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―― 前章までのあらすじ ――
中学三年のエリは三十歳独身の彩香と夏休みに共同生活を送り、八月も中旬を迎えようとした。
ちはるが姉妹のように口げんかをする彩香とエリに目を細める中、姉・千夏がやってきた。玄関でいがみ合う二人。彼女に鰻を食べると聞き、ちはるは対抗して海へ行くと言い出した。
翌週の愛美西海岸には朋己も来ることになり、喜ぶエリだが、泳ぎを教える気満々のちはるに沖へ連れていかれた。朋己は浜辺で彩香と腰を下ろし、海に入って一緒にはしゃぐ。帰ってからエリは微笑む兄の横顔を不思議そうに眺めた。
カフェではシャッターが治り、エリは再開に自信を深める。その頭上で彼女を監視していた悪魔が飛び去り、長い夏休みも終わりを告げた。
笑顔で施設へ帰るエリに「会いに行く」と見送り、彩香は早速バイクを布切れで磨き出した。
コーヒーを淹れる日々
新舞島駅の通りからミニバンが日の落ちた住宅街へ曲がった。見通しがいい道路で30km制限を守って左側に寄り、路地際に立つ電柱が照らす光の波を何本も通過した。ドライバーは家に近づくとセンターディスプレイの黄色いランプへ眼を動かし、ブレーキペダルを踏んだ。さらに速度が落ちた車が跳ね上がりの最高になった門扉の前を越えて止まり、後ろを向いてハンドルを回した。
ちはるは駐車場に停めた車から降り、荷物を片手に提げて颯爽と家に入った。リビングの戸を引いて鼻を上に向け、ダイニングから漂う香りを吸い込んだ。
「ただいま。コーヒー淹れたのね、久しぶりだわ」
「おかえりなさい。ちはるさん、残業だったんですか」
座る彩香の前に飲み口が少し広くなったカップが置かれていた。テーブルはすでに夕食の皿が取り除かれ、奥で隙間が空いたカフェへの扉から明かりが漏れる。彼女が細い取っ手に指をかけて持ち上げた。ちはるはソファーの端に鞄を下ろし、両肩から剥ぎ取るように上着を脱いだ。
「いいえ、マンションに着替えを取りに戻ったの」
「え、土曜なんかありましたっけ」
「志穂さんが来るから午前中に掃除しなきゃ」
「へぶっ……母さんまた来るんですか」
「ついでだけどね。みちほがまた休んでるらしいから」
「ああ、そっちは大問題だわ」
卓上の布巾で吹き出した液体を拭きながら彩香は顔を横へ向けた。ちはるがネクタイを緩めて彼女に近寄り、白い器の内側にできた濃く透き通った輪を見て顔が綻んだ。
「血は争えないものね。やっぱりカフェのマスターが合ってるのかしら」
「こんなの大したことないですよ。大体、お店は客が来ないと」
「だったら、エリみたいな可愛いウェイトレスを雇ったら繁盛するんじゃない」
「そうですね。バイト代として何を要求されるか分かりませんけど」
ちはるの言葉に吐息をついた彩香はテーブルをささっと片付け、カップを残してキッチンへ立ち上がった。
「ご飯用意します。まだ食べてないんですよね」
彩香が食器棚の扉を開けてパタパタと動き、対面キッチンのつり戸棚と腰壁の間に見えた。壁の棚からコップを出したちはるは自分の席へ回り、椅子の背に手をかけて「お願いするわ」と彼女を見つめた。以前と変わりなく冷蔵庫とコンロを行き来する姿に目を細めて腰掛けた。
テーブル上に食器を並べ終えて彩香はお茶のペットボトルを置き、ちはるの正面にドカッと座った。今日の献立もハンバーグ。夕食は二日連続で大きい皿に油の汁が広がった。
「これで最後なんで協力して下さい。焦げた小さいのなんかは残ってるんですが…」
「ほんと、計算が苦手なのね。わいわいロードの肉屋が大助かりだわ」
ちはるは箸を親指に挟んで手を合わせ、頭を掻く彩香に微笑んだ。二人の食事に戻ったテーブルはリビング側の半分に広がりを保ちつつも、LED電灯が部屋全体を明るく包んでいた。
みそ汁が溢れそうなお椀に口をつけ、ちはるが静かな方へチラッと目をやって口を開いた。
「彩香、言ってたレンチも持ってきたわよ」
「あ、すいません。なぜか、セットって必要なやつがなくなるんですよね」
「ケースにちゃんと入れないからでしょ」
「ははは。まぁ、これでプラグ交換もできるし」
「明日、時間があったら手伝ってあげる。けど分かってるの、電気系統とか」
「新しい250では初めて。でも昔取ったナントカですよ」
「はぁ~、国語の先生の娘がこれじゃ…志穂さんもがっかりね」
「そ、そんなことより旦那さん、このまま土曜日が常勤になるんですか」
「うっ、うん、まあね。どーやら朝勤に固定されそう――」
ダイニングの二人は雑談で社会の不満に花を咲かせる。リビングの隅でセキュリティ機能付きの機器がパカパカと赤く点滅した。前の家主が設置した電話は登録していない公衆回線からの着呼に対して音が鳴らない。この家の電気製品は古いものが多かった。不器用な今の住人にはアナログな機械がお似合いだった。
明くる日の午後、外は晴れて残暑が厳しく太陽が照りつけた。リビングではちはるが腰に片手を当て、反対側に掃除機を持ってホースを真っすぐソファーの下へ伸ばす。午前中に済ませた掃除を念入りに繰り返した。
階段をトントンと彩香が下りて戸を引いた。休日の顔にファンデが塗られ、部屋の外でジャケットに手を入れて立った。ちはるは肘掛けを回ってソファーの後ろへ、前を向いて驚いた。
「えっ。あんた、バイクの整備するんじゃなかったの」
「帰ってきてから始めようかと…思って」
「そうなの、行ってきなさいよ。志穂さんと会いたくないんでしょ」
キッチンへ首を振り、背中で結んだ外ハネの束が跳ね返った。あからさまに面白くない表情を浮かべられ、彩香は頬をさすった。汗ばむ手のひらで触れたが、遠出に使う落ちにくい化粧品は簡単に崩れなかった。手の込んだ顔へジロッと、ちはるの視線が刺さって廊下で腕を抱えた。こうなると叔母の熱が冷めるのに時間がかかった。
バンバンバン、バンッ!!
突如として玄関ドアが叩かれ、ゆっくりと彩香は振り返った。庭の雑草を踏む音が聞こえては離れていった。また、別の戸を開く音がした。タタタッとカフェの中を誰かが走ってきた。まさかと思いながら、リビングに出した足を二歩、三歩と進めた。
キッチンの壁で扉が開き、Tシャツとジーンズのエリが現れた。裾を折り曲げた足を振って靴を脱ぎ、白い靴下でバタバタと駆けてきた。テーブルに来た彼女は困った瞳を向けた。
「ねーさま、わたし落ちちゃったよー」
「はぁ?」
彩香は両方のこぶしを握った少女に首をかしげた。けれど切迫した彼女の様子を目にし、自分のつまらない用事を思い出して開手を打った。これを利用しようと思いついた。
「それじゃあ、今から一緒に行こう……」
そっとエリに近寄った彩香だったが、後ろからちはるが肩を掴んで部屋の中央で止められた。
「今からカフェでコーヒー淹れて話を聞いてあげなさい」
「えっ、私これから出かけるんで…」
「淹、れ、て、あ、げ、な、さ、いっ!」
紅潮した顔が横に近づく。渋々、彩香はジャケットの袖を引っ張った。それを脱いで椅子の背に掛け、エリの肩を抱いて歩き出した。舞い戻った少女に、仕方がないという想いと面倒を見てやるかという気持ちを半々にカフェへと入った。