日曜は十月にもかかわらず蒸し暑く、午後はよく晴れた。住宅街から橋を渡ったエリは細い農道を歩いて黒田家の前まで来た。暑い中、帽子をかぶる男性が塀に沿って道路を箒で掃いた。彼女が会釈して「お仕事、大変ですね」と門を入り、その半袖シャツとスカートの少女は二階のベランダから見えた。
京太が階段を裸足でドタドタと下り、廊下の角で体をひねって玄関へ向かった。うろうろする小さい人影がすりガラスに映り、忍び足で歩く。彼は戸をガラッと引いた。長袖の部屋着を前にしてエリが上へじとっと目を向けた。
「イ、インターホンを探してたのよ。イタズラなんかしてないわ」
「見えてたから分かってます。だけど、勝手に開けて入ってきたらいいのに」
「家族が居るんでしょ、いくら何でも失礼じゃないの」
戸へ伸びた京太の腕を押しのけ、エリは玄関に入った。土間は泥土の付いたゴム長、甲にシワが寄る革靴、ねじれた紐のスニーカー等々の家族の履物が散らばった。
「へー、靴がいっぱいだ。それにうちより広いかな」
玄関の雑多な光景を物珍しそうに見回し、下駄箱の反対にきちんと揃った学生靴と折り畳んだ車いすを目に入れてスニーカーを脱いだ。ホールにスリッパを出した京太が奥へ真っすぐ行った。縁側の白いカーテンから射す日光が暖かさをもたらし、兄妹間のわだかまりが解ける結末を予期させた。壁に手すりが設置された廊下へエリは彼の跡を追った。台所は扉が大きく開けられ、彼女が蝶番に手を掛けた。
「わたし、みちほと話しに来たの。遊んでる場合じゃなくて」
「まあまあ、外は暑かったでしょう」
テーブルでは二つのコップにペットボトルのお茶が注がれ、やむを得ずエリは腕を下ろして足を進めた。ほくほく顔の京太は片方を手前に押し出した。
「公園に悪魔が居てエリさんも悪魔の魂を持つ。いやぁ~、悪魔がいれば宇宙人はいますね」
「そこまでは言ってないから。で、わたしのバディとして申請してくれた?」
「まあまあ、慌てない慌てない。それより、怒野ユイって名前を聞いた事ないですか」
「はぁ。誰なのよ、それ」
エリは座面に尻を向け、すぐ立てるように椅子の背に手を掛けて腰を下ろす。側に落ちるビーフジャーキースティックの小袋を指でトントンと叩き、もどかしい表情を京太へ向けた。正面に座った彼はお茶を一口飲んでから楽しげに話した。
「知らないんですか、鳴沢駅の近くに自社ビルが建つ角研の社長。有名な超常現象雑誌『メー』の出版元だし。そうそう、今月の特集は世界各地の異星人の伝承が集められてて海外の専門家による解説付き。それが結構あるんですね~。怒野社長もそういう方面の研究家だろうと思ってたんですけど…悪魔だったんですよ。エリさんが考えた方法は正解でした、彼女のバディになれるとは」
「ふーん、ハクアさんの会社の……え、今何か言った」
またオカルト話が始まったと思ったエリは話半分に聞いていた。「バディ」の一言を耳にし、そろりと立った。破顔一笑した京太にきょとんとすると、背後で低い声がした。
「やあ、来てたのかい。こんにちは」
台所の扉口で鴨居との隙間が見えない大柄な男性がキャップを取った。エリは振り向いて口を押さえ、後ろへ手を振ってきょろきょろした。戸惑う少女へ彼は細い目をさらに細め、ふらっと出ていった。
階段を上がる足音が響く壁に、エリは下から上へ向けて指差して驚いた声を上げた。
「えぇっ。前の道路を掃いてた人、市の清掃員じゃなかったの」
「外で父さんを見たんですか。まあ、家の掃除や片付けは母さんに言われて義務的にやってるんですよ。そのお目付役がママさんバレーの大会でいないし、これからベッドで昼寝です。俺も眠いっす、ふぁ~あ」
京太が大口を開けてあくびをした。昨夜は冥界から返信されたバディの許可通知に添付した駆け魂回収マニュアルを全部読むのに夜中までかかった。眠気もあり、いつもより軽口。だが彼の見方はエリとは違った。腕を抱えた彼女は京太の内輪話をふんふんと聞き流した。
「うん、おじさんも背が高いのね。きっと三世代に渡って真面目なところも遺伝してるんだわ」
京太の祖父がカフェのシャッターを直し、父が掃除を黙々とこなすのを見て妹にも同じ好印象を持った。みちほと話すつもりで来たはずだったとエリが首を振った。台所で油を売っている場合ではなかった。テーブルで京太が眠たそうに目をこすり、彼女はひとまずバディの事を後回しにして一人で廊下へ出た。
エリは北東の台所から廊下の和室側の手すりを伝い、西へ歩いて奥で壁に背を向けた。若干へこんだ反対側にある戸を両手で静かに開けた。入り口の脇にコンパクトな車いすがほこりをかぶり、部屋はやや長細いフローリングと小上がりに別れた。シェードの下りた先からガヤガヤとする声が聞こえ、人の居る気配がした。高窓から明るく澄んだ青空が覗き、端に天井から垂れる紐が見えて抜き足差し足で入った。
隅に学習机があり、壁に貼られたカレンダーに目をやった。『△』が縦に並び、『×』は所々ある。顔を戻して側にある紐を二本とも握って引いたが、シェードは動かなかった。イラつき気味に一本を強く引っ張った。瞬く間に小上がりの半分が全開した。
息を呑んだエリの前に障子付きの窓が白い三畳の和室。布団は寄ってくちゃくちゃになり、髪の短い少女がうずくまって緑の背中を見せる。彼女はワイヤレスヘッドフォンを着けていた。順番に顔を向け、角を塞ぐ薄型テレビ、手元のノートPC、壁に垂れ下がったシート型テレビと三ヶ所へ目を配った。時折、じっと一つを見やって固まった。
「でへへ、つくづく和哉はいい人だなぁ」
みちほが一人でのろけてへらへらと笑った。彼女は警戒心もなく、だらしなく頬を緩めた。
30cm程度の高さにエリは手を付いて膝を乗せ、畳を這った。斜め後ろに近づいた所で両耳からイヤーパッドが外れた。みちほはくるりと上体を向け、ボロボロと肉片が口から落っこちた。
「こ、これが本当のみちほなんだ…」
驚愕するエリがスリッパで立ち上がった。腫れぼったい目の少女がほつれたジャージを着てあぐらをかき、ビーフジャーキーと書かれた大きい袋と空の小袋が周りに散乱した。壁際の板の間に色褪せたゲーム機が置かれ、三つの画面はそれぞれ美少年のグラフィックが映っていた。甘い言葉で女子に告白するシーンはエリを唖然とさせた。
せわしない大きな瞳と見上げる細い目が向かい合い、みちほも驚きを隠せなかった。が、エリの顔から面食らっているのを即座に見抜いた。平然と後ろへ体を戻し、コントローラーをパパッと叩く。男子に口説かれる音声を部屋に流しながら彼女へ出ていくように言い立てた。
「土足で畳に上がられちゃ、わたしが後で掃除しないといけないんですけどー」
「へっ、あ、これは……ううん、こんな気色悪いゲームはやめなよ」
「これは心外な。どれも十万本以上売り上げがある立派な作品です、京兄の買ってるオカシナ雑誌と違ってさ。あんなのと付き合ってると他人から変な人と思われますよ、エリさん」
「うそっ…」
みちほが鼻の先でせせら笑い、エリは言葉に詰まった。昨日から抱いてきた物静かで誠実な像はあっと言う間に崩れ去った。同時に兄妹の確執は京太が悪いという一方的な考えが消え、兄を兄とも思わぬ妹に腹を立て、顔も見たくないと振り返った。
カッとしてエリはフローリングへ跳躍し、荒っぽく引き戸を開けて出た。部屋の真向いで京太が頭の後ろに手を組んで壁にもたれていた。戸を閉めた彼女の口からみちほへの文句がこぼれた。
「あんたの妹どうなってんの。ゲームの絵と恋愛ごっこしてたわよ」
「ははは、2Dの乙女ゲームですね。母さん以外は勝手に入ってこないから驚いてたでしょう」
「京太の事も小馬鹿にしてさ、笑っている場合じゃ……あー、吐きそう」
エリは恥ずかしいセリフを思い出して喉を押さえ、廊下のどん詰まりに寄って手をついた。京太は悠長に顎をさすり、はたと手を止めて視線を動かす。ニヤつく顔で見られた彼女が目をパチクリとさせた。
「何よ。わたし面白いこと言ったかしら」
「そうじゃなくて、机のとこにあるスケジュール表を見ましたか」
「え、壁のカレンダー?」
「はい、毎月一定のバツが付いてて桂木のばあちゃんによると休む日と決めてるらしいんです」
「学校が嫌いとかじゃないんだ。じゃあ、みちほも不良少女だったのね」
段々になった壁から手を離し、エリは直立して腕を組んだ――出席日数を計算してるって訳か、ちゃっかりと。
「あれぇ、『も』って他に誰がいるんですか~」
調子が外れた京太の問いかけは考え始めた少女には届かなかった。うまく挑発され、怒って部屋を飛び出したのが悔やまれた。みちほは中一でありながら知恵が回る。実際の性格は単に大人しいだけではなかった。だとしても、気に入らない兄を蔑んだり、登校拒否で祖母を心配させたりして家族を顧みない言動は許せないと思い立った。
「京太を慕わせ、学校をサボらせない、乙女ゲームをやめさせる。新しい作戦を考えなきゃ」
エリの顔は閉めた戸へ向き、スリッパが床を叩いた。我がままな妹を部屋に放って京太はのんきに口笛を吹いた。やはり兄としては朋己が一番だと思わせた。とはいえ、今は自分が快諾した養子の件に難色を示す彼とは会いづらい状態であり、当分の間は待つだけだった。エリは腰のベルトに手を当てて二階の天窓から日差しが入る階段の前を見据えた。不確かな兄妹の先行きに明るさをもたらそうと、みちほの問題を解決する事を最優先に掲げた。