備え付け棚の上で数字のない壁掛け時計がコツコツと音を響かせた。エリたちは桂木邸の玄関から右へ入った所にある応接間にいた。120インチシート型テレビの黒い画面と向かい合い、長いソファーで夕食を待った。飽きてきたエリは肘掛けに顎を乗せてうつ伏せに寝転び、スカートの裾で足をパタパタさせた。逆側に座る京太が顔を端末に向けつつ、チラチラと横へ目を動かした。
「その…暇だったら、テレビを付けましょうか」
「そーね。でも、ひとんちで勝手なことして行儀悪くないかなー」
エリはソファーの外へ両腕を出し、壁際のリビングボードに飾られた盾やカップを眺めた。表彰された物の中には彩香の名前がなかった。がっくりと下を向き、ふと視線を上げた。
「あっ、あそこに映ってるわ」
ガバッと立ち上がったエリが足を上げてコーナーテーブルを大股で飛び越した。「ドンッ!」とフローリングに音を立てた。自動でシーリングライトが点り、照らされた透明の板に近寄って振り返った。目が合った京太はすぐ手を横に振った。
「見えてませんよ。け、決して白いパンツとか」
「彩香さんは黄色いパンツじゃない。あんた、ほんと目が悪いのね」
「ふぅ……けど、その画像って叔母さんの子供の頃でしょ」
彼が胸をなで下ろし、そろそろとローテーブルに沿って歩くと、台所の扉が勢いよく開いた。
「何を騒いどるんだ、京太。志穂ちゃんが怒っとるぞ」
「えー、また俺が悪いの。もう勘弁してよ」
京太は側面に置かれた三人掛けソファーの肘掛けに尻を乗せ、部屋の隅へ顔を向けた。彼の横に来たちひろは同じ方向に視線を注いだ。L字型出窓の角でエリが一枚の写真に腰を曲げていた。
「この制服でギター弾いてんの、千夏さんだわ」
「違うよ。それは私さ」
「えっ、ちひろおばあさま。それじゃ、これ何年前なの」
「そうだな、かれこれ六十年以上か」
ちひろはシワが八方に広がった表情を綻ばせた。灰色のスカートを履くエリが目を留めた自分の華やかだった高校時代。その隣にウェディングドレスと白いタキシードの二人が丸いフレームに収まっている。作り笑いをした男性へ指が伸びた。
「あの写真に写っているのがあんたのお父さんだよ、エリ―」
「へぇっ…あ、そうそう、見たことあるわ」
すっかり忘れていたエリはやおら上体を起こし、わざとらしく顔の前で手を叩いた。その揺れる髪の耳元で彩香にあげたヘアピンがちひろの目に入った。
「お母さんに買ってもらったのかい。そのパッチン留め」
「あ、いえ。母は小学生のときに死にまして」
「そうか、エリーも苦労してるんだね」
「ハイ、手紙の通りです。志望の高校は舞島学園なんですけど進学できるかどうか…」
「そういや、あの学校も変わったなあ。昔は低かったのに」
「高くて困ってます……おばあさま、なんとかならないでしょうかっ!」
ここぞとばかりにエリがソファーへ駆け寄って背に乗り出して懇願した。顔にひたむきな花を咲かせ、養育費をもらおうと大きな瞳に期待の色をにじませた。
少女の目を見たちひろは枯れた亡き夫への想いが呼び覚まされ、首筋を押さえて微笑んだ。
「まあ、アイツの忘れ形見だしな。私に任せときなさい」
「本当ですか。あ、ありがとうございます」
「夕食ができているから、志穂ちゃんとこにお行き」
ちひろが二人に手を上げ、廊下への扉を開けてどたどたと歩いていった。彼女の背中に向けてエリは小さくガッツポーズをした。ソファーの後ろから角を回って京太の前を通過し、ルンルンと台所へ向かう。彼はしばらく腕組みをしていた。ガラス越しに八十半ばの曾祖母があくびをするのが見え、小さく息を吐いてエリの跡を追った。
テーブルで待っていた志穂と並んだ深さのある皿。夕食はクリームシチューだった。座って手を合わせたエリは野菜のふんだんに入った料理をぱくぱくと食べる。社交的な優等生と思って志穂が話しかけ、彼女も兄や学校の事をぺらぺらと喋った。横の京太がスプーンでニンジンを端に寄せ始め、祖母が目ざとく注意して彼は口を尖らせた。料理について言い合う彼らをよそにエリは綺麗に食べ終えて周りを見た。残業で遅くなる彩香の父がいない台所はやや広かった。
「ちひろおばあさんが来ませんけど、どうしたんですか」
「ああ、お義母さんは食べ過ぎたらしくて就寝するそうよ。あなたたちも遅くなるといけないし、すぐ送って行くわ。片付けは機械にお任せだから食べたらガレージへ行ってね」
「はい、ごちそうさまでした」
エリは椅子を仕舞って隣の部屋へ行った。京太も残した野菜を頬張り、彼女に遅れないようにと立った。志穂の小言を耳に入れず、口をもごもごさせて退散した。
応接室の中央でエリは天井へ大きく伸びをする。彼女が後ろの京太に気づいて首を傾けた。
「やっぱ広くて色々と便利ね~。でも、ちょっと寝るの早くない?」
「ええ、年齢が年齢だし。それより、あの手紙で書いた母親が死んでると分かりましたかね」
「そりゃー、『私は生きていないでしょう』っていう表現でバッチリよ」
「だけど、生きてるみたいに聞いてましたよ。それに『任せときなさい』なんて言う時ほど忘れてしまうんです。中学の入学祝いも結局くれませんでしたし」
京太は端末を操作してメッセージ動画を再生した。二年前の動画に映るちひろは染めた髪の色こそ違うが、寒いギャグや京太を裕太と間違えるのは同じだった。画面を覗いたエリの目がみるみる点になった。
「これじゃ、お兄ちゃんと舞島学園に…」
真っ黒なテレビ画面の前に立ち尽くしたエリは捕まえた獲物が手からするりと抜け落ちたようなショックを受けていた。
ガレージに行こうとして京太が出口へ向かった。ちひろはすでに寝てしまって起こす訳にもいかないし、後は帰るだけだった。扉を開けて人差し指を玄関へ向け、室内に顔を振った。エリはセーラー服の半袖をまくって肩を出した。
「もうこうなったら、志穂さんに学費を払ってもらうしかないわ」
「わ、腕力にものを言わせて言うことをきかせる気ですか」
「ううん、彩香さんのお母さんも話せば分かってくれる。桂木家の家系は皆いい人なんだから」
「はぁ。それじゃ、今から…」
京太は部屋の方に一歩踏み出した。だが、脇を通り過ぎてエリが玄関へすたすたと行った。彼は首をひねった。しゃがんだ彼女はスニーカーに足を突っ込み、立ち上がった。
「何、ぼーっとしてんの。ガレージに行くわよ」
エリの地団駄を見て京太はあたふたと応接室を出た。彼の頭に何かが引っかかった。
チィリーン、チィリリーーン……
台所のラック前で老眼鏡を掛けた志穂が薄い説明書を広げていた。めったに使わない装置に皿を微調整して扉を閉めた。電子食器洗い機のパネルをポチポチ押して起動させ、床の買い物袋に腕を伸ばした。手にしたスマホに彩香の名前が点滅する。握った手の甲で髪をかき分け、耳に当てた。
「母さん、そっちにエリが京太くんと行ってるでしょ」
相変わらず不挨拶な子だが、いつもと異なる切迫感があった。片時答えないと催促する程。
「ねぇ、どっちなの。早く教えてってば」
「挨拶もしないで何ですか。ええ、一緒に来て食事を済ませたわ、今から送っていくところよ」
「やっぱりか、お姉ちゃんがGPSで家だって言ってたし。エリのやつぅ~」
娘が怒っている様子に、志穂は意外そうに画面を前へ持ってきた。数ヶ月前に出会ったエリを心配する顔が映った。閉じた説明書をラックの端に立て、口をマイク部に近づけた。
「ちょっと落ち着きなさい。エリちゃんに一体何があったというの」
「そ、それがエリは帰ったら居なかったの。黒板に『私は生きていないでしょう』って走り書きが残っててもうビックリ。お金が欲しくて早まったことしないかと…」
「ははあ、手紙の下書きか……切るわよ、私はもう出るから。あ、それと美雪に連絡しといて」
「分かったわ。じゃあ、お母さんも道中気をつけてね」
最後は妙にしおらしかった。エリを相手に苦労しているせいなのかと思った。それによって周りの人への接し方がましになるのなら喜ばしいことだった。志穂はサイドポケットからバレッタを取り出し、手早く後ろで長い髪をくるくると、お団子を作って根元を留めた。帰りに少女が現す本性とも向き合うつもりでいた。老眼鏡を静かに外した。彼女のうなじが白い玉のように光った。
ガレージで志穂を迎えるエリは車にもたれ、何度も目をしばたかせる。朋己と舞島学園に通う資金を得る計画の第二幕が開いた。