桂木家に彩香が着いたのは完全に暗くなってから、予定の午後六時は大幅に過ぎた。ハンドルを切って車道から駐車場に入ると玄関ポーチへ向かうエリが見えた。彩香はエンジンを切ってドアを開け、顔を向けた彼女へ手を振った。
「お-い、何やってんのよー」
「あ、お帰りなさい」
エリは短く挨拶を返してそそくさと玄関に入った。急いで下駄箱を開けてスリッパを二足出し、ホールに並べて片方につま先を入れた。弱った駆け魂を吸い寄せる煎餅ビンに目がくらんだ彼女は持ち主の女神・メルクリウスに媚び、「部屋まで運んでやろう」と言われたが遠慮してスロープで別れた。帰ってきた彩香と鉢合わせするのは計算外だった。ブルゾンの左右のポケットから駆け魂を出してきょろきょろと見回したが、刻々と駐車場からポーチへと足音が迫って両手をポケットの奥に突っ込んだ。
怪訝な顔をして彩香は玄関のドアを開けた。部屋で勉強しているはずのエリが上着を着てどこかへ行っていたように見え、ホールでニコニコと出迎えた彼女はファスナーを開けて下から部屋着のトレーナーとスカートを覗かせた。彩香は手に提げたビニール袋を下駄箱の上に載せ、かかとに指を入れて靴を脱いで框に足を上げた。
「どうしたの、ブルゾン着てるじゃない」
「えへへ、なかなか帰ってこないから外へ見に行ってたのよ」
「そう。遅くなってごめんね」
正直、エリの言動には疑わしいものがあったが、だからといって何の証拠もなく怒る訳にいかなかった。話を合わせた彩香はビニール袋から半透明のタッパーを出してエリに見せた。
「母さんが作った煮物をもらってきたの。それとコンビニで買った弁当で今日は夕食にしましょ、少し早いけど」
「じゃあ、手を洗ってくるわ」
素直にエリが廊下へ走っていき、彩香はふーっと息をついてスリッパを履いてビニール袋を手に取った。
ダイニングで席に着いた二人は上着を隣の席に置いて手を合わせ、弁当の蓋を取ってテーブルに置いた。コンビニ弁当の脂っこい唐揚げをエリはおいしそうに頬張ったが、向かい合う彩香は少々胃に重く感じた。こういう時はタッパーに入ったニンジン、ごぼう、しいたけのあっさりした母の味付けが有難かった。
食事が終わって彩香が流しでタッパーやコップを洗っていると、カウンターにエリが近寄って上目遣いで手を組んだ。
「姉さま、明日はどこにも行かないよね」
「え、明日は…。ああ、お姉ちゃんとこに見合いの服を貸してもらいに行くわ」
「それってすぐ済むんでしょ」
「まあ、そんなにはかからないかな。でも何で?」
「うんとね。午後からカフェでコーヒーの試飲をして欲しいんだ」
見つめるエリの瞳は彩香に桂木邸での朋己の顔を思い起こさせた――スマホを持ってリビングから戻った彩香が二階の廊下に上がった時、シクシクとすすり泣く声が聞こえてきた。朋己を残した和室からであった。入り口に近づくと話しかける声がして耳をそばだてたが、何を言っているかは聞き取れず彼は号泣に変わった。彩香は入っていくタイミングを逸し、一人ただ廊下にたたずんで腕をさすった。しばらくして部屋は静かになった。畳の上を忍び足で歩いて仏壇の前へ行くと、正座する彼が振り向いた。赤く目を腫らして笑う朋己にぎこちない微笑みを返し、畳にぺたんと座ってどぎまぎして祖父の遺影に手を合わせた。
朋己を舞島学園の寮に送っていく車中、彩香はそれとなく悩み事がないか聞いた。状況から嬉しくて泣いたとは思えなかった。だが彼は相変わらず心の内を語ろうとせず、姉として頼りにされていないと思うと無力感を覚えた。
彩香が洗い物をする手を止め、シャワーヘッドからの水はザーザーと排水溝に注がれた。流しを覗いたエリはカウンターに両手をついて不満げに見上げた。
「ちょっと~、わたしの話ちゃんと聞いてるの」
「えっ。なんの話だっけ」
「ヒント、『コ』から始まる黒い飲み物」
もう一度関心を向けた彩香へ、エリが人差し指を立てた。彩香は水道を止めて彼女の得意そうな表情に見入った。
「そういえば、明日コーヒーを淹れてくれるとか…」
「うんっ。それで姉さまは黙ってカフェに座っててくれればいいから」
「へぇ、自信があるのね。少しは腕が上がったのかしら」
「そりゃあ、もう……フフフフ」
明日はカフェに彩香を座らせ、そこへメルクリウスが歩美の孫を連れてやってくる。コーヒーを淹れて飲ませている間に時間が過ぎれば見合いが成立して煎餅ビンをもらえると計算した。エリは力こぶを作ってニヤニヤと笑った。
「なーに、いきなり変な顔しちゃって」
コップを水切りかごに入れた彩香は手で口を押さえてくすくすと笑った。兄と違って面白い顔をする子。エリの面倒を見るのが今は自分の役割なのだと思えた。幸い、朋己は養子の件で家裁審判が確定する日まで志穂と定期的に連絡を取り合う。彼の気がかりな行動は母に話して対応を委ねようと思った。
彩香はシンク扉に掛けたタオルで手を拭き、スリッパをパタパタさせてキッチンの角を回った。
「あ、エリ、待ってちょうだい」
「ん?」
ブルゾンを腕に抱えたエリがリビングの戸の側で立ち止まり、彩香は椅子からスタジャンを手に取って早足で彼女の元へ向かった。
「試験の木曜はすぐよ。今日はちゃんと勉強してたの」
「うん。志穂母さんからもらった問題集は全部終わらせたし」
「じゃあ、昔の舞島学園の動画見せてあげるわ」
彩香の方が戸を引いて廊下を先立って階段を上がった。二階の廊下を奥に進んだ彩香はぶるっと震え、小窓が開いてないかトイレ横の手洗い場へ振り返った。なぜか奥の空気は冷たいのだ。目をさらす彩香の脇をエリが擦り抜けて自分の部屋に入っていった。
部屋に入ってエリはまず床に転がる壊れた窓の錠を学習机の下へ蹴っ飛ばした。次に散らかった煎餅をつま先で一ヶ所に掻き集め、その上にブルゾンを掛けて覆い隠した。女神が訪ねてきた事は話せないし、明日の見合いも寸前まで知られてはいけない。怪しいものを片付けてビュービューと風が入る窓へ走った。
エリの部屋に足を踏み入れた彩香は床に落ちている煎餅を拾い上げた。窓際でエリは閉めた窓にカーテンを端まで引っ張り、振り返って苦笑いを浮かべて頭を掻いた。
「アハハ、窓を開けたままだった」
「寒い部屋ね。あんたたち、お菓子食べながら何してたの」
「え、あ、それはみちほが持ってきて…」
「ふーん、母さんの問題集は用意してあるんだ」
彩香は部屋を見回しながら学習机に煎餅を置いた。ほとんど口をつけていないコーヒーのカップがほったらかしで、受験勉強をしていたように取り繕った感じがした。机上を眺めて本来は説教すべきなのだろうと考え込んだ。
腕を抱える彩香の背後にエリは音もなく回り込み、背中から抱きついて体の方向を変えた。
「姉さまの部屋行こうよ。舞島学園の動画見せてくれるんでしょ」
「うーん、そうねぇ」
「さ、早く早く。時間がもったいないわ」
背中をエリが部屋の扉へ強引に押した。彩香は受験直前の大事な時期にストレスを与えるのは良くないと考え、試験が終わるまでは多少の横着や我がままを大目に見ることにした。今はまだ仮の姉妹だが、彼女が中学を卒業する頃には正式に養子縁組が認められる。廊下に出た彩香は「制服も残ってるのよ」と納戸の入り口を指差し、肩を組んでエリに微笑みかけた。
黒田家の一階にあるテレビのない居間は主にプライベートな客の応接に使われ、二世帯が朝晩の食事と水回りを共有する母屋において端の部分は台所や風呂と離れを結ぶ生活導線でもあった。
夕食の片付けを終えた美雪はカーディガンを羽織って湯呑みを持って台所を出た。廊下側の隅に行って台の前で壁に掛かったカレンダーに目をやり、日曜日の欄に書かれた「寺」の字を確認してお茶をすすった。少しして戸が開き、居間に頭頂部の薄い男性が入ってきた。彼は美雪の義父である。彼女は台に湯呑みを置いて申し訳なさそうな顔で振り返った。
「お湯冷めてませんでしたか。裕太が勝手に入ったせいで」
「いや、いい湯だったよ」
義父は上に着た袖のないダウンジャケットを手であおぎ、彼女が見ていたカレンダーへ目を向けた。
「美雪ちゃん、午前中は掃除だろ。みちほが起きたら朝食は食べさせておくから」
「いえ、いいんです。あの子も中学生だから自分でやらせないと」
「まあまあ、遠慮しない遠慮しない。それじゃ、お休み」
気さくに話しかけて彼は真っ直ぐ部屋の端まで行き、渡り廊下の扉を開けて出ていった。美雪は壁へ体を向けて吐息をついた。大学を中退して従兄・真裕とのでき婚から十五年。黒田家に転がり込んだ時こそ驚かれて遠慮もされたが、今では義理の娘より姪への応対に近かった。気の強い彼女は母・志穂が訪ねてくる度に言う「迷惑を掛ける娘」という嫌みに反発し、なるべく義母や義父の助力を仰がずに子育てをしてきたつもりだった。しかし、現実は聞き分けのない裕太と京太は言わずもがな、みちほは小さい頃から義父に頼るのが常態化してしまっていた。寺の掃除は必ず夫婦で参加する決まりであり、二人のいない間に朝遅く起きたみちほがスマホで離れの祖父を呼び出すのは目に見えた。
廊下からドンドンと床が響いて脱衣所の戸が閉まった。みちほがゴキゲンな時は廊下を跳ねる音が大きく、今夜は部屋で夜通しゲーム三昧なのかと美雪は頭を押さえた。育て方を間違えたと後悔の念に駆られていると、台上で統合端末のディスプレイが光って反射的に受話器を取った。
「はい、黒田です。いつもお世話になっています」
「こんばんは、美雪姉さん。ちょっとみっちゃんとお話したいんですが」
「エリちゃんね。ごめんなさい、みちほは今お風呂に入っているの。もしかして、昼間何かあったのかしら」
「あの、それがその……」
エリは送ったメッセージが読まれないので心配になって電話をかけたのであって、美雪に桂木家で行われる見合いの話はできなかった。だが、うまく彼女の耳に入ればみちほも明日はすっぽかせないと思った。
「実は今日、ボサボサの髪で廊下に出てきて配達の人に変な目で見られました。そのせいでへそを曲げちゃって」
「ま、あの子が怒ったの。珍しいわね」
「ええ。ちゃんとブラシで髪をとかしたら可愛くて非の打ち所がないのに」
「ありがとう、褒めてくれて。でも少し褒め過ぎよ」
「いいえ、みっちゃんは元がいいからもっと自信を持って欲しいんです。明日の朝、出かける前に洗面所で身だしなみを整えて来れば突然人が来ても問題はありません。あ、午後は他に人が来ますけど…」
「ふふふ、分かったわ。明日はきちんとした恰好でみちほを行かせるから」
「はい、よろしくお願いします。お休みなさい」
みちほが見合いの手伝いに来るのが確定し、エリは声を弾ませて電話を切った。美雪もみちほを何かと心配してくれるエリを面倒見のいい子だと感心して統合端末のカメラへ微笑んだ。桂木家に預ければ義父の手を煩わせることなく一石二鳥だった。
居間を出た美雪は廊下の奥へ向かった。みちほの部屋の戸を開けてずかずかと布団を敷きっ放しの小上がりに近寄り、掛け布団をテレビ画面側の端から引っ繰り返した。案の定、横置きしたゲーム機とコントローラーが現れた。彼女はディスクの回転音が唸るゲーム機の後ろから電源ケーブルを引っこ抜き、畳から膝を下ろしてパンパンと手についたほこりを払った。
「桂木家に人が来るとしたら純一君たちか母さんぐらいね。そうか、養子の件で……それじゃあ大人びた服は禁物だわ。子どもは子どもらしくってよく言ってたし」
小上がりの側にあるクローゼットを開け、ポールに掛かったハンガーを一つ一つ手に取った。志穂の眼鏡に適う服装がないかと探した彼女は去年買った一着のスカートが目に留まった。みちほが小学校の卒業式に履いていき、その日に撮った写真は居間に飾ってある。初めて見た志穂が思わず目尻を下げた写真だ。これなら文句を言われないだろうと美雪は大きく頷いた。
―― 次章予告 ――
午後、桂木家に少年がやってきた。煎餅ビンを受け取ったエリがカフェで見合いを始め、彩香は小首をかしげて黒田家へ出かけた。そして、みちほが家に帰ると夕食がパーティに… ⇒FLAG+19へ