ねーさま、ヨロシク!-桂木エリふたたび-   作:北河まき

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見つめるまっすぐな瞳

 彩香はお盆にアイスコーヒーを入れたグラスを二つ載せて両手で持ち、食器棚に転がるスナックの袋を指につまんで横の扉からカフェに戻った。桂木家は一階の端をカフェの店舗が占め、キッチンの壁に付けた扉から店内の奥まった短いカウンター席の後ろに出られた。

 カウンターの角で腰を浮かして軽快に曲がり、どんな話で楽しませようか考えつつ少女の元へ向かった。テーブルに近づくと道路に面した窓際だけが周りと違って見えた。テーブルと二脚の向かい合う椅子に輝きが戻り、周辺にほこりの消えた床が広がった。その側に雑巾で間違えて汗を拭くエリの姿。彩香はすぐ駆けつけてピカピカの卓上にお盆と袋を置き、彼女が持つ雑巾を投げ捨てて首に掛かったタオルで顔を拭いてあげた。

 

「やるじゃなーい、エリちゃん」

「エヘヘ、施設では毎日やってるから」

「そうなんだ。で、どんな施設に通ってるの」

「児童家庭施設です。両親が死んだので、今はそこで…」

「えっ」

 

 活発な少女が通うスポーツ施設を予想したが、施設で暮らす事情を告白する低めの声に戸惑って言葉に詰まった。母がボランティアで勉強を教える福祉施設の子が目の前に今、遠ざけていた母が身近な大きい存在に思えてきた。エリから離した手に二人の間が空く。途端に背中で冷房の効き目を感じ、聞きづらいことを避けて何から話そうかと思案を巡らせた。来る道すがら彼女が話してくれたのは、通っている中学校、バスでの出来事、兄の入学した舞島学園、兄が……。

 エリを座らせてグラスを勧め、彩香はスナックの袋をパーティ開けで広げた。彼女の前にドカッと腰掛け、片腕をテーブルに乗せて彼の話題を振ることにした。

 

「確か舞島学園の職業訓練コースだったよね、お兄さん」

「そーなんですよ。そんなの有りかって話で」

「私の頃は無かったけど、普通に授業するのかな」

「いいえ、工場で実習があるんです。そのせいで寮に入らないといけなくて」

「それで寂しくて遊びに来たんだ」

「その、それもそうですけど、実は…」

 

 兄の話はエリの口を滑らかにして会話が進み、楽しそうな彼女が自分の話に少しはにかんだ。

 

「お兄ちゃんが通う学校の下見も兼ねてと」

「ははあ、彼と一緒に通いたいのね」

「はい。今年、舞島学園を受験しようと思ってるんです」

「そうなの。金かかるわよ~」

 

 ハッとして彩香は頭の後ろに組もうとした両手をUターンさせた。養う親がいない子にお金の話をすべきではなかった。エリはアイスコーヒーを一口飲み、グラスに両手を掛けて静かに答えた。

 

「知ってます。白鳥育英会の奨学金に申し込みました」

「そう、ちゃんと考えてるんだ」

 

 思いがけずしっかりしたエリの考えに感心し、同時にホッとする。彩香は椅子に座り直し、手を背中にまわしてジーンズに挟んだ贅肉を引っ張った。彼女がグラスに片手を置き、つまんだスナックを一つ口へ運んで動きが止まった。

 

「わたし、お兄ちゃんしかいないから」

 

 彩香はその一言にジンときた。鳴沢の実家で母、父、姉、叔母、祖母、亡くなった祖父に囲まれて育った。舞島に来てからも、曾祖母、純一、親戚の人たち。周りに人が溢れる自分と違い、まだエリには兄しかいなかった。それを考えると自然と目に涙が込み上げた。テーブルの木目に逆らうように寄せた自分の大きな手を彼女の小さい手にそっと重ねた。

 彩香が顔にありありと同情の色を浮かべ、エリはテーブルに身を乗り出して兄の話を続けた。

 

「お兄ちゃんの側に居たいと思ってます。悪い女の人に騙されないか心配で」

「うまい話に乗らないようにね」

「ていうか、女子が苦手で口ごもるんでサポートしなきゃ」

「あら、エリちゃんが居たら余計に恥ずかしがっちゃうんじゃない」

「大丈夫です。落ち着いた雰囲気ですし」

 

 人差し指を立てて明るく話す様に、彩香は赤い目と鼻で作り笑いを返した。「また来ていいですか」と聞かれるのにも黙って頷く。エリが体を引いて前髪を揺らし、喜んでスナックに手を伸ばした。

 

「よかった、いい場所が見つかって」

「ん、いい場所かな…」

「はい。このカフェならお兄ちゃんも女子と仲良くなれるわ」

「えっ……。どーいうこと?」

 

 エリの言うことが呑み込めなくなった彩香は思わず口に出した。まばたきを繰り返してぐちゃぐちゃと溜まった涙に前が見えない。目をこすって目を開いた。そこで彼女は立ち上がり、「それはですね――」と胸に決意の握りこぶし。

 

「お兄ちゃんに告白させます、ここで!!」

 

 細い腕がビシッと伸び、カフェの先へ驚きとともに彩香の視線を連れていった。カウンター上は物が整理されて置き場のないメニュースタンドだけが残る。フィラメント型照明の下、閑古鳥が鳴くカウンターと椅子を背にほこり舞う通路。とうの昔にコーヒーの淹れ方なんか忘れていた。

 

「えぇ~~」

 

 彩香は休日の気が抜けた眉を精一杯寄せてエリに困り顔を向けた。負けじと彼女はテーブルに両手をついて大きな瞳で見つめ返し、だらしなく放り出された彩香の手を上から強く握った。

 

「手を貸してください、姉さま!」

 

 またしても彩香の心が揺さぶられる。アルバイトや契約社員ではお目にかかれない、純一からは聞いたことのない、目下の者から助けを求める真っすぐな心。『姉さま』という甘美な呼称に酔いしれ、少女に懇願されて言葉を呑んだ。エリの目を見てコクリと頷いた。喜ぶ彼女は饒舌になって雑談に興じ、楽しげに兄と遊んだ話をする姿から寂しそうな表情は思い出せなかった。窓から薄く入り込む日差しに彩香は満足していた。

 バスの時間が近づき、エリは一人で帰っていく。彩香は道路に出て塀の前で坂を下る彼女へ手を振った。角を曲がるまで見送ってから店内に戻り、空のグラスや完食された袋を片付けにテーブルへ向かった。

 

ズルッ

 

 前の足が内側に滑って後ろ脚がくの字になり、あっと言う間に真横に倒れた。肩口から半身がほこりにまみれ、床を巻き上がった灰色の粉を吸って咳き込んだ。両手で支えた上体の周りをほこりに囲まれ、また日常が戻ってくる。彩香は窓際の席へ目をやった。

 

「はぁ…。私、悪い女の子に騙されたのかな」

 

 エリが座っていた綺麗な椅子を見つめ、脱げたスリッパの脇に落ちる雑巾を拾い上げた。

 

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