新舞島駅裏の商店街でみちほが舌打ちした。整然と敷かれた石畳の通りは長方形の石の間に溝があって車いすが移動しづらく、平坦なアスファルトの路地へと入った。祖父の軽トラを降りてから二十分は経った。
エリに数回メッセージを送ったものの、返事どころか読まれてさえいなかった。彼女と駆け魂の回収を手伝う約束をした日から、みちほは放課後や週末に部屋で乙女ゲームを存分に楽しむ事ができた。それも舞島学園の早期選抜試験を受けるエリが家で勉強していた昨日まで。試験の終わった夜にメッセージをもらい、駆け魂センサーが指し示す方角の駅裏商店街で待ち合わせとなった。
みちほが狭い路地に置かれた自転車をよけて別の通りに出る時、太腿の辺りが振動した。
「やっとか。どの通りにいるんだ、エリ姉は」
腰のポケットに手を入れてM42を取り出した。魔力のない人間に駆け魂が見えるようにしてくれたり、駆け魂センサーといった冥界ツールが使えたりする以外はスマホと同じ。電話アプリの着信通知をタッチし、スピーカー部分に耳を当てた。
「それで、まだ家って一体いつ来るんだよ……あ、切れた」
眉一つ動かさずにみちほは通話終了の画面を眺めた。彼女が他人に迷惑を掛けて平気な顔をするのも承知の上。それを補って余りある電子機器を自在に操れる魔法を彼女は使う。フリマサイトで乙女ゲームを新たに五十本手に入れ、すでに三分の一近くを攻略した。エリ様々である。
M42を仕舞ってヘッドレストに腕を乗せ、仕方がないと空を見上げた。外は日差しがあっても風が吹くと寒い。エリが来るまでどこで過ごそうかと考えた。
この日、みちほは珍しく私服を着ていた。朝の台所で送ってもらおうと祖父に話したのを聞いた母・美雪が用意した。オフホワイトのタートルネック、濃いブラウンのジャンパースカート、ハイカットのブーツ。美雪が若い頃のものらしく中学生の娘には多少緩めだが、身長はあまり変わらずピッタリとはまった。おまけに、ケチな美雪が服を買ってきてもいいとお金をくれた。オシャレに興味を持たせ、家でゲームばかりしている子を何とかしたいという親心だったが、みちほは渡されたポシェットにちゃっかりとPFPを忍ばせてきた。
美雪が自分の娘に嬉々としてコーデする服装に、みちほは鏡を見てもピンとこなかった。時間に遅れそうになり、出がけにほこりをかぶった黒いダウンジャケットを掴んで部屋を出た。こちらは昨年祖母が買った安物でファスナーが壊れていた。通りから風がピューッと吹き、上着の前が空く彼女は大きなくしゃみをした。
「こんな所にいては風邪をひきますよ。商店街は初めてですか、お姉さん」
紺色のエプロンを付けた少年が前に立って揉み手で迎えた。みちほが呆気にとられていると、後ろに回ってグリップを握った。彼は車いすを通りへ押していき、路地の角にある店の戸をガラッと引いた。
「さあ、中に入って温まって下さい」
「うぇっ。ちょっと…」
ガラス張りの四枚の戸が並ぶ店舗は暖簾に『高原煎餅店』と書かれる。シャッターの下りた店が目立つ寂れた通りの一角にあった。外へ漏れる暖かい空気に誘われ、みちほは見るだけにしておこうと中に入った。
少年はパイプ脚の丸い椅子をテーブルの脇にどけ、いそいそと車いすのスペースを作った。
「ばあちゃん、俺走りに行くから。ゆっくりしていって下さいね」
エプロンを外した少年が袋入りの煎餅が並ぶショーケース上に置き、くりくりした目でみちほに笑いかけて店を出ていった。メーカー製のジャージを着る彼は伸びたもみあげと襟足がハネて幼く見えた。彼女は右側に空けられたスペースへ車いすを向けた。一つある小さいテーブルを囲んで壁に沿ってL字に細長いテーブルが置かれ、「試食」の紙が貼られた複数のガラス瓶に割れた煎餅がぎっしりと詰まっていた。
隅の石油ファンヒーターが足元を温める。みちほはダウンを脱いで脇の椅子に載せ、ポシェットの紐を首から外した。PFPを掴んだ彼女の耳にコツコツと響く足音が聞こえた。
「奥さん、お安くしときまっせ」
テーブルの横に来た人物の褐色の腕が伸び、卓上に湯呑みが置かれた。メイド服を着た外国人っぽい女性がお盆で顔をあおぐ。みちほはポシェットから手を抜いて一瞥して振った。
「頼んでませんから、わたし」
「いやいや、これはサービスサービス。煎餅はカネ必要」
「その…買う気ないんで」
「か、買う気ないって……せっかく起きたのに」
女性はお盆を脇に抱え、店の奥にスーッと消えていった。みちほは日本語が下手なバイトと思った。店舗兼住居の一階は中央から奥へ通路が延び、左側のショーケースの向こうが煎餅を焼く畳の部屋。住居と同じ高さにある部屋は接客しやすくするため前方の壁が取り払われた。頭に手ぬぐいをかぶる老女が土間に足を下ろし、つっかけを履いて立ち上がった。
背を丸めた老女は通路の奥を覗いて首をかしげた。手を後ろに組んで少女が一人で座る試食コーナーに来た。
「遠慮せず飲んでよ。無理やり買わせたりしないからさ」
車いすのハンドリム横に立って湯呑みを両手に挟んだみちほへ声をかけた。ゆっくりゆっくりと歩いてテーブルの反対側に回り、老女が丸い椅子に腰掛けた。
「ごめんなさい、あの子は接客を覚えてくれないの」
「気にしてませんが…」
「そう言ってもらえると嬉しいわ。まあ、人が来てくれるだけでも嬉しいけど。商店街が変わってからこっちの通りはめっきり人通りが減ったし、煎餅屋は儲からなくて……あらあら、何だか話が湿っぽいわね。でも、うちの煎餅は醤油味でパリッとして美味しいわ。創業百二十年、私がお嫁に来た時から味が全然変わってないのよ」
立ち上がった老女が側のガラス瓶の蓋を開けて上から一枚取った。体をテーブルの方へ向け、手のひらの半分くらいの煎餅を笑顔で差し出す。みちほは老獪なセールストークに聞こえた。シワが明らかに祖母より多く相当な高齢に見えるが、その割に口ぶりは滑らかでけれんみを一切感じさせなかった。受け取った煎餅の欠片を持ったまま上目遣いで老女を見た。
店名の入った紺の手拭いから白髪が覗く。老女は思い出したように口を押さえて微笑んだ。
「聞いてくれるかしら、転校してきた女の子を可愛いって言うの。孫もそういう年頃になったんだなあって。今日もきっと、あなたが素敵な女性に見えて声をかけたんだわ」
顔の前で手を組んで老女がみちほを見つめた。表情を崩さない少女も心の中で満更でもない気分になり、指で頬をぽりぽりと掻いた。面と向かって「素敵だね」とは時々言われる、乙女ゲームの攻略対象から。中にはこの店の少年のような髪型の2D美少年キャラが存在し、ファンタジー世界の小さい村でパン屋を営んだ――そういえば、彼の相談によく乗ってやったなぁ。
みちほは煎餅をバリバリと頬張り、含み笑いで乙女ゲームの記憶に酔った。しかしながら、現実は壁のそこらじゅうにキャッチコピーの張り紙と剥がしたテープの跡が多い煎餅屋。奥歯に詰まったカスを小指で掻き出し、彼女は湯呑みを傾けて後ろへ顔を向けた。
「この店って、一人でやってるんすか」
「ああ、おじいさんは今ちょっと出てるの。孫と家族三人の零細企業よ」
「家族三人?」
「…そう、三人さ」
急に老女は元気がなくなって肩を落とし、俯いて目を閉じた。かと思うと、すうすうと寝息を立てた。リアルは往々にしてグダグダな展開になるものだ。手持ち無沙汰になった彼女は膝に載せたポシェットをテーブルの端に置いた。手をゴソゴソと動かして腰からM42を取り出し、画面に指を擦らせてメッセージアプリを起動した。だが、エリからの連絡はなく、頬を膨らませて片肘をついた。
焦れるみちほが卓上を指でトントンと叩き、何十年と使われるテーブルが揺れて老女が目を覚ました。みちほは適当に相手をしておくかと割り切った。老女は端末をいじる少女を見て思いつき、パタパタと手を振った。
「そうだ、見たことあるかい。うちの煎餅も通販サイトで買えるんだよ」
「有名なサイトですか」
「サイト名は忘れたけど。とにかく、一月に三回は煎餅セットの注文がくるの」
「へー、割と売れるんですね」
「何言ってんだい、雀の涙にもなりゃしないわ。それに買ったのか買ってないのか分からん連中がマズイだの湿気ってるだの書きやがって。どんどん表示されるページが後ろに回されるシステムでさ」
「ははは…」
話を合わせたつもりが老女を怒らせてしまった。みちほは愛想笑いを浮かべ、飲みかけのお茶を前へ押し出した。頭に血が上る老女は湯呑みを掴んで一気に飲み干した。
「今じゃ検索しないと出てこなくて……あれ、飲んじゃった」
「あ、気にしないで下さい」
「もうね、年取ると記憶力が弱くなって困るのよ。新しいの用意するわね」
苦笑して老女が通路の奥に向かうが、みちほはもう一杯付き合う気にならなかった。テーブルに置いた端末の画面へ目を向け、遅れるエリにため息をついた。これ以上待たせるなら何かしてもらわなければ割に合わないと腕を組んだ。
「そういや、煎餅食っちゃったな」
みちほがメッセージアプリに指を弾き、遅刻の帳消しに魔法でして欲しい事をすらすらと入力した。内容は今いる高原煎餅店の通販サイトから悪いレビューを削除して評価を上げること。エリが頼みを聞けば、煎餅が少しは売れるだろうと軽い気持ちだった。意外にも、すぐにエリからOKが返信され、魔法の使用に関してはみちほの“貸し”になった。
「は、遅刻はいいのかよ。ったく、都合がいいんだから…」
自分勝手な年上の少女に愚痴を言いながらM42を腰のポケットに仕舞うと、店の奥からお茶を運ぶ足音がコツコツと響いた。メッセージには商店街の待ち合わせ場所が書いてあった。みちほはダウンを手にして車いすの向きを変えた。
ショーケース裏では画面の前で老女が慌てた。奥に鎮座するレジスターの斜め手前のノートPCでウィンドウが相次いで開く。彼女は肩から覗く女性にビクッと体を反応させた。
「驚かさないでよ、メル。テーブルにお茶運んでくれた?」
「うん。ところで歩美は何しているの」
「さっきから何件も通販の注文が来てて。おじいさん早く帰ってきてくれないかな」
「そうそう、これ落ちてた」
メイド服の女性は両手で老女の前へお盆を差し出した。モノトーンで長方形のポシェットと携帯ゲーム機が横たわり、ポシェットの金具は外れていた。老女が険しい顔をした。
「他人の物を持ってきちゃダメって言ってるでしょ。それに中身出しちゃって」
「違う、女の子が忘れてった」
「そう帰ったの、残念ね。あら、それは確かPFP……懐かしいわ、まだ売ってるんだ」
学生時代の残り香が漂うゲーム機に、スポーツに打ち込んだ当時を思い返して老女は苦手なPCの画面で次々と注文の確認ボタンをタッチした。畳に置かれたプリンタが音を立て、印刷した紙を一枚ずつ吐き出していく。積み重なった注文票へ満足そうに頬を緩めた。