テーブル席は八角形の天井に梁が交差し、屋根との空間が広さを感じさせる。エリが慌てて閉めた戸の隙間をピタリと閉じ、彩香はカウンター内へ戻った。来客の受け入れが整ったリビングからの物音に耳を澄まして冷蔵庫にもたれ、IHの丸い枠に置いたポットの湯気を見つめた。
ガラッ
不意にカフェの戸が開いて見覚えのある顔が目に入った。彩香はその場にしゃがんだ。が、もう先方からは丸見えだった。入り口の女性は後ろを向いて静かに閉め、振り返って膝下のスカートを広がらせず、カウンターまでそそと歩いてきた。床に置かれたゴミ袋に目を落とし、上の方にある膨らんだ包装を見て口火を切った。
「間食がやめられないようね。昼過ぎから菓子パンにかじりつくなんて」
「はっ、昼過ぎから?」
彩香はお尻を向けて立ち上がり、ゆっくりと彼女の方を向いた。母の志穂がねずみ色のざらざらした生地を上下にまとい、紐のない黒いハンドバッグを抱えていた。ほうれい線が薄く見える顔にあきれた様子を浮かべた。
「三十にもなって、それが親を迎える態度なの」
彼女は会う度に小言を言った。三十路を迎えて年齢が枕詞になり、彩香はうんざりしていた。
「すみませんねぇ……ったく、母さんのまぶたかって…」
「えっ、なんて言ったの。きちんと人の顔を見てはっきり話しなさい」
「あ、うん、こちらからのお入りで驚きましたって」
とっさに苛立ちを隠して愛想笑いを返した。志穂がふらふらした生活を見かねて伯母に相談したおかげで社会人になれた。それで身に付いた人当たりの良さを見せるのは彼女への恩返しであり、子供扱いに対しての嫌味が込められた。
母の目には彩香のおざなりな応対ばかりが映った。ろくに目を合わせず、ボットを手に忙しそうにしている。志穂は抽出器具が重ねられた真向かいに来た。遺伝からか娘たちの顔は大人になっても鼻の周りにそばかすが残った。背が高くスラリとした姉と違い、彼女の方が自分と似ていた。その分、心配もひとしおだった。
「あなたが窓から見えて……それより今度の男性は乗り気なのよ、なんで連絡してこないの」
「え、父さんに断るって返したけど」
「メールで一言じゃ相手方に返事ができないわ。それに、あなたも悪い感じは受けなかったんじゃないかしら。今回の彼はわざわざ役所へ来て『花柄のストールが素敵ですね』ってベタ褒めするのよ。父さん、帰ってきてから万歳したりして」
「そんなとこ褒められてもねぇ。大体、誰でもよく見えるんでしょ」
用意してあった粉末の中心に湯を垂らしながら、彩香は確信を持って言った。空振りの連続に、両親が舞い上がったのも無理はない。心当たりのある志穂は視線を逸らした。見渡したカフェは数年前に訪れた時の溜まったほこりが見られなかった。
「あら、このお店キレイね。また再開するつもりがあるの」
「ううん、掃除しただけ」
「そのコーヒーも練習なのね。それくらい隠しても分かるのよ」
「別に意味はないわ。休みだから」
「もしかして素晴らしい出会いがあって事が進んでいるとか」
志穂がバッグを脇に置いてカウンターに身を乗り出した。とうとう彩香は耳を塞ぎ、サーバーを傾けて手元に集中した。「分かるんでしょ」とカップを差し出す。大人しくなった娘に何かあると感じ、志穂は椅子を引いて腰掛けた。器の中を眺めながら持ち上げ、一口だけ飲んでゆっくりと下ろした。器が軽くコトッと音を立てた。
「ねえ、私はいい人ができたら紹介して欲しいの。美雪の時みたいに驚かされるのは…」
落ち着いた口調に期待を込めて顔を上げたが、彩香の手は止まって口が開いたままとなった。
「な、なに考えてるのよ、バカじゃないのっ」
「これ、その口の利き方は何ですか。こっちは心配してるのよ」
「もぉ~、ちはるさんが待ってるから家の方に行って!」
それまで話を合わせていた彩香の本音が出た。勘違いをきっかけに母親への甘えが怒りになって表れ、普段の彼女が炸裂した。志穂はもうお手上げとすっと席を立った。
「まったくね。こんな子の面倒を見てもらってお礼を言わないと」
「面倒見て…ん?」
今日はエリが来ていた。志穂が奥の壁に近づき、彩香は作業スペースを飛び出してカウンターの端を回り、慌てて追いかけた。キッチンへの扉の前で彼女の右腕を掴んだ。これ以上、事を荒立てたくはなかった。
「ちょっと待って、母さん」
「何なの、鍵はかかってないでしょ。彩香がいるんだから」
「いや、その……」
うまく続きが言えない彩香の態度こそがはっきりと志穂に何かを隠していることを伝え、彼女をいつも心配させるのだった。
カフェと住居を隔てる壁の扉はキッチン側へ開く。この先に彩香が見られたくないと隠す事態がある。志穂は静かに少し扉を押し開けた。
ダイニングはテーブルの片側が見え、誰もいなかった。ずっと先、テレビに地図が映り、ちはるが脇に立っている。彼女は画面を指して口を動かす。ソファーの背もたれから出た小さい頭が揺れた。首を左右に振った子供の横顔が志穂の記憶を呼び起こした。
「エリちゃん……近所に小学生の女の子いたかしら。ねえ、どこの子なの」
「えっ。そ、そ、そこら辺の子」
「そこらって、彩香。素性が分からない子を家に連れ込んでいるわけ」
「知らないわけじゃ…」
言い淀んだ彩香の両肩を押さえ、側の席に掛けさせた。腕を組んで彼女の前に立って問い詰めると、夏休みにエリを泊めた顛末をあっさりと白状した。カフェの回転する椅子の上に背を丸めた娘の姿があった。志穂は優柔不断な彩香が一時の感情に流されて判断を誤るのを子供の頃から間近に見てきた。
お団子に結い上げて広がった額に手を当て、ふーっと息を吐いて小さい瞳をまっすぐ見た。
「しっかりしなさい。未成年を勝手に留め置いて捕まりたいの」
「でもエリ寂しそうで…お兄ちゃんを連れて来るってカフェを綺麗にして」
「本人が望んでも納得させるのが大人でしょ」
「さっきもお金がなくて高校行かないって、頭良いのに……どうしようかと」
「それは施設の方で解決してくれる。個人が考えることじゃないわ」
「朋己くんが通ってる舞島学園に入りたいんだって」
母の言葉を聞いていないのか、彩香は独り言のように口を開いた。ソファーにいた一人の少女に固執する娘を変に思いつつ、志穂は取っ手を握って彼女へ首を振った。
「あなたはパートナーがいないから彼女を養うことは無理なのよ」
「…うん、そんなの分かってる」
彩香が膝に挟んだ手をギュッと組んで頷いた。志穂はキッチンに素足を着け、床のひやっとした感触にも顔色を変えずに水切りかごが載る作業台を回った。ちはるが気づいてリビングの壁際で声を上げ、桂木家の反対側でようやく歓迎を受けて微笑みを見せた。
エリを改めて紹介された志穂は少女のはきはきとした受け答えに目を細めた。この日は和やかに会話が行われ、何の問題なく過ぎ去った。