二人は新舞島駅の通りに戻り、駅へ向かってその一つ前の交差点を曲がった。飲食や雑貨の小型店舗が並ぶ道路をしばらく歩くと、月極駐車場の脇へ斜めに勾配を登る枝道に入った。曲がり角で四角いミラーが電柱を賑わし、路地は対向車がスピードを落として通過する。車二台がギリギリで擦れ違う住宅街に来て物音も少なくなった。彩香は音量を抑えて会話を続けた。
「そう、寮に帰ったんだ。舞高生は商店街を通るから、お兄さんは急に用事を思い出したのね」
「そーなんですか。お詳しいんですね、お姉さん」
「ここに住んでもう十……な、長いのよ」
「それじゃあ、お家にはご家族とお住んでいるんですか」
エリがおかしな敬語に一生懸命。中学生の少女に小さい見栄で年齢をぼかしたことを彩香は悔やんだ。着飾った態度では一緒に居ても楽しくないはずだと、彼女のキャップ下へ顔を傾けた。
「エリちゃん、無理して丁寧にしゃべらなくていいわ」
「はい、『家族と住んでいるんですか』ですか」
「ううん、『家族と住んでるの』よ。で、私は30歳で今はとりあえず一人。でも叔母さんが毎日のように来てくれるし、お姉ちゃんの家も近いし、バイク屋も親戚。ま、母さんは別に来なくても」
「オバさんもいるん…の?」
「ええ、父さんの妹なの。年齢は私やお姉ちゃんに近いんだけど」
「姉さんの家族って、色んな人がいっぱいね」
エリは顔を前に向けて小さい歩幅で、彩香は「そうよ」と彼女に合わせてゆったりと歩く。緩やかに続いた長い坂道を下り切って十字路にたどり着き、右へ曲がって広くなった道路は少し上りに変わった。平日の人がいない住宅街の道を二人はのびのびと歩いた。
角に建つ庭木に囲まれた家の向こうは開けていた。路地に近づくと水平なフェンスの乗る塀が見え、さらに進むと塀の上から壁が薄黄色をした二階建ての家が姿を現した。敷地隅にある門扉にエリが駆け寄って柵から中を覗いた。家は1メートル弱高い所に建ち、門扉からスロープがLの字を描いてコンクリート舗装の駐車場を回り込み、一段高くなった正面の玄関ポーチへ繋がる。彼女は一階の途中から高い棟の三角屋根へ長く伸びる窓に圧倒された。
「あそこの塀がない場所から入ってちょうだい」
彩香が腕を伸ばして塀が途切れた辺りを指し、スマホを手にリモートで門扉を開けて玄関へとスロープを上った。無線による通信制御を備えた住宅は珍しくない。だが、それを知りもしない施設育ちのエリは片手で機械を器用に扱って入っていく女性へ羨望の眼差しを送った。スロープの先で玄関のドアが閉められ、彼女は塀の外側にできた坂道のでこぼこを踏みしめた。
エリは一本だけ生えた背が高い木の横を過ぎ、塀の端まで来て向こう側へ繋がれたロープの正面に立った。短い進入路が導く『カフェ・グランマ』と書かれた小屋に見とれた。細長い葉の樹木とウッドフェンスに挟まれた落ち着くたたずまいと赤茶色の三角形が合わさる屋根で覆った斬新なデザイン。早速、ロープのたるみを跨いで飛び越え、長方形のタイルが互い違いに隙間なく並ぶ小道に足を踏み入れた。表面がざらざらした舗装の上を跳ねるように歩き、狭い屋根の日陰にトンッと着地すると段差が見えない。体をひねって道路際にもなく、高低差が感じられない緩いスロープに「へー」と感嘆の声を漏らした。
後ろでカチッと外れた音がした。エリはCLOSEの看板が掛かった入り口に振り返り、ゆっくりと取っ手を横へ引いた。開けた隙間に顔を入れると真っ暗だが奥から光が漏れた。体を横にして中に入ったが、彩香の「すぐ電気点けるからー」と叫ぶ声に立ち止まった。
カフェはパッと明るく電気が点き、小さくまとまった店内が一目で見渡せた。入った場所は八角形の空間があり、左に二人用のカップル席と右に低いテーブルの家族席が配置され、そこから先は細くなって一本脚の椅子が並ぶカウンター席が奥へ延びた。L字のカウンターは突き当たり手前で曲がって壁に繋がり、その壁に開く扉の脇で彩香がパネルを操作していた。兄が連れていこうとした喫茶店に心躍らせたエリは両手を水平に広げて一回転して戯れた。
店内の窓シャッターが一斉に上がり、さらにエリの視界が広く明るくなった。天井に備わる吹き出し口から涼しい風が吹き始め、急いで入り口の戸を閉めると彩香がテーブルに歩いてきた。手にした雑巾を見せて申し訳なさそうにして。
「あのさ、拭くの手伝ってくれるかな」
頭を掻いた彩香は卓上へ目を伏せた。エリが指でテーブルをなぞると見事に跡が付き、ほこりの多さに目を丸くしてさっきまでの喜びが半減した。
「ここって普段掃除してないの」
「ごめんなさーい。本当のところ開店休業中なのよ」
「じゃあ、お客さんを入れてないの」
「そうなの。ははは、飲み物持ってくるわ」
彩香はテーブルに雑巾を置き、そそくさと出てきた壁の向こうに隠れた。一人になったエリはカウンターの脇から内側を覗いた。無造作に置かれる段ボール箱にカップや皿を見つけ、ほこりをかぶったシンクは錆てもなくカビも生えてなく、反対の隅は型の古い冷蔵庫が据え置かれた。
奥の扉から音程を外した鼻歌が聞こえてくる。少女は人のいい彩香と使えそうな物件を天秤にかけた。兄を思い浮かべた彼女が顔を綻ばせ、キャップを取って口元を隠した。
「きっと分かってくれるよね、姉さんも」
エリは片手で掴んだ雑巾でテーブルをささっと拭いて綺麗にし、光を反射した卓上にキャップを両手で丁寧に置いた。窓に近づいてサッシに立て掛けられたモップを握った。持ち手の位置を確かめて左右へブラブラさせると、乾いたヘッドを床に押し付けてほこりを一掃し始めた――よーし、このカフェを再開させるぞ。