時折、雲が流れて影ができる道路上を京太の自転車が通過した。ハンドルに乗せた片手に端末が握られ、画面に目盛りがピコピコと出て横に一桁台の数値が表示される。彼はため息をついて顔を上げ、ポロシャツをはだけた。新しいUFO探索ツールは期待外れだった。前かごに茶色の袋を入れて来た。嫌々していた母親の使いもエリの出現ですっかり生活に組み込まれた。彼女の黒い髪が伸びて見えたり、未紗紀から白い幽霊のようなものが飛び出たりと一緒にいて不思議な体験をさせてくれた少女。新学期が始まり、彼女はいなくなった。
祝日の午後に桂木家へ、ロープが張られたカフェへの通路前を過ぎて門柱の手前で停めた。門を通ってスロープをとぼとぼ上った。玄関先へ端末をかざして解錠が表示され……ない。京太は手すりを持って角を回り、一気にポーチへ駆け上がった。深呼吸してドアを開けた玄関の端にサンダルとスニーカーが並んだ。廊下へ飛ぶように上がってリビングの戸を引いた。
少女がテレビの地図機能を使って前に立っていた。隣の立て看板へ向いて腕組みをする。彼女は切り揃えられた髪を振り、セーラー服の後ろ襟を翻した。横髪を片方だけ耳にかけてピンで留めたエリの中学生らしい恰好にしかめっ面が添えられた。
「ちょーっと、どっちがこれ近いの。この辺りの地理に詳しいでしょ」
「ハイハイ。あ、叔母さんは仕事ですか」
「彩香さんなら故障したバイクを取りに来た純一って人の車に乗って行ったわ」
「あぁ、手入れをサボってると機械はダメになるんですよね」
軽やかに近寄った京太は彼女がトントン叩いた緑の部分へ腰を曲げた。黒板になっていた。白い文字と数字が細かく、眼鏡の位置を直した。
「鳴経大付、聖ハデス…進学先を考えてるのか。ま、どっちもどっちかな」
「ちゃんと考えてよ。短いチョークで一生懸命書いたんだから」
「この小さい黒板どこにあったんです……あれ、舞島学園には行かないんですか」
京太は何気なく疑問をぶつけた。テレビ画面に映った舞島市の道路地図は複数のルートに赤く色が付き、そのどれもが舞島学園のある島へ集結した。
いかにも自ら辞めたかのような言い回しにエリはカチンときた。手にしたチョークを真上に放り投げ、ローテーブルの脇で飛び跳ね、ソファーの中央にドンっと尻をついた。スカートの下に隠れるリモコンを探り出して表示を地上波に切り替えた。
「白鳥の奨学金に落ちたんで他を比較してるとこ」
ぶすっとしたエリがつぶやきながら手元でころころと映像を変えた。胡散臭い司会者の生番組を梯子し、代わり映えのしない絵面に指を止めた。ちはるに説得された彼女は他の奨学金で寮がある私立高校に行こうと考え始めた。メモ代わりにカフェの倉庫から看板を持ち出し、入学金や授業料といった必要な金額を書き込んでいた。
京太の背中にツンツンした空気を感じさせた。「朋己と舞島学園に通えなくなった」というのはエリにとって大問題だ。機嫌が悪い訳だと彼は振り返った。
「まあ、二つとも舞島駅に近いんですけど。南側の鳴経大付属が少し近いかな。聖ハデスは数年前にできた女子高でカトリック系とか。北東寄りで周りに何もないところです」
「うーん、市の奨学金だと鳴経大はムリ。青山基金は審査が厳しいという話だし…」
進路に頭を悩ませつつも、エリは再放送の昼ドラが始まって画面に目が吸い寄せられた。二十年以上前の作品だったが、服装が派手に見える以外は高精細で見劣りしなかった。お屋敷のセットで主演女優が深刻に考え込み、俳優が現れて二人が向かい合う。テレビに集中した彼女は首を前方へ突き出し、京太も一息ついて側のシングルソファーに腰掛けた。
CМが始まるとエリは大きなあくびをした。両腕を伸ばしてソファー上で反り返り、上着の裾が引っ張られた。スカートの帯より上が覗き、素肌と思って京太は顔を背けた。
「そ、その…制服。で、出てきて…ますが」
「うん、学校行くと言ってきた。そういう風に見せておかないとね」
「じゃあ、見せてるんですか。今だって見えて…」
「ん、ああぁ~~」
エリが立ち上がり、前へ腕をぶんぶんと振る。京太は身構えて首を思いっきり横に振った。
「うわぁ、み、見えてませんよ。お、おなかに何も」
「お腹ってタンクトップに何か付いてる?」
「へっ……なんだ、そういう色か」
「それより、あれ京太のおばあさんじゃないの」
「はぁ?」
京太は彼女が指したドラマへ顔を向けた。とっくに男女の逢瀬は終わり、ひざまずいた女優を罵る継母。正しく口が悪い祖母だった。ふてぶてしい面構えに頭の中で小ジワを付け加えた。
「そういや、テレビドラマに出たとか、出てないとか言ってたな」
「これ、はまり役だわっ。千夏さん、若いわね~」
意地悪そうに顔を引きつらせた迫力に、エリは手を叩いた。どうしようもない状況を一時忘れさせて彼女は笑顔になった。京太もつられて笑った――やっぱり、彼女は自信満々な方が様になると思う――指差している祖母並みに。彼は小さい頃に聞いたエピソードを思い出した。肘掛けと膝に手を置き、エリの方へ体重をかけた。
「エリさん、隠し子の話を知ってますか。いきなり他人の家に行って『私、ここのお父様の隠し子です』と言った女の子がいて」
「ふーん、それで?」
「死んだ母が書いた手紙を渡すんです。そしたら、あっさり家族になれたっていう」
「へー、そんな事ありえなくない?」
「ばあちゃんがその人を知っているらしいけど」
「そっか。じゃ、スマホ貸してちょうだい」
エリは急に納得し、ニコッと手のひらを差し出した。京太が横へと立ち上がった。怪しむことなく、ポケットから出した端末を載せる。それを掴んだ彼女は腰を下ろして指を上下に動かした。
「えーっと、連絡先リストは左側でいいのね」
「はい、そうですけど何を…」
突っ立った京太の前で五十音順のインデックスがすーっと流れ、指先がディスプレイに押し付けられた。電話アプリでドクロ顔のキャラが表示される。エリはニヤッと口を押さえ、端末を耳に当てた。呼び出し音が続いた後、女性の声が聞こえた。
「もしもし、何の用。母さんは仕事中だから手短にね」
「わたし、あなたの旦那さんの隠し子です」
「えっ……あ、あなた京太の友達ね。ちょっと替わってくれるかしら」
「はーい、分かりました」
言われて素直に、エリが端末を両手で差し出す。京太は怪訝な顔で受け取って頬に付けた。
「もしもし。えっと、誰で…」
「こらっ、京太。いつも遊びで使うなって言ってるでしょ!!」
「いや、俺じゃない。き、切るから」
京太が簡単な操作にも慌てて両手をせかせか動かした。ソファーで足を組んだエリへ体を傾けて怒りをあらわにすると、彼女は平然と横を向いて両手を広げた。
「すぐにバレちゃった。誰かさんが言ったのと違うんだ」
「それなりの相手にしか効かないんですよっ。信じそうな人とか、年とった人とか」
脇に立った少年が詰め寄ってツバを飛ばし、エリは眉をひそめた。しかし、はたと耳に入った言葉を頭で反芻し、もう一回借りようと彼の前へ手のひらを見せた。反対の垂れてきた髪を耳にかけ直してヘアピンを触って先日会った人物を思い浮かべた。唇の形を新しいセリフに合わせ、真剣な目の真ん中で大きな瞳が輝いた。