中学三年のエリは悪魔の魂を持つ少女。実兄・朋己と離れ、桂木家で彩香の妹として暮らした。
エリの卒業まで二ヶ月を切り、兄妹揃って正式な養子となるため、朋己は彩香と鳴沢市の桂木邸を訪れた。彩香と二人になった彼は見合いの話を聞き、前向きな彼女の言葉に肩を落とした。
舞島市ではエリが公園で弱った駆け魂を探し回った。一匹しか捕獲できずに帰ると、女神・メルクリウスが待っていた。彼女は世話になる歩美の孫との見合い話を持ち掛け、『いいもの』をくれると言った。暗い夜の公園、彼女の煎餅ビンは弱った駆け魂を次々と吸い込んだ。光景に見とれたエリは明日の桂木家での見合いを快諾した。
エリは桂木邸から帰った彩香にコーヒーの試飲を頼み、黒田家に電話をしてみちほが来る手はずを整えた。
エリによる見合いは彩香を前提に画策され、座っていれば良い極めて安直なものだった。
思惑こもごも
メルクリウスと約束した日曜日。桂木家の昼食は早めに済み、時刻は正午を過ぎた。カフェでは彼女が連れてくる人物との見合い準備が少女たちによって着々と進められた。
気だるそうなみちほの顔は血色が良く、髪はしっかりとブラッシングしてあった。昨夜、風呂上がりに部屋の戸を開け、小上がりに座る母・美雪が足を組んでゲーム機を叩くのを見て怒られると凍り付いた。が、母は予想外にニコニコして畳んだブラウス、吊りスカート、タイツを脇に置き、明日の朝起きて寝ぐせを直して桂木家へ行くよう言いつけた。みちほは向こうに着いてから寝れると踏んで夜中まで乙女ゲームをやり、2D美少年の声で目を覚まして髪をとかして身支度し、朝食後に美雪が運転する車で送ってもらった。
「せっかく、エリ姉のメッセージ無視してたのに。母さんに告げ口した奴は誰だよ」
みちほは床を掃くのが面倒になり、箒を後ろのカウンターに立て掛けた。椅子に浅く腰掛けた尻を丸い座面を跨ぐように後退させ、装具を付けた足首を反対の膝に乗せてあぐらをかいた。履いてきた赤いチェック柄のスカートの丈は一年足らず前に膝が出るくらいだったのが、十センチ以上も背が伸びてその分スカートの裾から余分に白タイツの太腿を覗かせた。
カウンター席後方は快晴の日差しがガラス張りの窓から射し込んで床が温かかった。みちほは祖父がチョッキ代わりにするダウンベストを借りて上着にしていた。寒いと感じないものの、カフェは換気のために窓が少しずつ開いて時折冷たい風が吹き抜けた。
「へぇっ…へくしょんっ」
「あ、そうだ、そろそろ窓を閉めとかないと」
カウンターの中のエリはコーヒーカップを拭く布巾を置き、飛び出してテーブル席の窓を下げて回った。ちょこまかと作戦の準備に余念がない彼女に、みちほは片肘をついてカウンターに寄り掛かって視線を送った。
「そんで今日は何すんのさ」
「な、なんて恰好。その短いスカートであぐらはやめなさい、みちほ」
「だって、この方がラクなんだもん」
「ここは家じゃないし、これから男の人が来るのっ」
ガラス張りの窓を閉めて振り返ったエリが血相を変えるも、悪びれる様子もなくクロスさせた足のつま先でカフェのスリッパがぶらぶらと揺れた。彼女はみちほのはしたない座り方に渋い顔をして近寄った。両手でスリッパを装具のベルトまではめて足掛けに下ろすと、隣の空いた席にスカートの裾を整えて腰を下ろし、両膝をみちほへ向けてその上に手を置いた。
「もぉ、みちほがソファーで寝てる間にカフェを一人で掃除してたのよ。ちょっとぐらい真面目に手伝っても……まあ、いいわ。メッセージは読んでくれた?」
「目は通したけどさ。コーヒーの試飲が叔母さんの見合いとはならないだろ」
みちほはもたれてない方の肩をすくめた。昨夜は母にデータを消されたゲームを元のところまでやり直し、メッセージは寝る前に一読しただけだった。作戦をあざける態度に思えてエリは心中穏やかでなかったが、怒りを押し殺してわざと口元を緩めた。
「チッ、チッ、チッ。リアルは別々のイベントを同時にこなせるのだよ」
出し抜けにエリが人差し指を振って胸を張り、みちほは乙女ゲームをバカにするかのような物言いにムッとした。股の間に両手をついて前傾姿勢で食ってかかった。
「だったら、その作戦を教えてもらおうじゃんか」
「ふふふ。いい、女神様御一行には彩香さんは予定があるから、見合いは三十分と断って同じ席に着いてもらうの。そして一言も『見合い』と言わず、偶然入ってきた男性とコーヒーの試飲を始めるのよ」
「偶然って…どうして入ってくんだ。それにカフェは開店休業中なんだぜ」
「塀のロープを外してあるし、看板もOPENに変えてあるわ。あとはみちほとメルクリウスさんが加わって4人でテーブルを囲めば、改まった感じがしないから彩香さんも怪しまないはず。みちほはうまく会話をコントロールしてね、乙女ゲームみたいに」
「はぁ。本気か、エリ姉」
エリの自信満々な顔を目の前にし、いつにもまして行き当たりばったりな作戦に目をパチクリさせた。いくら人のいい彩香でもエリが正体の分からない男性をコーヒーの試飲に参加させて不審を抱かない訳がない。みちほは目をつぶって記憶しているメッセージを頭の中で黙読した。文章は女神・メルクリウスが来た事のアピールから始まり、続いて作戦の内容がざっくりと書かれ、文末は「明日は煎餅ビンを手に入れるぞ!!」で締めくくられた。
カウンターには白い布地と布が付いた湾曲する細い物が置かれた。それらを取ったエリが椅子から下り、スカートの後ろでギュッと紐を結ぶと腰に手を当てた。
「それじゃあ、わたしの淹れるコーヒーを飲んでしっかり目を覚ましてね」
「なあ、煎餅ビンって一体何なんだ」
「え、何って煎餅を入れる瓶に決まってるじゃない。それより、どうかしらこの恰好。二階の納戸で昨日見つけたんだけどウェイトレスの制服の一部らしいのよ……フフッ」
エリはフリル付きの前掛けとカチューシャを身に着けて小悪魔のような笑みを浮かべた。部屋着のトレーナーとスカートの上に少しカッコ付けただけの彼女が嬉々として通り過ぎ、みちほは再び片脚であぐらをかいてふくらはぎをポンと叩いた。
「こりゃ、かなり熱を上げてるな。だとすると…」
煎餅ビンが欲しくてたまらないエリが強引に事を進めようとしているのだと察し、今回は早々に失敗すると高を括った。みちほが家に帰ってやることは一つ。昨日迎える予定だった乙女ゲームのエンディングを想像してへらへらとにやけた。おそらく、最後は異世界ファンタジーで一緒に戦う美少年との濃厚なキスシーンが待っていた。
背中の白い翼を水平に広げたメルクリウスが住宅街の数十メートル上空をグライダーのように悠然と飛んだ。煎餅のガラス瓶を持たせた少年を胸に抱え、前髪から出たとろんとした片目で真下の家々から桂木家を探した。彼女はお目当ての三角屋根を見つけると、円を描きながら高度を下げていった。
メルクリウスは歩美夫婦が経営する煎餅店でメイド服を着て来客への応対と配達を担い、店舗兼住宅で彼らと家族同然に暮らした。この少年こそが見合いをさせる歩美の孫だった。玄関ポーチに下ろされたジャージ姿の夏也はガラス瓶を手渡すなりブルブルと震えて腕や太腿をさすった。
「う~、さぶさぶ。空飛ぶのがこんなに寒いなんて」
「まあまあ、桂木家には床暖房とやらがあってすぐ体が温まるからな」
ガラス瓶を片腕に抱えてメルクリウスは遠慮なく取っ手を引いたが玄関ドアは重くて開かなかった。ぽかんとした顔が後ろへ向き、夏也はポケットに手を突っ込んで首を横に振った。
「玄関は施錠するのが普通なんだ。メルが配達に行く田舎の方はそうじゃないけど」
「それでは家の中にいる人が出れないのだが…」
「中からは普通に開くんだよ。外からは取っ手のセンサーで指紋認証をしてるんじゃないかな」
「そうか。では、直接彼女を呼ぶか」
メルクリウスは玄関ポーチの手すりまで下がって二階の窓を見上げた。手を口横に当てて今にも叫ぼうとする彼女へ、慌てて夏也は両手を大きく広げた。
「うわー、ダメダメ」
必死な形相の夏也が口の前に人差し指を立て、唇を震わせて「しーっ」とメルクリウスの顔へ唾を飛ばした。
「家の人が出てきたら困るんだよ。彼女と二人きりになりたいのに」
「それなら後から二人にしてもらえば良いではないか」
「甘い、甘いぞ。世の中は素直に娘との交際を認める親ばっかじゃないんだ」
「そうなのか。聞いた話では親が見合いを勧めるはずだったが」
微妙に会話が噛み合っていない原因は社会常識のないメルクリウスが言う「見合い」をデートと解釈したせいだが、夏也はそんな些細な違いは気にしてなかった――商店街で見かけたスラッとした女の子。気が強そうな澄ました顔の彼女と一度話してみたい――欲望を胸に秘めてこの機会を逃すまいとやってきた。
「いいかい、メル。女子と仲良くするには雰囲気が重要だから、見合いは邪魔が入らないようにしなくっちゃ」
「お、おう、分かった」
メルクリウスはいつになく積極的な夏也に戸惑った。普段は明るく爽やかな少年があわよくば一気にラブラブな関係を築こうと目をギラつかせ、唾の垂れた指を振って彼女のエプロンに染みを付けた。
一案を思いついた夏也がポケットからスマホを出し、画面にせかせかと指を擦らせた。メルクリウスは頭を掻きながら反対側から覗いた。
「もう見合いの時間だぞ。一体、何をしているのだ」
「桂木だっけ、家庭電話の番号が市民電話帳に載ってないかと思ってね。電話をして彼女だけ出てきてもらうんだよ。えーっと、ここら辺だと美里西かな、それとも美里南かな」
「夏也、お前も女にマメな性格だな」
あきれたメルクリウスは手すりに腰掛けて右左と目を向けた。左の方向には多角形の建屋の上げ下げ窓から屋内が見え、明るい奥にチラチラと影が射した。中に誰かいるのだろうかと彼女は玄関ポーチから庭土に足を踏み入れた。
電話帳サイトに「桂木」の記載を見つけられず、夏也は顔を上げて辺りを見回した。スマホを操作する間にどこかへ行ったメルクリウスは三角形の壁に挟まれる空間にしゃがみ、桂木家から飛び出した建屋の窓を角度がない方向へ斜めに覗いていた。彼女の後ろに立った夏也は窓から雑然と並ぶ二人用テーブルと椅子を見て使われてない店舗だと思った。
「へぇー、面白い形してるなあ。ああ、あそこが入り口だ」
「そっちじゃない。反対側をよく見てみろ」
メルクリウスが教えた方向はガラス張りの窓があり、その上半分は彼女が女神の力で鏡に変えたことよってカウンター席の様子が映った。夏也はショートカットの少女の横顔を見つけるや否や身を乗り出した。
「あの子だ、今日は髪留めしてるのか。なんだか前と違う感じがする」
店の奥へイタズラっぽく笑いかける表情が夏也の興味を掻き立てた。ドスンと彼の体重が背中にのし掛かり、メルクリウスは顔をしかめた。
「う、浮かれるのは早いぞ。彼女の後ろで動いてる家の者は邪魔なんだろ」
「あれ、奥にいるのは確か……」
「桂木えりだ。私は眠らせる術は使えないがどうする?」
鏡の隅に映るエリを指差してメルクリウスは振り返った。だが、すでに彼は行動していた。
「夏也、どこへ行くんだ」
メルクリウスに背中を向けて歩き出し、夏也は肩を押さえて腕をぐるぐると回した――転校してきた瞳の大きいキュートな女の子。クラスが違う彼女と落ち着いて話ができる――滅多にない機会に意気込んだ。しかも、期せずして両手に花状態になって嬉しくないはずはなかった。
「エリさんは一緒でも別にいいんじゃないかなぁ」
「な、さっきは『二人きりになりたい』と言っていたではないか」
夏也の移り気にメルクリウスが目を大きく見開いた。彼女は口に出さないものの、彼にも歩美のように長く添い遂げられるパートナーを見つけて欲しいと思っていた。もっとも、食う寝るに困らない高原煎餅店は居心地がよい快適な生活拠点であり、夏也が跡を継いで店を守ってくれるのを期待しているからでもあった。
「やれやれ、人間とは現金なものだな…」
メルクリウスは膝に手をついて立ち上がり、夏也の跡を追ってカフェの入り口へと向かった。