海水浴場は湾曲した砂浜が数百メートルしかなく、両端に岩礁がちらほら見られた。彩香は岩に手を掛けて立ち尽くし、すっきりしない空と同様にもやもやして漂う水面を眺めた。彼女は深みで溺れてから水が怖かった。泳げないことを話したのすらも忘れ、朋己を連れてきてしまったと水着が食い込む首筋をさすった。
「今日はち、ちょっと水が冷たいかな。アハハッ」
「あの、お気持ちだけで十分ですが」
物分かりの良い朋己の声に、彩香は自分への怒りを抑えて大人として意地を張った。海風に口をゆがませて彼に振り返った。
「ふぁーに、浅いとこなら全然大丈夫よ」
顔を戻さず片目をつぶって足を前へ差し出した。打ち寄せる波の間隔は穏やかで彩香の恐怖心を和らげた。勇気を持って足の裏を水にポチャンと浸け、子供が走り回る場所に立った。胸を撫で下ろすと、どっしりと育った両脚は頼もしく、波の方から勝手に避けていく。彼女は思わずニヤリとした。そろりと腰を屈め、後ろへ水を振り撒いた。
「えいっ。冷たいでしょ、朋己くん」
「うわ、やめて下さーい」
「ほらほら、こっちに来て捕まえてごらん」
彩香が調子に乗ってパレオの裾を濡らして後ずさり、過ぎ去りし高校生の頃に戻った気分で年下の男子を誘った。朋己は顔の前で両手を盾にしてゆっくりと追いかけた。飛び散る水滴を体で浴びながら足を摺らせ、笑顔でキャッキャッと手を振る彼女に引き寄せられた。オレンジ色のブラに白い胸元がまぶしい。柔肌に届くのではないかと手を伸ばし、ひらりと半身でかわされてやや悔しそうに笑った。彼らはまるで二人だけが海辺にいるかのように戯れた。
駐車場を正面に望む沖ではエリが海面に顔を浸け、ちはるの前で両手を揃えて両脚をバタバタさせた。すぐ苦しくなって水底の砂利に足を着けた。首を傾けて耳をトントン、水が抜けてぼわっとした耳に兄の声がかすかに聞こえる。浮き輪で動かしにくい両肩と体をひねり、ゴーグルの狭い視界から遠くの楽しげな朋己が目に留まった。
たまらずエリは足元の小岩に指を掛けて浜辺へターン。思いっきり水を蹴り、腕を横から振り回した。ちはるは水しぶきを上げるバタ足に「その調子よ」と手を叩いた。だが、沖から遠く浜へ離れていき、慌てて大きく手を振った。
「エーリー、どーこ行くの~。戻ーって…………あれ?」
エリが向かう方角へ目を向け、波打ち際でポニーテールを揺らす女性が映った。以前に彩香と来た時は祖母が生きていた頃。海に入った彼女のはしゃいだ様子は遠い記憶のことだった。ちはるは半信半疑で腕を下ろした。
海水に膝まで浸した彩香は横へ後ろへと体を動かし続け、ぜえぜえと息を切らした。隙を狙って朋己が近寄り、とうとう片腕を捕まえられた。
「はぁ~、疲れたわ。もう上がりましょう」
「そうしま……」
「え、どうかしたの」
「その、それって重くないですか」
彼の指先で透けたパレオが水分を吸って白い肌に張り付いた。ただ忘れただけでたとえ取ったとしても、もはや恥じらいはなかった。それでも、少年と夢中になって遊んだ事実を素直に認める彩香ではなかった。見栄っ張りな彼女は大きな岩の横を砂浜へ歩きながら朋己に講釈した。
「こういうのは取らないのがオシャレなのよ。ふふふっ」
彩香はポカンとする彼へ満足げな表情で軽く手を上げた。その瞬間、乳酸の溜まった軸足がふらつき、上げた方の足が布に引っ張られた。太腿の外側が角の削れた岩にガンッとぶつかり、濡れた砂の上に尻をついた。
「ぐわーーっ。ふ、太もももががーー」
「こ、こういう時はあまり動かさずにですね。落ち着いて、落ち着いて」
「姉さま、大丈夫?」
海から上がったエリが横から彩香を覗き込んだ。体を倒した彼女の側で朋己は取り乱して膝をついた。白目をむく頭へ波が打ち寄せては引き、赤くなった顔に横髪が張り付く。エリはゴーグルを取ってびしょびしょの頭をブンブンと振り、肩の上で水分を飛ばして髪を軽くした。ひょいと跨いで彩香と岩の間に体を入れて屈んだ。さっと腰から布を取り払い、色が変わった大腿部に顎を押さえた。患部から視線を上げ、言葉を失う兄を見て腰を伸ばした。
「ちーはーるーさ~~ん」
エリは浜を向かってきた女性へ叫び、あらわになった腹と脚を飛び越えていった。ビキニからの肢体に朋己の目が泳ぎ、彩香は痛む腿を手で押さえて二人が来るまで体をぷるぷると震わせた。
結局、それで家に帰ることになった。太腿は紫に腫れていたが、ちはるの助けを借りて自分で歩けた。彩香は着替えを済ませて車までたどり着き、エリと代わって後ろに乗り込んだ。氷を買いにコンビニへ寄り、ビニール袋に入れて打った箇所を冷やした。ゴムを取って胸の前に垂らした彼女の髪には湿り気が残り、海水にまみれた惨事の香りを車内に漂わせた。
車は国道を舞島市に入り、助手席でエリはうとうとと首を前後に揺らした。ちはるはハンドルの下を軽く握り、先の長い道路を眺めて微笑んだ。
「彩香が海に入って遊ぶなんて珍しいわね」
「まあ色々あって…」
「なら、動きにくいんだからパレオを取れば良かったのに」
「そ、そんなことしたら朋己くんが目のやり場に困るじゃないですか」
裾をまくり上げた太腿に氷の袋を押さえ、彩香がチラッと横を見た。朋己の目は窓の外へ向いていた。ちはるは後部座席の静けさに口元を緩めた。
「ふーん。案外見たかったりして」
「高校生なんだし、からかっちゃ悪いですよ」
「へー、そうかしら」
「それより、ここの打ち身ってどれくらいで治るものなんですか」
「そうね。今度、彼氏と海に行くまでには綺麗になってるわ」
「え~、それっていつですかー」
彩香は前のシートに手を掛けて身を乗り出した。体を揺さぶられたエリは一瞬、目を覚ます。反響したちはるの笑い声が耳に入り、少女は再び目を閉じた。トラブルに見舞われた帰り道は何となくのどかな雰囲気に包まれた。
住宅街に陽が沈み、朋己は裏の出入り口に下りる階段の上で屈んだ。火を点けたろうそくを欠けたコップへ傾けてじっと待ち、垂れたろうに底を付けて立ててそのまま段差に腰掛けた。
花火のパックを握ったエリが彼の近くにバケツを置いてしゃがみ込んだ。早めに帰ってくることになった穴埋めに途中で夕食の弁当と一緒に買ってきた。彼女は細長い花火を二、三本束ねてろうそくで点火し、後ろに下がって夜空へ向ける。四方八方へ噴射する火の粉に、朋己は珍しく口調を厳しくした。
「火は危険だって言ってるだろ、エリ」
「ほーい、これでいい」
「なあ、頼むから止めてよ。もう入院は勘弁なんだ」
腰をさすった朋己は妹の花火が原因でやけどを負った頃を思い返した。彼らは舞島市北部の施設に入って山や谷に囲まれて暮らした。石がごろごろした河原でよく遊んだけれど、砂浜に座るのは初めてだった。当然、女性とも。エリの後ろへ顔を上げると、カーテンの隙間からはソファーの肘掛けにもたれる彩香の姿が見えた。
エリは火が消えた棒をバケツへ投げ入れ、袋に手を突っ込んで新しい花火を鷲掴みして兄へ向いた。
「わたしがやった事、まだ怒ってるの」
「イタズラは良くないよ。けど、あの水着はなかなか良かったなぁ」
「え、何のこと?」
「えっ。あ、今日は月が綺麗だね」
妹に悟られないように朋己が空を見上げ、雲がかかる月へ笑みを浮かべた。長い髪をたなびかせる人影から振られた取っ手の大きい杖に導かれ、数ヶ月前に彩香が暮らす海に近い街に来た。彼は胸をときめかす人と会わせてくれた神のお告げに感謝していた。
兄の横顔を不思議そうにエリは見つめた。彼が気に入る女子を探して連れてくる作戦はなかなか進まない。明るさが宿る朋己の表情に、彼女は「必ず見つける」と決意を新たにした。