エリは寒風が吹く外での会話を避け、桂木家の玄関に女神・メルクリウスを招き入れた。パッと電気が点く玄関ホール。メイド服を着た女神は寒さを感じないが、公園を歩き回って温まったエリの体は徐々に冷えてきた。下駄箱の上に苦労して捕まえた駆け魂の勾留ビンを置き、スニーカーを脱いで廊下に上がってトートバッグを階段の脇に置いた。
「適当に座って下さい。床暖房が点くんであったかいですよ」
「少女、一人で住んでるのか」
「いいえ。それに少女じゃなくて桂木エリです」
「なるほど、セレブの家ってやつだな」
土間にしゃがんだメルクリウスがホールの床を珍しそうに手でさすり、横を向いて太腿を乗せて寝転んだ。横たわる翼の背後に立ったエリはムッとした表情で彼女を見下ろした。頭からニット帽を取り、胸の前に握り締めて眉をひそめた。
「早く用件をおっしゃってくれませんかねぇ。こっちは急いでるんですけど」
「おぉ、悪い悪い」
あたふたと体勢を変えてメルクリウスは座り直し、エプロンの胸部分の裏に手を入れた。そして反応をうかがう目つきでエリへ長方形の物を差し出した。
「ほい、これを探しているのだろう」
「え、これですか」
エリは見覚えがないポシェットを受け取って金具を外して蓋を少し浮かせ、みちほの忘れ物だと確信した。角にボタンがある携帯ゲーム機。PFPしか知らないエリは彼女の目的がこれで片付いたと思った。早速、礼を言って帰ってもらおうと大げさに驚いて見せた。
「うわ~、ちょうど遊びに来たみちほが探していました。ご親切にありがとうございます」
「ん、彼女は住んでないのか」
「はい。いつも土日に来る親戚の子です」
「そうか、それは残念」
メルクリウスは足を投げ出して両手を後ろにつき、再びとろんとした目をして天井を見上げた。
「最近、歩美が『ひ孫の顔が見たい』って言うんだ」
「ハイハイ、お帰りですか」
土間に下りてエリは玄関のドアに手を掛け、心の中で「早く帰れ」と吐き捨てた。その悪態が伝わったのか、メルクリウスはムクッと前を向き、それまでと違うはっきりした口調に変わった。
「歩美はわたしの元宿主だ。もう九十のお婆さんだが、今も世話になってる」
「だから帰るんじゃ…」
「で、歩美の家には孫の男子がいてな」
「はぁ……」
単に恩義がある大家の話を聞かせた訳でないのはエリにも分かった。ただでさえ高校受験と駆け魂回収で忙しいのに、これ以上やる事を増やしたくなかった。彼女が口を半開きにした顔を向け、エリは嫌な予感がして視線を逸らせた。桂木家の廊下は数秒間静まり返った。
いきなりメルクリウスは立ち上がってエリに背を向け、下駄箱の勾留ビンを手に取って駆け魂の苦しそうな表情をLED灯に照らした。
「聞くところによると、人間は見合いをして結婚するそうじゃないか」
「えっ、誰に聞いたんです」
「あ、えーっと、店に来た客かな……だが百発百中らしい。ということで見合いのセッティングをしてくれたら、いいものをやろう」
「いいもの?」
「ああ。でもこれじゃ一匹しか入らないな」
勾留ビンの蓋を開けてメルクリウスが駆け魂をつまみ出して放り上げ、白い霊魂が弱々しく上へ浮遊した。エリは金塊や土地の権利書ばかりに気を取られていたが、天井を向いて慌てふためいて玄関ホールへ飛び上がった。
「ちょっと何するんですか。逃げちゃうでしょ」
「いやいや、ここなら問題ない」
女神の力を込めたメルクリウスは勾留ビンをバケツ大にして天井へ向けた。抵抗できない駆け魂はいとも簡単に中に吸引され、ビンが元の大きさに戻るとともに体長は親指くらいに縮んだ。彼女が蓋を閉めた勾留ビンを下駄箱の上にトンっと置いた。
「今の勾留ビンはリチャージブルできない仕様で魔力を使わないと普通の瓶だ。駆け魂を吸い込む距離は魔力にもよるが、十~二十メートル。小さければ複数入るし、魔力のコントロール次第で駆け魂以外も捕獲対象になる」
「へー。じゃあ、木の上にいる駆け魂も吸い込めたのか」
彼女の横に近寄ったエリが体を傾け、勾留ビンの底にポツンと転がる駆け魂を眺めた。これで回収に使うビンを節約できる。エリは駆け魂回収マニュアルを斜め読みし、勾留ビンの機能も中学校の帰り道で京太が熱心に話すのをふんふんと聞いた程度だった。女神は冥界の事まで知っているのかと感心してメルクリウスの顔を覗いた。
風船のように鼻水を膨らましてメルクリウスは立ったまま眠っていた。早く帰って欲しいエリは開いた口が塞がらず、彼女に感心して損した気分になった。
エリは玄関の反対側に行ってバッグから勾留ビンを一つ取り、すたすたと歩いて戻った。蓋を開けたビンの口をメルクリウスへ向け、魔力を込めると透明な筒は人がまるまる入る程大きくなって彼女を吸い込んだ。「神さま、勾留!!」。手のひらで掴めるサイズまで縮んだ。
「おととい来やがれ!」
ポーチに出たエリが勾留ビンを庭の高木のてっぺんへ投げつけ、葉が枯れ落ちた枝にビンが引っ掛かった。それでもメルクリウスは眠りこけ、玄関のドアは勢いよくバーンと閉められた。
ベルトを外してエリは両足をジーンズから抜いた。黒いタイツ姿になってくるくると丸めてベッド下の収納ボックスに仕舞い、ウエストがゴムの部屋着スカートに早変わり。学習机の上に問題集タブレットのスイッチが入り、椅子の背にブルゾンが掛かった。勾留ビンが詰まったトートバッグや段ボールはクローゼットに隠し、捕まえた駆け魂のビンは机の一番下の引き出しに入れた。いつ彩香が帰ってきても部屋で勉強していたと言える環境が整い、キッチンから運んだコーヒーカップを持って菓子パンをかじってベッドの端に腰掛けた。部屋に漂うインスタントの香りは疲れた心身をリフレッシュさせた。
外から二階の部屋にコンコンと叩く音が響いた。エリは口にパンをくわえて机にカップを置き、窓に近づいてさっとカーテンを引いた。天使の輪の下に恨めしそうに口を開ける顔が映った。
「ずいぶんとひどい仕打ちじゃないか」
錠前が弾け飛んで窓がガラッと開き、宙に浮いたメルクリウスが頭から部屋にスーッと侵入し、ベッドの横にふわりと立った姿勢で静止した。机の側に退いたエリは床へ視線を落とし、彩香に言い訳できない壊れた金属片に顔を曇らせた。「蓋を閉めておけば良かった」と悔い、口にくわえるパンを食い千切った。
メルクリウスは眠そうな表情こそ変わらないが、先程と違って長い前髪が顔の左側に垂れて右目が見えた。エリに対して片腕で抱えるボール状の透明なガラス容器を得意げに指し示した。
「ほら、店に帰って『いいもの』を取ってきたぞ」
「ぶーん。ばびばのびべ物ですか」
「煎餅が入っている。まあ、欲しければ見合いをお膳立てすることだな」
煎餅の丸い瓶にメルクリウスは自信を持っている口振りだった。エリはごくんとパンを飲み込んでチラッと目をやり、魔力が上がる食べ物か、あるいは、武器として使えるのだろうかと顎に手を当てて考えた。回りくどい事をしているが彼女の目的は歩美の孫との見合いの依頼である。頼み方を知らないのは女神だからだとしても、煎餅と見合いの取引はエリを困惑させた。見合い相手を桂木家に当てはめると孫世代の女性は彩香になる。役に立つかも知れない煎餅と引き換えに、二週間後に父が用意した見合いを控える彩香に別の見合いをさせて良いものか。
「う~ん、お見合いを勝手に決めちゃうのもなぁ」
腕を抱えたエリがガラス瓶へチラチラと目を動かし、少女の様子にメルクリウスは息をついた。
「ふむ、その目はこれの性能を疑っているようだな」
「え、そんなことないですよ」
「分かった、威力を見せてやろう。百聞は一見にしかずだ。この言葉は歩美が店でしょっちゅう使うから覚えている」
「えぇっ、ちょっと待って下さい…」
エリは椅子に掛かったブルゾンを取り、頭にかぶって床に伏せた。女神の力で軽くアルミの錠を破壊した事を考えれば、煎餅も結構な威力があると考えられた。メルクリウスはバラバラと床に煎餅を巻き散らかした。覚悟してエリが目をつぶると、次の瞬間には体が持ち上げられた。真っ暗な空、それぞれの腕に少女と丸いガラス瓶を抱く女神は海の方へ飛び去った。
一、二分暗闇を飛行して周りに何もない芝生に着地した。前からの風を受けて急激に体感温度が下がり、エリは下ろされてすぐブルゾンに袖を通した。タイツを履いた細い両脚に少女が着る膝下のスカートから風がスースーと入り、冷えた体を温めようとブルゾンのポケットに手を入れてその場でぴょんぴょんと飛び跳ねた。
二人が下り立ったのは舞島緑地公園の真ん中。照明灯が辛うじて届く芝生にメルクリウスはメイド服のスカートを広げてあぐらをかき、股の間にガラス瓶を置いてのんびりと蓋を回した。
「この煎餅ビンの内側は術を施してあるんだ。元々店で使い古して置いてあったのを見て何かに使えるなと思って作ってみた。けど、使うのも面倒だから売れ残りの煎餅を入れて――」
「もぅ、そんな話は帰った後でいいでしょ。早く見せて下さい」
寒さに震えるエリが風になびく髪を口にくわえながら声を張り上げた。メルクリウスはこくりと頷いた。丸いビンの側面を両手で持って平たい底を芝生に押しつけ、少し離れて立って女神の力を込めた人差し指を上空へ突き上げた。
「はぐれった駆け魂、このビンたーまれ!」
メルクリウスは煎餅ビンへ向かって腕を振り下ろした。彼女の指先からまばゆい光が放たれてビンを包み、十秒、二十秒、三十秒と時間が経った。何も起こらないのかと思ってエリが近づくと、ガラスがブルンッと振動し、中からキュイーンと回転するモーター音が聞こえ始めた。
その後の圧倒的な光景にエリは寒さを忘れた。最初は遊歩道の溝、二匹目は自販機の下、三匹目は向こう側の芝生に生える木の上と、だんだん遠い場所から流れ星が移動するように一直線に駆け魂がビン内へと吸い込まれた。駆け魂はぎゅうぎゅう詰めで煎餅ビンに六匹まで入ったが溢れた残りは口の外で山積みになり、最終的に三十匹以上の駆け魂でガラスの上に白い柱ができた。メルクリウスがしゃがんで底部を持ち上げ、目を奪われたエリは腰を屈めてちょんと指で突っついた。
「へぇー、ぜんぜん動かないわ」
「それは宿主のいない弱った駆け魂だ。煎餅ビンは市販の勾留ビンより吸い込む力が弱くて魔力の強い駆け魂には効果がない。が、その分広範囲に及ぶんだ。半径三百メートルくらいかな」
「ねえ、この駆け魂ってずっとこのままなの」
「いやいや、これ自体はただのガラス瓶だからこうすると……」
ビンを胸で抱えてメルクリウスは外側の駆け魂を手で払い落して蓋を閉めた。落ちた一匹が風で飛ばされ、エリが大慌てで芝生に膝をつけた。左右の手に二匹は掴めたものの、他の駆け魂はすべて公園に吹く強風に乗ってどこかへ行ってしまった。
「あーあ、飛んでっちゃった。あ、でも六匹は捕まえてるのか」
エリは膝で立ってビンに残った駆け魂へ顔を向けた。メルクリウスが言おうとした言葉の続きは何となく分かった。煎餅ビンは蓋を閉めると駆け魂に対する吸引効果が失われる。勾留ビンへの入れ替え作業は必要になるが、センサーでも見つからない駆け魂の回収にうってつけだった。これは手に入れなければならないという感情がエリの心に沸き上がった。
風で飛んだ葉っぱがガラスに貼り付き、メルクリウスはつまんでポイっと捨てた。交渉の大勢はすでに決まった。煎餅ビンを両手で抱えて立ち上がり、物欲しそうに見る少女を見下ろした。
「明日は日曜日だな。午後から見合いできるか、桂木えり」
「はい、ぜひ家にお越し下さい」
満面の笑みを浮かべてエリが両手の駆け魂を強く握った。人づてに見合いの情報を得たメルクリウス。彼女は見合いをするだけで煎餅ビンをくれると言っているのだ。皮算用を始めたエリは彩香には三十分カフェで座っていてもらえば良いと、軽い気持ちで女神の依頼を引き受けた。