中学三年のエリは三十歳独身の彩香と夏休みに共同生活を送り、新学期を迎えて施設に帰った。
彩香の夕食も再び叔母・ちはると二人。だが、週末にエリは舞い戻った。カフェで彩香がコーヒーを淹れると、奨学金審査に落ちて朋己と舞島学園に通えないと困った顔を見せ、「ここで働く」と訴えた。ちはるがエリを説得し、その間、彩香は来訪した母・志穂に彼女の事を打ち明けた。
後日、桂木家に来た京太が隠し子と偽って家族になった人の話をエリにした。彼女は彩香の実家に電話をかけ、声の主に招かれた。鳴沢の家を訪ねた少女のセーラー服に老婆が目を細める。
高齢のちひろに死んだ母からの手紙を渡し、隠し子と通じるのか。エリは岐路に立たされた。
追憶の主人公
政令指定された鳴沢市で中心部へ比較的アクセスの良い鉢野区。住宅街の広がる丘の頂上付近に作曲家『ちひろ』が建てた家は近所で桂木邸と呼ばれる。百五十坪を超える敷地に洋風瓦がなだらかな寄せ棟の屋根をふき、古い外壁はこまめな塗り直しによって白さが保たれた。
屋根まで吹き抜ける桂木邸中央のリビングは二つの天窓で明るく、一枚板のテーブルは子や孫が一堂に会して話し合う場所だった。ちひろは端に片手をついてエリの脇に立つ少年を見上げた。
「ところで裕太、こんなとこ来てサッカーはいいのか」
「違うよ、京太だって。ちゃんと俺の顔見て」
「ん、眼鏡かけて…アイツによう似とる、孫だな。キャプテンだと聞いたが本当にモテるんか」
「ひ孫だよ。それにストーブの柵へボール蹴って喜ぶアホがモテる訳ねーし」
「ああ、あっちが裕太か。そーか、そうか、草加クッキー」
彼女は会うと大きい声でギャグを言った。京太が乾いた笑い声をあげ、つまらなくても仕方ないと高齢の曾祖母に付き合う。彼をつんつんとエリが突いた。口元が「旦那さんは?」と動くのを見て京太は亡くなっている事を耳打ちした。ふんふんと頷いてエリはへその下をさすった。平たく膨らんだセーラー服の中に手を入れ、スカートに挟んだ封筒を掴んだ。一瞬、タンクトップがめくれ上がり、ちひろの前に両手を添えて差し出した。
「これ、私の死んだ母からの手紙です」
「なんと、あたしに破れかぶれラブレターを読んでくれだー」
「あ、ははは…はは…はっ……」
愛想笑いが得意なエリも目が死んで頬を引きつらせた。ちひろは機嫌を損ねるかと思われたが、封筒を鷲掴みにしてニッと笑った。背もたれのない長椅子を跨いでドスンと座り、テーブルの上に折り畳んだ手紙を広げて背中にぶら下げた鼻眼鏡に手がわさわさ。彼女は紙面へ首を伸ばす。指で文章をなぞって体を震わせる姿に、エリは振り返って安堵の表情を見せた。
京太は無駄な演技に小首をかしげた――正直に話したら、学費くらい出してくれるんじゃないだろうか――と訝る視線に気づいたエリが成功を確信して親指を立てた。彼は本人が満足しているならいいかと玄関の方へ目を逸らした。すると、扉の向こうからガラスに光が射した。
人影が映って徐々に大きくなり、扉を押し開けて女性が入ってくる。ストレートな髪にTシャツとティアードスカートの軽い装い。初めにエリが騙そうと考えた彩香の母・志穂が現れた。
「あら、こんにちは。よく来たわね、京太。今日は買い物行ってたのよ」
「こんにちは…えっと、どうしよう」
「まあまあ、ズボンをきちんとベルトで引き上げなきゃ。裕太が合わなくなったのを履かされてるんでしょ。美雪もケチだから」
まっすぐ近寄ってきた志穂が床に手提げ袋を置いた。エリはそっと横に移動し、ちひろを背中に隠した。とはいえ、すでに分かっていた。京太の腰に手を回そうとしてエリに目をやった。志穂は彼らが遊びに来たのだと思った。
「あなたたち、手を洗ったわね。じゃあ、みんなでおやつにしましょう。スーパーでお義母さんの好きな詰め合わせを買って来たのよ。エリちゃんもこんにちは」
「こんにちは。きょ、今日はちょっと野暮用で…」
エリは近づいた志穂に慌て、腕を後ろへ回してテーブルの角で手首を打った。不自然に傾いた上半身で制服からインナーがはみ出し、彼女が微笑みかけた。
「女の子も服装はしゃんとしないとね」
膝を床に付けて志穂はエリのタンクトップの裾をスカートに入れた。以前に会った時と違って髪を下ろし、老けた彩香といった雰囲気を感じさせた。エリは安心感を覚えた。立ち上がった彼女にお腹をポンポンと叩かれ、無意識にはにかんだ。
テーブルではちひろが視点も定まらずに口を半分開けたままでいた。優しい眼差しの志穂が長椅子でたたずむ老女を目にし、何があったのかと目を見開いた。エリの体を脇に寄せ、ゆっくり前に出た。
「お義母さん、どうされたんです。クリニックへ行きましょうか」
「おお、志穂ちゃん。これをあの子にもらってな」
ちひろは人差し指と紙の束を彼女へと出した。じっくりと目を通す女性の後ろで、エリがすーっと腰を引いた。志穂は振り向いて目をギロリとさせ、バックルを弄ぶ少年の腕をとった。
「ちょっと京太、台所に来なさい」
「えっ、まだベルトが留められないんだけど」
「いいから、一緒に来なさい」
彼女は京太の手を掴んで歩き、奥の戸を引いて入っていった。ピシャッと閉められてガミガミと叱る声が漏れてきた。エリは足音を立てずに忍び寄り、戸に耳を当てた。
「京太、どういうこと。お金を用立ててもらって何に使うつもりなの」
「知らないよ。エリさんの死んだ母からの手紙だし」
「嘘おっしゃい、コンビニの封筒で大切な遺書を残す人がいますか」
「それは時間がなくて駅前のローサンで印刷して……あっ」
「やっぱり、そうなのね。UFOを探しに木梢町の展望台に登ったりして、もう小遣いが無いんでしょ。それに漢字の間違いが多いわ。塾に行った方がいいんじゃないかしら」
志穂に問い詰められる京太。彼が変な事を言って話がややこしくなっては困る。エリはため息をついてテーブルに戻った。リビングの床でちひろが袋からお菓子のパックを取り出していた。抱えたまま開封して個別包装を掴み、頬に手を当てる少女へ一袋を放り投げた。
「あんたも食べなよ。おいしいから」
手前に落ちそうになり、エリは体を乗り出してキャッチした。ちひろは欠片を口にくわえた。
「ぼべでアイツは『オタメガ』と呼ばれててね」
「旦那…あ、お父さんの。どういう意味なんですか、それ」
「眼鏡かけたオタクって意味さ。歩行中にいつもPFPを両手で持って画面見てんの。額から血を流して帰ってきたことがあったけど、平気でゲームを続けてたよ」
「それじゃあ、軽症だったんですね!」
「うんにゃ、数針縫った。妹が手当して病院行ったし」
「ははは…はは……」
エリには冗談のように聞こえた。ちひろが記憶を掘り起こすのに目をつぶる。やがて、戸が開いて志穂が顔を見せ、荷物へ指を差して手を合わせた。老婆は卓上に肘をついて自分の世界に浸っていた。手提げ袋を拾い上げたエリは素直に台所へ向かった。
お説教は収まって天井に昼白色の灯が点り、志穂が受け取った袋をテーブルに置いた。台所はシンプルな六人掛け。彼女はニンジンやタマネギを出してエリに顔を向けた。
「もうすぐ暗くなるから車で送っていくわ。夕飯は食べていってね、アレルギーは大丈夫?」
「まったく平気です。ごちそうにあずからせて頂きます」
少女が丁寧に頭を垂れ、志穂は利発な女子中学生と思った。エリはちひろに隠し子と思わせるための延長戦にしめしめと口元を緩めていた。京太がテーブルの反対で手を振り上げると、食器棚の脇でオートの扉が開いた。目を離した志穂は鼻歌とともに袋から青々としたブロッコリーを取り出し、子どもたちが隣の部屋へ入ってパタンと扉は閉まった。
ソファーで脚を組んだエリは正面の巨大なスクリーンに向かって手を振った。が、思った通りに画面が映らない事にムッとして端に座る京太へ目を向け、青くなった手首に息を吹きかけた。
「イテテ……で、彩香さんのお母さんはうまく誤魔化せたの」
「ええ、反省して見せたし。勉強の事以外はくどくどと言わないんだ」
「じゃあ、オーケーね。けど、あのおばあさんって有名人だったの。彩香さんたちは何にも教えてくれなかったわ」
「そりゃあ、ちはるさんが良く思ってないからさ」
「ふーん。悪い人に見えないし、本当のお母さんなのに…」
エリはつるっとした革張りにもたれ、死んだ母を思い浮かべた。小さい座卓の前に朋己と座って食事を急かされたおぼろげな記憶が頭でリフレインしていた。
少女のテンションは天井が低くなった部屋で少し落ち着いた。後は渡した手紙を真剣に読んでいたちひろのリアクションを待つばかり。エリが菓子の小袋を広いローテーブルの手前にポンっと放り、頭を倒して出窓から薄暗い空を見上げた。判然としない過去はさておき、台所で流れる水音が聞こえてお腹を押さえた。