「それじゃあ、暗いけど気をつけてね。飛び出しちゃダメよ」
車の前で志穂は帰っていく京太の自転車へ手を振った。彩香に彼を送り届けてもらうつもりだったが、桂木家に到着して車をカフェの入り口に止め、降りて気が変わった。門に立つ彼女が息を切らして駆けつけた。助手席の窓をバンバンと叩いて開けさせ、沈着な態度のエリにいきなり食ってかかった。自転車が角を曲がって志穂が振り返ると、まだ彩香は覗き込んで怒っていた。
「帰ってくるまで玄関開けっ放しだったのよ。ちょっと、エリ聞いてるの」
「聞いてるしー。でも、姉さまがタイマーロックを切ってたんでしょ」
エリはいい加減嫌になり、シート脇に手を伸ばした。徐々にリクライニングが倒れ、カッとした彩香は窓に体を突っ込む。Tシャツのぴっちりした脇腹がセンターピラーに食い込んだ。
「こら、逃げるな。閉めていかなかったのが悪いんだぞ」
「えぇー、違うじゃん。バイク整備する時の出入りが面倒で電源を切ったせいだし」
「そ、それは…ちはるさんが帰ってくる前にちゃんと戻してるんだから」
「じゃあ、わたし関係ないもーん」
「あー、開き直った。わー、わー、悪いんだー」
彩香が太い脚をバタつかせた。その有り様を見た志穂は顔を押さえ、大きなため息をついた。
「彩香、ちょっと来てちょうだい」
一度呼んでも窓から首を出した彼女は突っ立って動かない。横着な娘に怒るのを我慢し、志穂は大きく手招きした。母の元へのそのそと彩香は歩いてきた。
「何なの、まだ終わってないんだけど」
「私がエリちゃんを施設に送って行くわ。あなた、明日出勤でしょ」
「え、母さん休み?」
「明日の受け持ちは午後からなのよ」
「そっか。教師ってラクね~」
「何言って…まあいいわ。それより、今度来る時までに叱り方くらい覚えときなさい」
「はぁ……イテッ」
ぽかんとする彩香のおでこを軽く叩いて志穂は運転席へ向かった。ドアを開けると、助手席の窓が閉まってシートはちゃんと戻っていた。エリの要領の良さに感心しつつシフトをDに入れ、額をさすってへらへらと笑う娘へパッシングした。彼女の側を通過する際、安堵して浮かれる姿に頼りない印象を受けた。
車は路地でUターンして新舞島駅の通りに来た。二人になった車内が大型トラックと擦れ違って振動した。最終バスが戻ってきた駅前を過ぎ、志穂はおもむろに話しかけた。
「ところで彩香とはどこのバス停で会ったの」
「あ、はい、舞島市民病院前です」
「ああ、あそこは通ったわね。いきなり『こんなとこで暇そうね』とか言われたんでしょ、彩香は挨拶が苦手だから」
「はっ、ど、どーだったかなー」
「でもね、私はあの家に子どもがいれば事態が違ってくると思うのよ」
「ハイ、旦那さんの一人や二人。すぐ見つかります!」
エリはとぼけながら答えた。舞島学園に通う学費をもらう作戦の話を蒸し返されないように軽口をたたき、視線を車道から脇へ逸らした。志穂はハンドルの下に手を置き、顔を動かさずに前を向いて続けた。
「エリちゃん、桂木家の子になって彩香を困らせてくれない?」
「えっ、わたしが姉さまの…」
「違うわ、私の養子にならないかってこと。当然、朋己くんも一緒に。そうすれば、舞島学園にも通わせてあげるし、いい話だと思わないかしら。さっきみたいに彩香の手を焼かせて欲しいの」
「本当にいいん……で、でも、それって迷惑なんじゃ」
降って湧いた提案に困惑し、エリは大きく見開いた瞳を志穂に振り向けた。彩香を困らす事に背徳感があった。反面、兄のもとへ来れる願ってもない話に心が躍った。
エリの気持ちの整理がつかないまま車は交差点を曲がった。歩道に立つ案内板が小さく見え、信号からは五十メートル以上距離がある。再び市民病院前のバス停。そこに座っていた自分を親切な彩香が見つけてくれた。ゆったりしたシートに腰を沈め、エリは窮屈そうに身を縮めた。助手席に目を向けた志穂が不安を振り払おうと手を振った。
「あ、全然いーのよ。どれだけ迷惑掛けても一向にかまわないわ」
「そんな…彩香さんを困らせるなんてできません、わたし」
口を結んだエリが俯き、車内は静けさに包まれた。志穂はバックミラーに目をやり、Pスイッチをちょんと押した。勝手に速度が落ちた車は路肩に寄り始めた。完全に止まってハザードランプが点滅し、志穂は体をひねってハンドルに肘を掛け、彼女に目を細めた。
「彩香に悪いと思っているのね。有難いけど、もっと長い目で見て」
「長い目?」
「そうよ、桂木家での彩香の立場を逆にするの。あの子は困るとちはるさんを頼ってばかりで物事の対応力に欠ける。だから、エリちゃんが問題を起こし、彩香が解決する構図に変えるのよ」
「それじゃあ、姉さまのためなんだ」
「ええ、とんだ親バカでしょ。けど、彩香が少しでもしっかりしてくれれば言う事はないわ。あなたに義理はないし、嫌なら断ってちょうだい。ちはるさんにもなるべく助け舟を出さないようにお願いする。家庭がある人とはいつまでも一緒に居られないもの」
言い終えた志穂がドサッと座席にもたれた。エリも両腕を伸ばして体を後ろへ倒し、夜空を見上げて頬を緩めた。カウンターに彩香の淹れたコーヒーが置かれ、トレーに載せてテーブルに運び、目の前の女性に遠慮する朋己に笑顔で差し出す――カフェの甘い生活を頭に描いた。嬉しそうな彼女の表情を見届けた志穂は一つ肩の荷が下りた気分だった。街灯に照らされた前方を眺め、ぼんやりして両目を閉じた。
エリはフロントガラスの角にある車検ホロデータの有効年月日に気づいた。「いつまで困らせればいいのかな」と疑問を口にする。ふっと顔を向けると、志穂が低い声でブツブツと言った。
「ニガサナイ…ムスメシルカラ…」
「うわっ、また白いやつだ」
「ふぁ~あ、ちょっと眠っちゃったわ。寝言とか言ってたかしら、私」
志穂が口に手を当てて姿勢を正した。エリは首をブンブンと横に振り、背けた体をゆっくりと戻した。ふーっと大きく息を吐いた彼女に今日の疲れが襲ってきた。
車を発進させようと志穂は目をこすってサイドミラーに視線を向け、三角窓に目のような模様が見えた。ガラスの前で首をかしげたが、定期的に変わる流行りのホログラムかと考え、自動車にも詳しいちはるが夫に購入を薦めてくれたのを思い出した。志穂がエリへ振り返った。
「あ、それで、朋己くんと相談して返事を聞かせて……って眠たそうね」
「うぅん…お兄ちゃん…姉さま」
エリの答えは夢うつつ。当初の目的を果たして朋己と高校に通う道が開け、彩香と食卓を囲む賑やかな毎日が始まる。進学校に変貌した舞島学園への合格も余裕に思えた。シートで安心しきったエリが寝息を立て、こくりこくりと揺れた耳元でピンクの髪留めが多くのばらけた毛を一か所に集めていた。少女は桂木家に迎えられ、一月後には家族となる。気持ちよく眠っている間に、車が山あいの家庭から漏れる明かりの少ない田舎道をひた走った。後は児童家庭施設で荷物を整理して過ごすだけ。兄に会いに行くため、もう長い時間一人しゃがんでバスを待つことはなかった。
―― 次章予告 ――
エリは桂木家の一員になり、養子の件を断り続ける兄の朋己に会いに舞島学園に行く。だが帰った後で替わりに京太の妹・みちほが居た。彼女と一緒に帰る途中、公園にアクマが… ⇒FLAG+13へ