中学生のエリは7月の日差しが注ぐ新舞島駅の通りを兄と喫茶店へ向かっていた。
同じ頃、桂木彩香は弟のような純一と婚約者・遥の仲に嫉妬してバイクショップを飛び出した。
歩道でエリたちの後を付いていく彩香だが、街路樹につまずいて二人を見失う。その後、バス停で兄と別れて寂しそうな彼女を見かけて元気づけようと声をかけた。けれど不審人物として睨まれ、誤解がとけても既婚者と間違われて散々な目に。
彩香がそれまでの鬱憤をぶちまけ、お姉さんの怒りに困惑してエリは頭を抱えるのだった。
兄の帽子を抱えて
彩香とエリは建物の日陰が届かないバス停の案内板前で向かい合った。舞島市民病院の救急車搬入口と道路を挟んだ反対側の歩道。海から山へ走る市道はジメジメした南風が吹き、太陽熱を吸収した自動車の通過で車道周辺は気温が上がっていた。
青信号に変わった交差点から物流トラックが発進し、遅い速度で立て続けに通り過ぎた。ドライバーの衆目を感じた彩香は熱くなった目頭から力を抜いて少女へ傾いた体を起こした。
「私は別に怒ってないの、いい?」
軽く首を横に振って前置きし、努めて冷静にと自分自身に言い聞かせた。キャップを押さえて見つめてくるエリに顔を下げ、顎の目立たない丸く小さい顔に口調を優しく語りかけた。
「社会には悪い大人がたくさんいるの。ニコニコして近づいてきても、何を考えてるか分からないでしょ。だから、他人にむやみなことを言っちゃいけないのよ」
「はい、お姉さん」
少女のしっかりした返事を聞いて彩香はうんうんと頷き、新しい呼び方を耳にして満足げに腕を組んだ。それにしても、見たところ彼女は中学生。首にタオルを掛けて腰の辺りからペットボトルが飛び出し、近隣の公立校ではないセーラー服は襟が薄い灰色でスカーフがない――平日にバスで来て向かった先はどこだろう。
瞼の下がった両目からは歩道を歩く楽しそうな兄妹の後ろ姿が影を潜めた。なかなか頭から離れない左手とエリの沈んだ様子が気にかかった。
「ねえ、今日はどこかに行ってきたの」
「あ、はい。イナズマートに行ってきました」
「あなた達もいたのね、そう」
同じ店内にいた驚きよりも、大した答えの返ってこない不満が勝った。もっと賑やか場所を想像していたせいか余計にモヤモヤした。普段はあまり使わない頭に強い日差しを浴び、思考が停止して彼女をぼーっと眺めた。
彩香が首の後ろにある不快な湿り気に手をまわした。エリも左手を離してタオルの端を持って頬に当て、キャップが心持ち前に傾いた。ようやく、彩香はそれがやや大きめだと気づいた。
「それっ、お兄さんの帽子でしょう」
「え、はい。どーしてわかったんですか」
エリは顔を上げて驚いた表情を見せた。仰ぎ見る少女の反応に彩香はすぐさま胸を張った。
「ふふふ、私にはそんなの見ればすぐ分かるのよ」
「……兄と喫茶店に行くところでした」
上調子な彩香に目を合わせず、エリは浮かない顔で両手を頭へ伸ばし、かぶっていた形のまま兄の帽子を小さな胸に抱えた。実現しなかった約束を残念に思う気持ちがいっぱいになった。彼女は下を向いた。けれど恰幅のいい体は伏し目がちな視界にも広く大きく映り込み、朗らかに話す彩香の腹は見たくもないと目を背けた。ところが、考えてもみない言葉が耳に入ってエリの視点は引き戻された。
「これから、うちに寄っていかない?」
彩香は少女を真っすぐ見ながらこめかみから汗が滴る広がった頬をさすった。エリは喫茶店へ行きたかったのだ。そうと分かれば、彼女にぴったりの場所があった。
「私の家にカフェがあるんだけど」
「えっ、ほんとに…」
「う、うん。バスが来るまで時間あるし、ここに居ても暑いしさ」
下ろした腕からためらいつつ彩香の手のひらが差し出された。怪しいオバさんだと思った人がカフェをやっているなんてエリには意外な事実だった。柔和な顔を向けた女性の手は分厚く頼もしく見えた。
「わたし、行きます!」
キャップの後頭部をしっかり押さえ、つばを左右に回して眉に重ねた前髪を出した。斜めに深くかぶり直して準備OK。彼女は彩香の手を取った。
掴んだ手のひらがネバネバして見上げた顔に額から雫が垂れ、エリがさらりと首からタオルを巻き取った。その手を伸ばしてニコッと。彩香の鼻先に少々酸っぱい匂いが漂ってきた。それでも自分の背中のような嫌なベタベタ感はなかった。彩香は遠慮がちに顔や首の汗を拭い、礼を言ってそれを返して頭を掻いた。
エリは受け取ったタオルを再び首に引っ掛け、取り戻した元気と明るい太陽の光へ前を向く。
「さあ、行きましょう。お姉さん」