ようやく夏の猛暑が落ち着きを見せ、吹く風が八角形の建屋より高い庭木の枝を揺らした。入り口の脇に停まった自転車もすっかり日陰に覆われた。アプローチを挟んだカフェの前を近所の子供達は走り、周りに誰も存在しないかのごとく通り過ぎた。
路地へ向くカフェの屋根に一人の女が仰向けに寝転んでいた。真下の店内では棚と天井の狭い間にアンテナが置かれ、無線通信で耳の前に引っ掛けたイヤホンへ振動が伝わった。午後からずっとそこに居た。黒いロングカーデの彼女は片膝を立てて両手を枕に気だるく上空を眺め、盗聴するエリたちの会話に顔をしかめた。
「はぁ、何もかも忘れてるわ。駆け魂が見えるように想起魔法をかけとかないと…」
彼女は上体を起こして頬横の髪に手を入れた。プラスチックのフレームを耳から外して首に掛けると、足の下で戸がガラーッと開いた音がし、出てきた薄い頭頂部がカフェに沿って動いた。
その男性は軽トラのドアを開け、四角い道具箱を携えて運転席に乗り込んだ。ウッドフェンスの側へ斜めに突っ込んだ車体が後ろへの警告音を鳴らしてバックした。フロントガラス越しの温和な表情を追ってエリが京太とカフェを出た。Tシャツとハーフパンツに店内履きサンダルで道路際まで行き、大きく手を振って車が離れていくのを見送った。
「グッジョブ、おじいさん。これでシャッターが直ったわ」
「じいちゃんは器用なんです。それに普通の扉なら上のとこに余裕で届きますし」
「ふーん。京太の家族ってみんな背が高いんだ」
カフェの修復を喜ぶエリの背後で京太は聞いてもらおうと手の甲をさすった。超常現象の話は飽きられたと分かっているが、今日は宿題を手伝いに来たとの思いが再び口に出させた。
「で、未紗紀から出た白いモヤっとした気体ですけど」
「ハイハイ、それは湯気よ。汗かいてたんでしょ、彩香さんが帰ってきたら扉のガラスが曇るのと同じ原理ね」
エリは振り返ってとっととカフェの入り口に向かう。日陰に入った少女の頭上へ、落雷のような閃光が走った。ほんの一瞬の出来事でエリの体に変化はなかった。何事もなく二人は店内に入り、鼻であしらわれた京太が乱暴に戸を閉める音が響いた。屋根の上では女が右手に持つ長い得物が振り下ろされていた。内側に弧を描く鎌状の刃先に魔法を放った余波が揺らめく。姿形が人間と同じ彼女は冥界から来た『悪魔』であり、この世界の人に干渉することなど本来ないが、エリの場合は違った。
女は上着のポケットに左手を入れてスマホの機能も備える端末を出した。今はこれ一つで用事が済む時代。人間社会に入り込んだ仲間によって開発され、魔学校の頃に幾つも抱えたボードはもう必要なくなった。スケジュールを表示させ、丸っこい文字に「また山奥か」とつぶやいた。胸元に覗く紫のインナーに膨らみは薄く、前でがっちりと腕組みをした。
「二ヶ月後に戻って来れるかしら。とりあえず、端末の注文が先かな」
依頼のメッセージを用意し、送信マップで鳴沢駅近くのビルへ指を擦らせた。用心深い彼女は送信の完了を確認し、端末を仕舞おうとした矢先にピピッと音が鳴った。数年来着る毛羽立った袖をまくり、手首で腕時計のデジタル表示が赤く点滅した。
「ゆっくりしてらんないわ。飛行機が出ちゃう」
彼女は舞島市を少し離れた町に住み処があるものの、専ら海外へ出かけた。僻地を中心に『駆け魂』と呼ばれる冥界から抜け出した霊魂の回収任務を担う。所属する部署は人手が足りず、現地に行けば駆けずりまわされる日々。優雅なファーストクラスでの往復は彼女にとってささやかな楽しみだ。永らく人と暮らす中で角が取れてラクすることが身に付いた。元々頭が良く、乗り継ぎの便も含めてフライトの時間を全部暗記していた。
顔を上げて右へ左へ体を向けた。フレアスカートを翻して現れた膝を軽く曲げて跳ねる。空中に浮いた体はどんどんスピードが増して高々と上がり、頂点に至って反転した。黒い衣服を風になびかせ、太陽を背に飛んでいった。
リビングの彩香は西日が射し込む窓へ顔をやり、草むしりを怠る庭を見つめた。明るい桂木家の一階はテレビが点く壁際からダイニングの奥へひっそりとした時が流れる。対面キッチンの水切りかごにお茶碗とみそ汁のお椀が一人分並んだ。
海に行ってから日が経ち、脚の痛みは引いて跡もそれほど目立たなくなった。長かった夏休みも終わりが来た。この日、彩香は有休を取った。普段通りの生活にもエリが施設へ帰るため、いつもより夕食を早く作り、彼女には早めにとらせた。メインは野菜炒めだが、豚こまをしっかり多めに入れた。配偶者もなく、正社員でもなく、月給は乏しく、ほっとする部分も正直あった。
エリはソファーで取引時間の終わった経済指標に難しい顔を見せ、彩香は画面の隅で繰り上がる数字を見て壁の時計へ視線を上げた。少女が出発する時間が迫った。
「宿題もちゃんと終わったよね。荷物は全部入れた?」
「うん、オッケー」
「じゃあ、門の外まで送るわ」
立ち上がったエリがバッグを肩に掛け、彩香は先にリビングから廊下へ出た。玄関に下りてサンダルを履き、ドアを開けて振り返った。彼女が框に座ってスニーカーの紐を結び直す時間が短く感じられ、顔を上げた少女の笑顔につられて微笑んだ。
「明日から寂しくなるわ。だけど、エリのこと忘れないからね」
「え、姉さまもう忘れたの。カフェのメニューをちゃんと考えてよ」
「あっ、そうだったわね。でも運転資金がいるんだから…」
「わかってるって!」
エリは彩香の脇からポーチへ飛び出した。両手を広げて体を回転させ、大きな瞳を輝かせた。
「あ、見送りはいいよ。きっとすぐ来るから」
「そう、じゃあ、私もバイクでエリに会いに行くわ」
「それじゃ、またね~」
玄関先でスロープを駆けていくエリに手を振りながら、彩香は反射的に出た自分の言葉に口元を緩めた。クリーニングから戻ってきたセーラー服の背中を見せる少女。後ろ襟まで伸びた髪の長さがこの家で過ごした時間を物語った。
フェンス越しに覗いたエリの姿がふっと消えた。彼女は門を出て駅のバス停へと向かった。思い返すと最初に話しかけたのもバス停だった。偶然の出会いに生活を共にし、いなくなった寂しさが募った。玄関ドアを閉じようと取っ手を握り、家から突き出す建物へ目が向く。兄のため再開させに来る妹を、掃除されたカフェが首を長くして待っているかに思わせた――早くてもエリが舞島学園に入学してからしか無理よね。たぶん、夏休みにまた……となると一年近くか。
彩香は手を離して下駄箱の下に放置された道具箱に振り返った。一歩足を踏み出し、腕を伸ばして引っ掴んだ手に駐車場の階段へ駆けた。カーポートの屋根から外れた奥で掛けたままのカバーを取り、汚れた布切れでチェーンに指を入れて磨き出した。襟のよれたTシャツとハーフパンツでコンクリートに尻を着けて額に汗をかいた笑顔に、住宅街の木々から後を追うようにミンミンゼミの大合唱が始まった。
―― 次章予告 ――
奨学金の審査結果にエリは慌てふためく。桂木家に相談に来て彩香の母・志穂と会い、京太から隠し子と偽って家族になった人の話を聞いた。彼の端末を借りて登録された女性に… ⇒FLAG+11へ