬉しそうな顔をして浜辺にへこんだ跡をたどった。結んだ髪の束が肩から背中にかけて大きく開いた水着に揺れ、彩香の白い肌では太陽の色をした紐が水平にびよーんと伸びた。